序章.万緑の中の静寂 2
湖畔で静かな時を過ごしたフィーラは、家への帰路に着いていた。湖から走って10分ほどの所に、フィーラの住む家はある。深い山の中に、ひっそりと人目を憚るようにして建っている、小さな平屋。
目指す家の屋根が見えてきた。
日は西に沈みかけ、あたりを夕焼けの赤で照らす。山の中は、もうだいぶ暗い。
家で待つ人の顔を思い浮かべ、フィーラは微笑む。今日の夕飯は何だろうかと思いを馳せ。
玄関の戸を引くと、中からの暖かい空気が外へと流れ出る。
「おかえりなさい、フィーラ。もうすぐ夕ご飯が出来ますよ」
入ってすぐのところにある大きくも小さくもないテーブルに、エンマはお皿を手際よくならべている。
フィーラに気付くと花が綻ぶように優しく微笑んだ。フィーラが大好きな顔だ。
ただいま、と微笑みを返し、自分の部屋へ向かう。
剣を机に置いて服を着替える。素早くすませて居間に戻ると、もう夕飯の準備は終わっていた。
「エンマ、マグラスは帰ってきた?」
フィーラはいつもの自分の席に座り、エンマに顔を向ける。
「ええ、もう帰って来ています。今呼んだから、すぐ来ると思いますよ」
「そう」
エンマ。それはフィーラが物心つく前から一緒に暮らす熟年の女性の名前だ。白髪の交じった赤毛の髪はふわふわと柔らかそうで、頬はすこしぷっくりとして、赤みが差している。深い茶色の瞳も優しさで溢れていて、愛の籠もった目でフィーラを見つめる。彼女の容姿は見るものを幸せな気分にさせると、フィーラは思う。フィーラはもちろん、そんなエンマが大好きだ。笑ったら皺の出来る目尻も、抱きついたら感じる温めたミルクのような匂いも、たまに頭を撫でてくれる大きくて温かい手も、全部大好きだ。
しかしエンマはフィーラに”お母さん”と呼ばれる事を良しとしない。フィーラはもう何度もそう呼んで、そのたびにエンマと呼ぶように躾られてきた。今では当たり前になってもう反抗はしないが、幼い頃はよく愚図ってエンマを困らせたものだ。
フィーラにとってエンマは母親以外の何者でもない。なぜ母と呼ぶことを認めないのか、その理由をフィーラは何度考えたことだろうか。何度考えたところで、はっきりとした答えはでない。もちろん本人であるエンマはその理由を知っているだろうから、エンマに聞けば全て分かる話だ。エンマに尋ねたことも一度だけあるが、その時のエンマの悲しげな微笑が、これ以上尋ねない方がよいのではないかという気にさせた。エンマは今にも泣きだしそうだったし、尋ねてしまえばこの穏やかな暮らしが崩れてしまうのではないかと、不確かな危惧にフィーラは恐怖したのだ。
それに、フィーラは気付いていた。
フィーラの髪と瞳の色は、エンマとは似ても似つかないというこを。
残念なことに、この一見何の変哲もない穏やかな暮らしが、あらゆる点でおかしいということは否定しようもないことだった。
「ほら、来ましたよ」
エンマの声に導かれて顔を上げたフィーラの視線の先にいる、フィーラの部屋へと繋がる戸と反対の戸から出てきた男の名は、マグラス。こちらも、フィーラが気付いたときには既に一緒に暮らしていた人だ。こうなると自然に、マグラスはフィーラの父親である筈なのだが、マグラスから父親らしい情を感じたことは一度もない。マグラスはいつも目を鋭く細め、険しい目つきでフィーラを見る。その目に浮かぶ感情はフィーラには分からなかったが、己の愛する娘に一度も笑顔を向けたことのない父親など、果たしているだろうか。
「すまない。剣の手入れをしていたら遅くなってしまった」
マグラスは剣だこのできた固い掌をテーブルに付いてから椅子にどさりと腰を下ろした。低い声は大きくなくともよく響く。曇り空のような灰色の髪に、青みがかった灰色の瞳。彼の持つ全てが、冷たい色合いに見える。体は大きく筋肉質で、どこもかしこも筋張って固そうだ。腕はフィーラの3倍くらいありそうな太さだし、首はフィーラの両手で囲んでも優に余るだろう。胸板が厚いのは一目瞭然だ。歳は39歳で、エンマより2歳年下だが、それより随分若く見える。
「いいえ。言うほど待っていませんよ。ではいただきましょう」
