たとえば僕が死んだら
ここは、現世とあの世の境目「三途の川」の河原。
僕はこの河原に建つ「フェリーマンカンパニー」という渡船会社に勤める三途の川の渡し守。
今日も、渡船場から沢山の死者を渡し舟に乗せ、あの世へと渡している。
僕は、エフと呼ばれている。
どうやら僕は6番目にここへ来た渡し守らしい。渡し守A、渡し守B……6番目の僕は、渡し守F。
恐らく過去には別の名前があったと思われるのだが、まるで思い出せない。何故ここで働いているのか。いつここへ来たのか。何も憶えていないのだ。
気がついたら、ここで働いていた。
まったくトホホのホだ。
ちなみに、渡し守の仕事は、実際に船に乗って死者をあの世へ渡す、いわゆる「船頭」ばかりではない。
乗船する死者の受付。死装束や三角頭巾の配布。乗船員数・出船時刻の管理。渡し舟のメンテナンス。などなど。仕事内容は様々。
僕は数年前から最終決断補助者という仕事に就いている。
毎日現世とあの世の境目にある三途の川の河原で働いていると、時折、生者とも死者ともつかぬ、彷徨人がふらりと訪れる。
ワンダラーが、三途の川を渡るか否かを決める。つまり「生きるか死ぬか」の最終決断をする。そのお手伝いをするのが、僕の仕事。
ファイナルジャッジヘルパーと言えば聞こえはいいが、まあ、事実上現場のトラブル処理係。
ほら、今日もこの三途の川の河原に、生者とも死者ともつかぬ悲しきワンダラーがやって来た。
あなたは「死んだ人間が夢枕に立った」なんて経験はありますか?
我々、三途の川の渡し守の仕事には『夢枕承認願い』という特殊な業務がある。
弊社の方針として、死者が切に希望する場合、またその死者が社の規定する条件を満たす場合に限り、特定する生者の夢枕に立つことを許可している。
死者が生者の前に現れるという異常環境の許可を得るまでには、異世界課、時空交通課、幻覚幻聴課など、関係各所への膨大な申請書類が必要だ。そんでもって、その書類業務の一切の代行を、なんや知らんけど、彷徨人課の最終決断補助者の僕が行わにゃあならんのです。
いや、まじ、勘弁してほしいっすよ、まじで。
どいつもこいつも、四の五の言わず、大人しく三途の川を渡ってちょうだいっての。
『夢枕に立ちたい』なんつって簡単に言わないでくれる? どんだけこっちの仕事増やすつもり?
ちなみに、『夢枕承認願い』の申請条件は三つ。
① 三途の川を渡る決断をした者に限る。
② 夢枕に立つ時間は、現世時間で三分を厳守する。
③ 夢枕に立った後は、現世を振り返ることなく、速やかに渡し舟に乗ること。規則に反し、後方を振り返ったものは、二度と転生出来ない魂と処される。
この三点を了承した者に限り『夢枕承認願い』を申請する権利を得る。
そんでもって、了承したら、この人たち、あとはただ許可の日を、だらだら待つばかり。
その間、僕ちゃん、書類地獄。とほほ。
※ ※ ※ ※ ※
「よっしゃー! こやつめっ! こうしてやる!」
とある男の『夢枕承認願い』の許可が、申請から三週間して、やっとこさ下りた。僕は、嬉しさのあまり、手にした許可証の表紙を、もう片方の手でデコピンするように弾く。
「は~、すんげ~面倒臭かった~。すんげ~長かったあ~」
とは言え、現世時間では、たった三日しか経っていないのだけどね。
「おーい! 浅井さーん! やっと許可が下りましたー! これで奥様の夢枕に立てますよー!」
許可日まで、何することもなく、河原をうろうろと彷徨っていた男に、会社の窓から声を掛ける。
浅井道隆。
50歳。
存在意義=芸術家。
三日前、末期の肝臓癌にて死亡。
現世に強い残念があり、ワンダラーとなる。
本人より「妻の夢枕に立ち、どうしても伝えたいことがある」との申し出があり、僕が『夢枕承認願い』の申請を代行した。
「何とお礼を言えばいいのやら。エフさん、本当にありがとうございます。すっかりお手間をかけてしまった」
繊細で、気の優しそうな、いかにも芸術家といった風貌の浅井さんが僕に頭を深々と下げた。
「お気になさらず、仕事ですから」
相手に心から感謝されると、ああ頑張ってよかったなと思う。そしてまた、大変な仕事を抱えてしまうという、負のスパイラル。
「それでは、さっそく現世にいる奥様の枕元に参りましょう」
