第一章.金の虚像と剣の花 2
男に麓の町に着いたと言われたのは、もうあたりが真っ暗で気温が格段に落ちた夜中のことだった。
とは言え、真夜中にはまだ何時間かあるだろう。逆算してみると、男は人を担ぎながら4時間ほどで山を下りたことになる。普通では考えられない驚異的な早さだ。
見れば確かにフィーラを担ぐ腕は太くて堅いし、足も隆々として逞しい。だが背丈が高いせいか、全体としてさほど筋肉質には見えない。
「町の外れに馬を隠してある。それに乗って、今からそれでなるべく遠くまで行く」
走りながら男が言う。
遠くとは一体何処なのか。聞いたら男は答えるだろうか。フィーラは聞くかどうか暫し迷ったが、結局聞くことにした。
「王都」
男は案外簡単に答えた。
しかしフィーラの脳は逆に混乱する。王都はここからとても遠い。王都に行ってどうするのか。そもそも男の目的は何なのか。何故フィーラを連れて行くのか。何故急ぐのか。
聞くべき事は山ほどある筈だ。しかし考えがまとまらず、何を聞けば良いのかも分からなくなった。
暗くて視界の悪い町の中を、男は迷うことなく進む。もう遅いためか、人の姿は見えない。
人家も店もない寂れた区画の使われているのかいないのかわからない小屋の裏に、如何にもよく走りそうな馬が二頭縄で繋がれていた。軍馬みたいに筋肉がしっかりして毛並みも良い。一頭は黒毛でもう一頭は茶色だ。
男は黒い方の馬に近づくと頭を撫でる。
「ダニス、もうひと踏ん張りだ。頼むぞ」
馬は男の声に反応したのか、勇ましく鼻を鳴らした。
その反応に軽く笑った男は、すぐにフィーラを肩からおろして立たせると、ぐるぐる巻いてあった布を取り去り、小屋の中に隠した。
そしてフィーラを馬に乗せ、ついで自分がその後ろに乗った。
「行くぞ」
後ろで声が聞こえた途端、馬が勢いよく駆けだした。
フィーラは抵抗しなかった。自分自身、どうすれば良いのかわからない。もうどうにでもなれ、と自分のこれからを投げ出してしまっている自分がいた。
町の仄かな明かりが見えなくなる頃、エンマの顔と一緒に、マグラスの顔が浮かんだ。
今頃何処にいるのだろう。
エンマの死を知って、あの男は泣くのだろうか。
エンマが死んで、フィーラと二人で暮らすはずが、いなくなって喜んでいるだろうか。
それともまだエンマが死んだことも、フィーラがいないことも知らないのか。
あの冷たい灰色を見ることはきっともう無いのだろう。
そう思うと、フィーラの胸が少し軋んだ。
どちらにしても、もうあの暖かな場所に戻ることはできない。
フィーラは山奥での、慎ましいながらも穏やかな暮らしを永久に失ってしまったのだ。
フィーラの乗った黒い馬が、真夜中の暗い闇の中を、瞬く間に駆け、闇に溶けていった。
◆◆◆
お尻が痛い。
そう思って目を覚ますと、馬はまだ走っていた。
ぼやけた頭であたりを見渡すと、そこは広い草原。
ぽつりぽつりと小さな人家が見えるが、他には何もない。地平線には上ってきた太陽がのぞいている。
ずっと山奥にいたフィーラにとって、見たことのない光景だった。おもわず風に揺れる緑の広大な大地に目を奪われる。草花が光を反射して輝いている。
フィーラの瞳から涙の粒が溢れる。
瞳から溢れた雫は朝日を浴びてキラキラ光り、金糸の様な髪が風を受けてなびく。
それは美しい光景だった。
「おい。大丈夫か」
互いの体が密着する馬上で、フィーラが目を覚ましたことは最初から気づいていたであろう男が、声をかけてくる。
何を聞いているのかわからず、フィーラは後ろを振り返った。
フィーラは自分が泣いていることに気づいていない。目にも力がなく、フィーラの容姿と相まって、今にも消えてしまいそうな儚さがあった。
男の顔が苦く歪む。
風でフィーラの頬の涙の後がだんだんと乾いてゆく。
「いや、……もう少しで小さな町に着く。そこで少し休む」
出かけた言葉を飲み込んで、男はそう告げた。
「……」