エンマの声で3人は食事を始める。大抵はこうやって3人で朝昼晩の食事をとる。といっても一ヶ月に少なくとも4日はマグラスはいない。山を降りて麓の町で仕事をし、お金を稼いで必要なものを買ってくるからだ。家の裏にある菜園で野菜、山を流れる川で魚、山の中では木の実や果物がとれ、食べるものには事欠かないが、人間が生活するにはどうしてもお金が必要だ。食器や鍋、服まで作るわけにはいかないし、勉強したり生きる知識を得る為の本も、お金で買うしかない。特に本はとても高価だ。何でも麓の町に一軒だけある本屋の店主から聞いたのだが、紙を作るにはたいそうな技術が必要で、希少価値が高いそうだ。実際にフィーラも店内に並ぶ本の値段を聞いて、一瞬息が止まるほど驚いた。
それを週に何冊も買ってくるのだから、マグラスの稼ぎはとんでも無く良いはずだ。どんな仕事をしてるのか、とても気になるが、マグラスは聞いても答えてくれない。
エンマの作る料理はとても美味しい。そして、テーブルマナーにはとても厳しい。
フィーラが少しでも悪い所作をすると、すぐに厳しい言葉が飛ぶ。この時ばかりはフィーラはエンマが苦手だ。
「フィーラ、背中が曲がっています。真っ直ぐ背筋をのばして」
「はい」
フィーラとすれば、食事は食べられればそれでいい。マナーなど邪魔なだけだが、逆らうと後が怖いと言うのは、身をもって経験しているので、フィーラは素直に従うことにしている。
食事の間、喋るのは決まってフィーラとエンマだ。マグラスは終始黙り込んでもくもくと口に食べ物を運ぶ。
もし本当にエンマがフィーラの母親で、マグラスがフィーラの父親であるとすれば、エンマとマグラスは夫婦、ということになる。エンマを嫌いな人はまずいないとして、マグラスはどうだろう。エンマはマグラスを愛しているのだろうか。少なくともフィーラは、以前に呼んだ本の中で愛し合う二人のように愛を語り合ったり、熱く見つめ合ったり、キスをしたり、仲良く手を繋いだりする場面に遭遇したことはない。それどころか、いつも二人の会話は何処か事務的で、仲の良さを暗に示すような仕草や眼差しも全く見られない。
あれはいつ頃だっただろうか。そう、フィーラがまだ幾分も小さかった頃であろう。夜中に喉の渇きで目を覚まし、部屋を出て居間に入ろうとすると、中から光が漏れていた。時間が時間だけに不思議に思って中をのぞくと、居間のテーブルの上にランタンを置き、熱心に二人が話し合っていた。しかしそこに甘い雰囲気はなく、むしろ今にも爆発しそうな危険な空気を孕んでいた。二人の喧嘩だなんて滅多に見れることではない。フィーラは思わず耳を峙てた。
「今さらそんな事を言って何になる?あの時お前も賛成した筈だ。ここにいるのがあれの為なんだ」
マグラスの声の決して大きくは無い声からは、いつにない苛立ちが感じられる。
「あの時は確かに………………変わったのです。あなただって…………しょう?かの帝国との…………と、とてもここにはいられない。それだけじゃありません。………で……の様子も変わってしまった。今あの方は……………。私た………手を打つべきです」
エンマの声はマグラスよりも更に小さく、辛うじて聞き取れた言葉からは何を言っているのかさっぱりわからなかった。それでもエンマの声に含まれる切迫した空気は伝わってきた。
フィーラは見てはいけないものを見た様な気がして、喉が乾いていたのも忘れて部屋に戻ってしまった。布団に潜り込んで体を丸め、自分でもよく分からない名状しがたい気持ちを必死に押し戻そうとした。心臓の音がいつもより早い。手にはじんわりと汗をかいていた。
しばらくして、意を決して再び居間へ行ってみるともうそこに二人はいなかった。
がっかりしたような。安心したような。どっちとも付かないあの気持ちを、フィーラは今でもはっきりと思い出せた。
こんな生活、愛し合っているならあり得ないのでは?フィーラの読み通り2人が嫌い合ってはいないものの、愛し合ってもいないのだとすれば、なぜ2人は共に暮らすのだろうか。
そう、この生活は、実に謎だらけなのだ。