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吾輩はダンジョンに巻き込まれたオバサンである。まだ名は知られていない。

吾輩はオバサンである。まだ名は知られていない。

誰からも出身地どこだとかどこ中だったかだとかは、とんと興味を持たれないモブだ。

子供も思春期になり、SNSで仲間(フォロワー)くらいにしかかまってもらえない、寂しい寂しいおばさんである。


現在、私は腰を抜かしている。10年くらい前にこの世にダンジョンってものが現われたわけだが、本日、私は産まれて初めて魔獣(モンスター)というものを見た。しかもあとで聞くとそれはドラゴンという魔獣(モンスター)の中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。

このドラゴンというのはダンジョンの一番奥にいて、時々我々を捕つかまえて頭からぼりぼりと食うという話である。しかしかつてゲームやアニメなど物語の中にしかいなかった魔獣(モンスター)が現実にいるなんて嘘みたいで、恐怖も麻痺してぼんやりするだけだった。

ただ彼の(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。(てのひら)の上で少し落ちついてドラゴンの顔を見たのが、いわゆる魔獣(モンスター)というものの見はじめであろう。

こちとら30半ば子持ち主婦、「嗚呼、詰んだ。こりゃもう夫とも息子とも、まあ、つまりは今世ともお別れなんだろうなー」と覚悟しながら見たドラゴンの顔は、今までに見たどれとも違うものだった。

顔には毛も生えておらず、その肌は爬虫類のウロコでもなく確かに宝石のように輝いていて、つるつるして触り心地が良さそうだった。炎のように赤い瞳がこっちを見なければ危うく触ってしまうところであった。

ギャオーともギュオーともよくわからない咆哮とともに顔の中央に亀裂が入り、牙が見え、ああ口を開いたのだなとわかった。

咆哮する音と共に、その亀裂からぷうぷうと煙が出てくる。熱風と卵の腐ったような匂いでどうにも困ってしまったが、のちにドラゴンが火炎を吹くものだと知った。焼かれずに済んだのは僥倖であった。

このドラゴンの(てのひら)(うち)でしばらくは呆けたように坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。ドラゴンが動くのか自分だけが動くのか分らないが無暗(むやみ)に眼が廻る。胸が悪くなる。到底助からないと思っていると、どさりと音がして眼前に火花が散ったような感じになった。

それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。


 ふと気が付いて見るとドラゴンはいない。たくさんおった人間がひとりも見えぬ。買い物途中でスーパーに居たはずのに、肝心の建物さえ姿を隠してしまった。その上今、いままでの所とは違ってぼんやりと明るい。よく見ると壁も地面も天井も、タイルがうっすら光を放っている。はてな何でも様子がおかしいと、タイル張りの先に扉が見えてそちらに向かうが体が非常に痛い。よく見ると身体中傷だらけだ。どうにか()()()()這はい出して扉を開けると青空であった。スーパーがあったはずの場所に間違いはなく、隣のツルハドラッグストアとタリーズ併設のTSUTAYAが見えた。駐車場には我が家のミニバンも停まったままであった。

あとからわかったことだが、どうやら行きつけのスーパーがダンジョンになってしまったらしい。

そして吾輩はダンジョンの奥から、なぜか入口に棄てられたのである。ドラゴンによって。


買い物かごもカバンも、その中にあるお財布や化粧ポーチもダンジョンの何処かへやってしまった。

それでも家の鍵と車の鍵をつけた本革のキーケースにはカード入れも着いていて、そこに免許証と銀行のカードを入れていたこと。ポケットの多い上着を着ていたこと。そのポケットにスマホとキーケースを入れていたことは幸運であった。後に、あのときの自分を無条件で褒め倒してハーゲンダッツおかわりするレベルの仕事だ。

同様にダンジョンから脱出できたケースで、すべての身分証もお金もなく、自宅の鍵もなく帰宅難民になった人は数多くいたのを知っているからだ。

さて、吾輩がダンジョンの入口らしき場所に棄てられてから、どれほどの時間が経ったのか、さっぱりわからぬ。スマホの時計を見れば、買い物に出かけた昼下がりからわずか二時間ほどしか経っていない。だが、この二時間はまるで二日、いや二週間の重みを感じさせるものであった。身体中の傷はピリピリと痛み、服はところどころ破れて、まるでドラマのヒーローがラスボスと戦った後のようである。いや、ヒーローならまだしも、吾輩はただのスーパー帰りのオバサンである。戦うどころか、ドラゴンの掌の上でフワフワしただけだ。