僕と浅井さんの目の前に、空間を引き裂き、ひとつの階段が現れた。不規則に色とりどりの光を発する長い階段。
「うわあ、ま、眩しい」
「この階段は時空のゆがみ。この階段を下れば、あなたは死者でありながら生者が認識できる存在となります。ささ、参りましょう。私に続いて下さい」
浅井さんと僕は、うねるように輝く長い長い時空の階段を下った。
※ ※ ※ ※ ※
ほんの数秒、あるいは数十年歩いて、僕たちは階段の最後の一段に辿り着いた。
「さあ、浅井さん。あと一歩踏み出せば、あなたは奥様の夢枕に立ちます。許された時間は三分です。思い残すことが無きよう、奥様との会話を存分にお楽しみ下さい。私はここで待っています」
そう言いながら、私は階段の先にいる、浅井さんの自宅の寝室で眠っている奥様をちらりと拝見した。驚いた。浅井さんと見比べて、奥様はとてもお若い。そしてかなりの美人だ。
「あ、あの、浅井さん、失礼ですが、奥様、随分とお若い方なのですね」
「ええ、妻は今日子と言います。僕より20歳年下です」
「に、にじゅっさい?」
「僕が40歳の時に開催した個展で妻と出逢いました。当時まだ20歳だった妻は、ぶらりと立ち寄った僕の個展で、僕の作品と、何故かこんな僕に、どういうアレか、一目惚れしたようです。その後、再三にわたる妻からの熱心なプロポーズに根負けし、僕たちは周囲の反対を押し切って結婚しました」
「へえ~、人生いろいろですね」
「結婚して十年。今年になって僕の癌が発覚しました。末期の肝臓癌でした。妻の献身的な看護のもとがんばって闘病しましたが、僕は死んでしまいました。ぼちぼち世間に僕の作品が評価され始め、やっと人並みの生活が出来るという時でした」
「なるほど。あれだけ若くて、綺麗な奥様ですものね。夢枕に立って『どうか自分のことを、いつまでも忘れないでほしい』と伝えたくなる気持ちもわかりますよ」
「何をおっしゃる。逆ですよ」
「逆?」
「――それでは、妻のもとへ行ってきます。制限時間が迫ったら声を掛けて下さい。恐らく話し込んでしいると思いますので」
そう言うや否や、浅井さんは、最後の一段を下り、ベッドで眠る奥様の夢枕に静かに立った。
※ ※ ※ ※ ※
「おい、今日子。目を覚ましておくれ。僕だよ。道隆だよ」
浅井さんがベッドの枕元から奥様に声を掛ける。
「…………え、……ええええ! あ、あなた? あなたなの???」
ムニャムニャと夢から覚めた奥様が、悲鳴を上げ、ベッドから起き上がる。寝室に置かれた浅井さんの位牌と、浅井さんの姿を、何度も交互に見比べている。
「どうやら本日僕の葬儀は滞りなく済んだようだね。ごめんね、今日子。これからって時に死んでしまって。でね、実は今僕は特別な許可を取って君の前にいるんだ。あの世へ渡る前にどうしても君に伝えたいことがあってね」
「わ、わ、わ、私に伝えたいこと?」
「ああ、君にしっかりと伝えておかなければ、僕は死んでも死にきれない。そう思って三途の川から舞い戻ったんだ」
「信じられない。でも私すごく嬉しい。分かったよ。何だか知らないけれど、さあ、伝えてちょうだい。私、ここでしっかり聞いていますから」
ありがとう。時間も少ないから簡潔に話すね。そう言って浅井さんは、奥様のうるんだ瞳を見つめて話し始めた。しかしそれは、恋愛を知らない三途の川の渡し守の僕でさえ、思わず拍子抜けする内容だった。
「僕のことは、忘れてほしい」
「え?」
「僕のことは、忘れてくれ」
「な、な、何て?」
「死んだ僕のことは、さっさと忘れて、君は、一日もはやく別の男と再婚するように」
「え、分かんない、分かんない、あなた、何言っているの?」
「君は30歳。まだまだ若い。そして綺麗で気立てもいい。死んだ僕になど構わず、まったく新しい人生を歩むように」
この人はいったいぜんたい何を言い出したのであろう。傍で見ている僕までヒヤヒヤしてきた。
「幸いにして、僕たちは子供に恵まれなかった。どうか君は金持ちのボンボンでも騙して、優雅な暮らしを手に入れてほしい」
その時、浅井さんのトンチンカンな発言に被せるように、奥様が猛烈に怒鳴った。
