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02

 今宵もまた、憂愛(ゆあ)は鏡の国へと遊びに出かけます。

 黒ずくめのドレスをまとった女の子に手を引かれ、とっても仲睦まじげに歩いている憂愛でした。まるで古くからのお友だち同士であるかのように。そうして、ふたりがきまって彷徨(さまよ)うそこは、いつだって夜更けの海辺だったのです。

 憂愛は空を見上げます。鏡の国の上空には真ん丸のお月様が浮かんでいます。満月は煌々(こうこう)と輝き、海を銀色のゼリーみたいに光らせているのでした。


 黙りこくっている憂愛。気分を害したわけではありません。潮騒を耳にしながら、この時空でしか考えられないことについて集中したかったのです。(しゃべ)ってしまっては元も子もない。壊れてしまう。お腹に響く海の音を聴いていると、かつてお母さんの胎内で暮らしていたときの記憶が(よみが)ってきそうになります。


「詩のことがよくわかるようになったの」

 長い沈黙のあと、憂愛がふいに口を開きました。

 黒ずくめの少女はこころもち首を斜め右にかしげながら静かに聴いてくれています。彼女の背後では海が月からの光を反射し、三角になった波をキラキラと光らせていました。


「ふうん。どんなふうに?」

「笑わない?」

 上目遣いで少女が見つめてきます。きっと自信がないのでしょう。


「あたし、笑わない(カラス)だから」

 自分を鴉と名乗った女の子が太鼓判をおしてくれたのがわかります。瞳を伏せると息を吐き、そして憂愛は覚悟をきめて毅然と背筋を伸ばすと言いました。月光が青い(しずく)となり、憂愛の髪の上に降りかかります。


「わたし、詩によって世界を生み出したいの。詩ってわかる?」

 鴉、と名乗った美しい少女はうなずきます。

「知ってる。あなたが真夜中に書いている言葉のかけらのことね」


「そう、言葉のかけら。……なんだけど、そうじゃなくて」

「ん?」

「わたしは風を書こうとしているのだけど」

「風?」

 少女は不思議そうに憂愛を見つめます。そして訊きました。「風なのに言葉? どういうこと?」

「そう。疑問はごもっとも」

 肩をすくめて苦い笑いを浮かべる憂愛でした。


「だってそうでしょ? 詩は風を表現できるけど、それはあくまでも言葉というか、表現でしかない。風そのものにはならない。おなじように光を詩で描いたところで、それは本物の光じゃない。まがい物よ」

「そうね。言葉は言葉」


 憂愛は鴉に微笑みかけます。

「でもね、わたしは悪い女の子なの。昔、旧約聖書の神さまは仰ったわ。ーー光あれ、と。そうして言葉によって光を創ったの。だからわたしもそうしたい。詩は風であって欲しいし、言葉でありながら雲や星、花びらとなって舞って欲しい」


 さも合点がいったふうに鴉の乙女は笑います。

「それって、すっごく不謹慎。神に(そむ)く行為でしかないもの。だから、あたしを鏡の牢獄から召喚したわけね。神に叛逆(はんぎゃく)した罰として鏡に閉じ込められ、悪霊となったあたしを」


「叔母さまの著述の一節から盗んだ鏡文字の呪文であなたを召喚したのよ。叔母は偉大な魔法つかいだったの」

「あなたは神が言葉によって天地を創造したように詩でもって現実を、宇宙を創りたいのね。あなたなら可能かも。鏡、そして詩という実体をもたぬ蜃気楼から脱出することが」


「できるの?」

「ええ。あたしはかつて神にも匹敵する力を持った大天使だった。知ってるでしょ?」


「うん。叔母さんの本にそう書いてあった。神に反旗(はんき)を翻したルシファーと並び称される堕天使だって」

「そうと知ってあたしを召喚したのよね? それに代償が要るわ」


「召喚したんだもんね。望みがかなうなら仕方がないわ。わたしの魂が欲しいの?」

「それもある。でもね、あたしの本当の願いはお友だちになってほしいの」


「そんなのでいいの?」

 支払うべき代償がとても少ないことに、ぽかんとしてしまう憂愛でした。


「それからあなたの命の灯があればいい。罰としてあたしの命の灯は神から取り上げられてしまった。でも命の灯があれこそ、かつてのポテンシャルを、ーーあたしの大天使だった時の能力を取り戻すことができる。鏡の(かせ)を超えて、どこにでもゆける。でも下手をすれば永遠に鏡に閉じ込められることになる。今のあたしみたいに」


