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詩を書くのが好きな娘なのでした。ベージュ色した小さな紙片の上に菫のインクを用い、ペンで言葉を刻みつけてゆきます。
拙速は好みではありません。時の滔々たる流れに身をゆだね、リラックスすることが大切。
紅茶を淹れたカップを思念とともにかたむけ、言葉未満をひと雫、またひと雫ずつ丁寧に掬い上げては星の光にかざし、はたまた風に晒してみたり、口のなかでうっとり、転がしてみたりもします。
こころよい音のひびき、文字の象形性といったビジュアル的な美醜にも拘泥します。吟味すべき点は数多あり、それが推敲と呼ばれる作業とは知りませんでしたが、言葉を磨くのはたのしく、やり甲斐のある仕事でした。
こうしてまた一つ、またひとつと、憂愛という名の少女の手によって誰にも捧げられることのない、ひとくさりの詩がこの世に誕生します。
詩を作るのに疲れると睡魔がやってくるのを待ちます。眠くなってくれば入眠に必要な儀式を執り行うのが決まりでした。
これまでに書き溜めたものからまず一つ熟読玩味したい詩を選びだす。そして清潔なシーツとやわらかな毛布にくるまれて、お気に入りのフレーズを口ずさみながら眠りに落ちるのです。
それが憂愛の毎夜のルーティーにして、愛に乏しい家庭で一日をやり過ごした自分へのご褒美となるのでした。
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夜が深まるにつれ、隣りの部屋にいるはずの妹の気配がなくなってしまいます。ドアを開けて自室から出た物音一つしないというのに。
二人の姉妹は、お邸の二階にそれぞれ子ども部屋をあてがわれていました。
姉の名は縫子といい、詩をこしらえる妹を憂愛といいました。
ともあれ妹が消えてしまった気がしてならないのです。あまりの静粛さに怖いくらい。まるでこの惑星のすべての蝋燭のほむらが、いっぺんに吹き消されてしまったかのよう。
もしやベッドでうたた寝をしているのかも、と想像をめぐらせますが、それでも安心はできません。居ても立っても居られない、そんな落ち着かない気持ちにさせられるのです。
縫子という名がしめすとおり、刺繍がじょうずな女の子でした。
無心に針を運び、絵の具に見立てた糸でもって花や蝶、それから眼にも愉しげなボタニカルの模様を描くのです。針に糸をとおしますと、まるでスイッチが入ってみたいに夢中になることができました。
いま彼女の刺繍が挑戦中なのは、壁に掛けられるほど大きなもの、すなわち妖精の少女が草花と戯れるタペストリーでした。
十九世紀末から二十世紀初頭にかけて英国で活躍し、水彩の挿絵画家として知られる、ウォーリック・ゴーブルの手になる絵の複製をゆっくり時間をかけトレースします。布の上に鉛筆であたりをつけ、信頼できるメーカーから取り寄せた糸のなかから選びに選んだ納得の色でもって、一針ずつ妖精に命を吹きこんでゆくのです。
縫子はすべてのモノには霊が宿ると信じていました。そのような心持ちになれたのは妖精の図柄を多く刺繍するようになって以来です。
妖精は花の褥で眠るし、光にきらめく朝露をすがすがしく呑む。鳥の背に騎乗しては風の行方をよみ、翼の舵を取るのを助けもするし、時には雛鳥に空の飛び方をレッスンすることもありました。
彼ら妖精が自然界、いわば火、水、土、風といった四大元素と親しいからこそ、こうしたことが自在になしうるのです。
縫子には妖精の姿かたちを見ることはかないません。霊的な視力がないからです。
とはいえ縫子と憂愛の大叔母は、政治家のお偉いさん方々から国の運営に関し、アドヴァイスを求められるほどの大魔法つかいでした。
妹の憂愛は魔法が嫌いでした。が、叔母の血を色濃く継いでるのは彼女の方です。生まれ持った力で霊を召喚することくらい朝飯前だったのです。
ふと真夜中に針を動かす手を止め、我にかえる縫子です。
妹とはちがい、霊視はできず、召喚もできないのですが、霊の訪れくらいはわかります。やはり血筋でしょうか?
――憂愛ちゃんが悪霊にさらわれてしまったら、どうしよう……。
そんなことで気持ちを煩わされていると夜も眠れません。翌朝には平気な顔をして食卓につく妹です。しかしながら悪霊は間違いなくやってきています。きっと妹が呼んでいるに違いない。来訪者の気配がするたび、針を動かす指も止まってしまいます。心配の余り、刺繍に集中できない夜がつづくのでした。
もう限界でした。そして、ついに縫子は決意します。
プライベートを侵されるのを酷く嫌う妹ですが、仕方ありません。
霊が訪れるその瞬間を狙い、妹の部屋に押し入り、悪霊から妹を守ってあげられるかも、と計画を立てたのです。もし万が一、思いすごしであれば、ノックもなしに勝手に部屋に侵入したことを詫びればいいだけです。
まんじりともせず日々を過ごし、とうとう決行の夜がおとずれました。
草木も夢をみる時刻。霊がやってきた、と聴こえない音を心の耳が拾います。今がその時です。縫子は自室から飛びだすと妹の部屋に駆けこみました。
すると。
憂愛の部屋には、全身をうつしだす等身大の大きな鏡がありました。
ちょうど縫子が侵入した、そのタイミング。
姿見にうつしだされたのは、お邸とは別の場所。夜の海辺のようにも感じられる光景がぼんやり映し出されていました。
憂愛が潮風に髪を嬲られ、黒ずくめのワンピースの女の子に手を引かれ、鏡のなかへと消えてゆきます。
「待って」
と叫びましたが、鏡に吸いこまれるようにして消えた妹の耳に届くはずはありません。
つい今しがたまで視えていた鏡のなかの風景も、――屋外の空気と闇の深さを感じましたが、きれいさっぱりフェイドアウトしてしまいました。
縫子の寄る辺ない心は、鏡の中に不安におののく、みずからの蒼褪めた顔貌を見出し、慄然とするばかり。
「こんなことってあるのかしら」
そのままへたりこむようにベッドの上に腰を落とし、虚ろな瞳で鏡を見つめる縫子です。
あれからどれくらい時が経過したでしょうか? 満月の夜、枝にからまった蛇が脱皮に要する時間くらいは時が零れ落ちたのかもしれません。
気がつくと、
「お姉さん?」
と声がかけられました。
いつ鏡の中から戻ったのでしょう?
ベッドの傍らには憂愛が立ち、腰かける縫子を冷たい瞳で見下ろしていました。
その口ぶりは咎めだてているかのようでもあり、さらにまた縫子を憐れむかのような響きすらありました。
憂愛の髪には、あたかも月光を煮凝らせたような青い雫がいくつも付着しており、時ならぬ驟雨に見舞われた猫を想わせる儚げな有様でした。
それからのふたりは口を利こうとはしません。だんまりをきめこんで、ただひたすら見つめ合うばかり……。