ともかく、吾輩は這うようにして駐車場にたどり着き、ミニバンのドアを開けた。運転席にどさりと座り、シートに凭れかかると、なぜか涙がぽろりとこぼれた。恐怖のせいか、疲労のせいか、あるいはカバンごと消えた三割引の鶏むね肉を思ってか、自分でもわからぬ。ただ、スマホとキーケースがポケットにあったことだけが、吾輩をこの世につなぎとめているような気がした。


スマホを取り出し、恐る恐る画面を見ると、LINEの通知が山のように溜まっている。息子からの「晩ごはん何?」という冷ややかな一言や、夫からの「牛乳買ってきて」の無神経なメッセージが目に飛び込む。まったく、吾輩がドラゴンの掌で生死の境を彷徨っていたというのに、この家族ときたら!

しかし、この日常の無関心さが、なぜかホッとするものでもあった。ともかく、吾輩は生きている。スーパーがダンジョンになり、ドラゴンにさらわれても、こうしてミニバンに戻ってこられたのだ。


さて、ここで問題である。吾輩の買い物かごもカバンも、そして財布も化粧ポーチもダンジョンの中に置き去りである。どうやって帰宅し、どうやってこの傷だらけの身体を家族に説明するのか。いや、それ以前に、スーパーがダンジョンになったことを誰が信じるというのか。隣のドラッグストアやTSUTAYAはいつも通り営業しているようだが、肝心のスーパーはまるで最初から存在しなかったかのように、ただのタイル張りの空間が広がっているだけだ。


吾輩はスマホを手に、まずは夫に電話をかけてみた。が、例のごとく「電波の届かぬところにいるか、電源が入っていない」との無情なアナウンス。仕方なく息子にLINEを送る。「スーパーがダンジョンになって、ドラゴンにさらわれたから、ちょっと帰るの遅れるかも」と。送信ボタンを押した瞬間、既読がつき、「ママ、ゲームのやりすぎ」と一蹴された。まったく、思春期の息子ときたら、母がドラゴンと対峙した話をゲームのネタと思うとは!


しかし、ここで吾輩はふと気づいた。ダンジョンである。スーパーがダンジョンになったということは、あのドラゴンがまだ中にいるということだ。そして、吾輩のカバンや財布も、きっとその中に置き去りである。化粧ポーチには、限定色のルージュと、去年のボーナスで奮発した美容液が入っている。あれを失うのは、ドラゴンに食われるより辛いかもしれない。いや、冗談ではない。吾輩は主婦だ。節約と美容には命をかけている。


そこで、吾輩は決意した。ダンジョンに戻るのだ。ドラゴンが怖い? 確かに怖い。だが、夫の薄給と息子の学費をやりくりする日々の恐怖に比べれば、ドラゴンなど大したことはない。吾輩はミニバンのトランクを開け、いつも積んでいる「いざという時の防災キット」を取り出した。LED懐中電灯、缶詰、ペットボトルの水、そしてなぜか夫が置きっぱなしにしていたゴルフクラブ。よし、これで十分だ。

タイル張りの入口に戻り、扉をそっと開ける。すると、さっきのぼんやりした光が再び目に飛び込んできた。タイルの奥には、さっき見たのと同じような通路が続いている。どこかでガサガサと音がする。ドラゴンか? それとも別の魔獣か? 吾輩はゴルフクラブを握りしめ、懐中電灯を手に進む。心臓はバクバクだが、なぜか妙な高揚感もある。まるで、バーゲンセールの開始直前に並ぶ時のあの感覚だ。


通路を進むと、突然目の前に光るものが現れた。よく見ると、吾輩の買い物かごだ! 中には三割引の鶏むね肉も、半額のキャベツもそのまま入っている。だが、化粧ポーチは見当たらない。奥に進むしかない。すると、遠くでガラガラと音がした。振り返ると、さっきのドラゴンが、巨大な爪で地面を引っ掻いている。赤い瞳がこっちをじっと見ている。あの宝石のような肌が、光の中でキラキラと輝いている。


「やあ、おばさん。また会ったな」と、ドラゴンが喋った。喋ったのだ! 吾輩は腰を抜かしそうになったが、ゴルフクラブを振り上げ、こう叫んだ。「私の化粧ポーチを返しなさい!」


ドラゴンは一瞬キョトンとした顔をした後、ガハハと笑い出した。「おばさん、気に入ったぜ。その根性、嫌いじゃない。ポーチなら奥の宝物庫にあるよ。取れるもんなら取ってみな」



こうして、吾輩のダンジョン再突入が始まった。ドラゴンとの交渉、化粧ポーチ奪還、そして家族にこの話をどうやって信じさせるか。吾輩の戦いは、まだ始まったばかりである



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