「あなた、そんなこと伝えにわざわざ三途の川から戻って来たの? 呆れた! あなたってホント馬鹿ね! そういうところよ! そういうどうしようもなく優しいところがダメなのよ! そんなこと言われて忘れられるわけないじゃない! 酷いよ! このなぶり方はあんまりだよ!」
奥様は、ぎゃんぎゃん泣き始めた。
「お、おい、今日子、泣かないでくれ。どうか分かってくれ。これは僕の本当の気持ちなんだ」
奥様が、やけになって浅井さんに罵詈雑言を浴びせる。
「ふん! なーにが『僕のことは、忘れてほしい』よ! 自惚れないでよ! 頼まれなくても、あんたのことなんか、とっとと忘れてやるわよ! どこぞの金持ちのボンボン騙くらかして、セレブな生活をゲットしてやるわよ!」
しばらく奥様の聞くに堪えない暴言が続いた。あっという間に制限時間の三分が迫った。
「あの~、お取込み中すみません。浅井さ~ん。ぼちぼちお時間で~す」
僕は時空のゆがみの階段から、彼にこっそりお伝えした。
「ああ、もう時間だ。僕、行かなくちゃ。今日子、どうか達者で暮らしておくれよ。くれぐれも僕のことは忘れてくれ」
「さっさと成仏しやがれ、この腐れ芸術家!」
浅井さんは、時空の階段に戻った。
以降は絶対に現世を振り返ってはならない。
※ ※ ※ ※ ※
浅井さんと僕は、時空の階段を並んで昇る。
「いや~、なかなかの修羅場でしたね。まあ結果としては望んだカタチになったのではないですか?」
すっかりしょげている浅井さんを、僕は黙って見ていられず、あえて軽口を叩いてみた。
「ダメです。失敗です」
「え?」
「あの感じだと、妻は僕のことを絶対に忘れない」
「でも、奥様は『あんたのことなんか忘れてやる!」なんて息巻いていましたよ」
「あれは、嘘でしょう」
「分かるのですか、そんなことが」
「分かりますよ。夫婦ですから」
あなたー! 大好きだよー! バカヤロー! 絶対に忘れてやるもんかー!
その時、階段の遥か後方から奥様の咽び泣く声が微かに聞こえた。
「ほらね」
「浅井さん、振り返っちゃダメです。転生のチャンスを失いますよ。それこそ二度と奥様と巡り合えなくなる」
「弱ったなあもう。……あれれ、エフさん、僕のこの状況、ひょっとして、楽しんでいます?」
困り果てながら階段を昇る浅井さんを横目に、僕は終始ニヤニヤしていた。
浅井さん、あなたは幸せ者ですよ。
何故なら『死んだら、忘れてほしい』なんてセリフはね、自分が死んだ途端に、さっさと気持ちを切り替えて、とっとと再婚しちゃうような相手に、間違っても言えませんからね。
いつかきっと自分のことなど忘れてしまう。人は、そんな相手には「リメンバーミー」と伝えるものです。僕のこと忘れないでね。僕のこと思い出してね。「リメンバーミー」とは、一聴してとても美しい響きを持つ言葉ですが、ある意味、大変もの悲しい言葉でもあります。
死んだら、忘れてほしい。
人は、自分のことを絶対に忘れない者にしか、そんなことは言えません。
死んだら、忘れてほしい。
人は、自分のことを生涯引きずって生きるであろう者にしか、そんなことは言えないのです。
「うーん、そんなもんかねえ」
浅井さんは、頭をこりこりと掻き、首を傾げた。いまいち腑に落ちていないようだった。
「では、浅井さん。逆にあなたが奥様のことを忘れましょう。きれいサッパリ奥様のことを忘れてしまえばよいのです。そうすれば奥様がどれだけあなたのことを憶えていようが、あなたには関係ありません」
すると、これまでずっと温厚だった浅井さんが、突然取り乱した。
「冗談じゃありませんよ! あんな素晴らしい妻のこと、忘れるはずないでしょう!」
「ん?」
「んんん?」
僕たちは階段を昇りきり、三途の川の河原に戻った。
「さあ、浅井さん。規定通り、速やかに渡船場へ」
「エフさん、本当に、お世話になりました。」
浅井さんは、渡し舟に乗った。
別れ際、ふと思い出したように彼が言う。
「エフさん。さっき、僕、とてもおかしな発言をしましたね」
「はい。さっき、あなたは、とてもおかしな発言をしましたよ」
浅井さんが、照れ臭そうに、はにかんで笑う。
あの世へ向け、渡し舟が動く。
あれ、確かに、この人死んでいるのだよな?
念のため僕は、タブレットの死亡者リストに、浅井さんの名前があるか再確認した。
まるで生きているみたいに、明るい笑顔だったから。
この物語は、一話完結のシリーズ作品です。