フィーラは男の不可解な言動をさほど気にすることなく、姿勢を元に戻した。
そして雄大な草原にまた目を向ける。
光の方へ伸ばされた手が、空をさまよい、空を切る。
開いた拳には露程の光もありはしなかった。
馬上の二人がそれから一言も発することなく、一刻は過ぎた頃、彼方に豆粒大の町が見えた。
茶色にしか見えないのは、町を覆う壁だろう。
そういう町を通るには、通行証がいると聞いたことがある。フィーラはそんなもの一度も目にしたことがないが、町には入れるのだろうか。
しかし、勝手にフィーラを連れてきたこの男が町に行くと言っているのだから、フィーラの分は無くても入れるのかも知れない。もし入れないとしても、フィーラをおいて男だけ入ることもできる。
それでもフィーラは一向にかまわない。この男に着いていくに値する理由は何もないのだから。
茶色一色の壁に囲まれた町がみるみる大きくなる。男は小さな町と言ったが、この町より更に小さな山の麓の町しか知らないフィーラには途轍もない大きさに思える。
壁が茶色なのは、赤土で出来た煉瓦で作られているからのようだ。高さは建物の3階分くらいだろうか。
間近に迫った壁をまじまじと眺める。その規則正しく積み上げられた煉瓦の壁は、よそ者であるフィーラを拒んでいるかのように感じられた。
道に面した中央に門があり、二人の門番が長い槍を持って門の両端に立っている。
男とフィーラの乗った馬が近づくと、二人は長い槍を交差して門をふさぐ。それを見て中からもう一人の門番がでてきた。
「通行証を出せ」
厳しい顔をした門番は如何にも力のありそうな腕を前に差し出した。
「ああ、これだ」
男が掌大の紙を懐から出して門番に手渡すと、その厳しい顔が一気に強ばった。
どうしたというのだろう。この小さな紙切れがそんなにすごいのか。
「これは失礼いたしました。おい、道をお開けしろ!さっ、どうぞ中へ」
態度が一変した門番は、門の両端にいた二人に声をかけると、男とフィーラを中に入れてしまう。
顔を確認されることも無かったフィーラはそのあまりのあっけなさに拍子抜けした。
普通は通行証に細かく記載されている人物の特徴と照らし合わせ、本人かどうか厳しく確かめるのではなかったか。ちらりと後ろを振り返ると、男は何ともない顔でとくに感情は見受けられない。
「では邪魔をした」
先ほどの門番がまだしゃべり足りないような顔をしていたが、男は気づかないのかすぐに馬を走らせてしまった。
町にはいると、この町がフィーラの知る山の麓の町よりも幾分も大きな町であることがよくわかった。大通りにはたくさんの人が行き来している。道の両脇には、数は多くないが出店も出ているようだ。
男は大通りを小走りに走らせていた。馬が通るのも珍しくないのか、フィーラ達のことを振り返る者はいなかった。
フィーラの方はと言うと、物珍しさにあっちを見たりこっちを見たりしていた。
男は大通りを右に曲がって少し細い道に入り、程なくして止まった。
フィーラがそこを見ると、ひっそりとした宿があった。かなり古そうだが、造りは割と凝っている。
男は自分が馬から降りた後、フィーラが降りるのを手伝い、馬はそのままにフィーラを連れて中に入った。
馬は良いのだろうかとフィーラが振り向ると、男は大丈夫だと言って丁度店から出てきた店主に馬の世話を頼んだ。
どうやら裏手に馬屋があるらしい。
「それから部屋を一つ頼む」
男は店主と顔見知りなのか、慣れた態度だ。
「ああ、分かってるよ。もう上に準備してある。それにしても今日は凄いのを連れてるね。こんな美人には会ったこと無いよ」
店主は男と同じぐらいか、それより少し上ぐらいの歳に見えた。
屈託も無く笑って言うことが、どうやら自分のことらしいと気づくのに、フィーラは暫し時間がかかった。何しろ美人だなんて言われたのは初めてだ。
店主の言に、男は口端だけ笑った。掴み所のない笑みだ。
そして左手でフィーラの手首を掴み、右手をひらひら降って二階にあがっていった。