 そう。もし失敗すれば、神に叛いた罰として永遠に鏡の牢獄で過ごすことになります。でも憂愛にとって鏡の国で暮らすことが言うほど重い(かせ)になるとは思えませんでした。


「嬉しいよ。わたし。あなたがお友だちでなってくれるだけでも十分なのに」

 さらに詩の神に化身し、風になり、星の光ともなり、花の蕾にもなって、いわゆる造物主に匹敵する力がもてれば最高ですが、それは運命が決めること。


「では、契約を結びましょう」

 そう言うと鴉は、彼女よりも少し背の低い憂愛に顔を近づけると、柔らかくキスをしました。唇を離すと、憂愛は胸を激しく動悸させながら指でそっと自分の唇をなぞり、初めての接吻の余韻にひたります。


 鴉ですが、憂愛の熱が冷めるのを待ちました。せっかくの彼女の天にも上るような高揚感を壊したくはなかったのです。

 やがて、時が満ち、鴉は厳かな調子で憂愛に告げました。

「これで契約成立ね。あたしは晴れてあなたの従僕となり、思う存分、力をふるうことができる。さて、何からはじめたらいいのかしら?」

「何ができるの?」 

 憂愛は声を震わせました。


「あなたが望むならなんでも。桜の花びらとともに舞う黒い龍になることも、巻き貝のなかにひそむ螺旋都市にもなることだってできるわ」

「では、この詩を」

 憂愛はこの時のために詩をしるした紙をひとひら、ポケットに忍ばせていました。それを鴉に手渡し、そして願います。


「まず手始めにわたしはこの詩になってみたい」

 詩を受け取ると、鴉は紙の上の(スミレ)色のインクに眼を落とします。たとえ月下であっても彼女は文字を読むことができるようでした。

「とてもいい詩ね。詩がこれからのあたしたちの羅針盤となり、地図ともなる。あなたが行き先を決めるのよ」

 紙片から顔を上げる鴉の表情に偽りがないことを憂愛は悟ります。他人に詩を読んでもらうのは初めてのことでしたから恥ずかしさもあり、また褒められたせいか、誇らしい気分でもありました。

「……ありがと」

 消え入りそうな声でしたが、何とかお礼を言うことはできました。


「さ、(まぶた)を閉じて」

 言われるままに眼を閉じ、鴉の呪力に身をゆだねます。つないでいた手に力がこめられ、

「そらッ」

 という掛け声とともに鴉は砂と海水を蹴り、月を背景にした宙に舞いあがりました。


 と。


「眼を開けていいわ。もうここが、あなたの詩の世界よ」

 鴉ともに空を翔け上がりながら憂愛を瞳を宇宙に向け、こらします。

 いちめんの降るような星々の洪水でした。瞳の湖に恒星は青く浮かびあがり、鴉といっしょに小さな舟を()ぎだしながら銀河から銀河へとふたりは渡ってゆくのです。


 風を切りながら鴉は厳かに告げます。

「いつの日か、――そう遠くない未来にあなたは銀河の水鏡のほとりを漂う火となるわ」

「火?」

「そう、鴉のわたしには命がない。命は火。あなたにはそれがある」

「わかった。わたしは鴉の一部分になるのね。火とともに燃え上がりながら黒い夜を旅することになるのね」

「そう、これがあなたの書いた詩。そしてあたしに差し出した契約の書。そして星めぐりの海図でもある」

「素晴らしい」

 風や星が轟々と鳴り、そこが空なのか、あるいは水だったのか、もうすでに区別すらつかなくなった湖面をゆきながら、鴉に抱かれた少女は宇宙の果てへと消えてゆくのでした。


 ここはまだ、鏡の中。

 でもいつの日か鏡を超え、詩をも超えて二人は旅に出るのでしょう。

 そんな願いをかなえるための闘いが、まもなくその火蓋(ひぶた)を切ろうとしていました。


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