第一章 6
「あ、そ、その、すみません! 遅くなりました……」
「今日はもう予定がないので、多少遅くなっても大丈夫でしたのに」
するとラルフはピアノ椅子から立ちあがると、すたすたとシャロンの元へと近づいてきた。一瞬で緊張するシャロンを前に、ちょん、と乱れていた前髪を直してくれる。
「え、あ……」
「そんなに赤くなって。ここまで走って来たんでしょう?」
「え、ええと、……」
確かに廊下を競歩のような速度で歩いてきたが、頬が赤くなっている理由はそれだけではなかった。だが正直に言うことも出来ず、シャロンは心の中だけで絶叫する。
(だ、だって今、名前……シャロンって、……それに髪! どうしよう、ぼさぼさだった⁉)
やっぱり余裕をもって鏡を見ておくんだった、とラルフに正された辺りを、恥ずかしそうに何度か撫でる。だが当のラルフはシャロンの困惑に気づいていないのか、いつものようにシャロンを椅子に誘導した。
基礎的なレッスンをいくつか進めた後、ラルフが一つ提案する。
「来週くらいから、何か曲を練習しましょうか」
「は、はい!」
「何か好きな曲はありますか?」
ええと、といまだに拍打つ心臓を押さえながら、シャロンは思考を巡らせる。ニーナから師事を受けられるようになって、多くの曲を知る機会は得られた。でも自分で弾くとなると――とシャロンは思わず口にする。
「さっきの曲、がいいです」
「さっきの、と言いますと……」
「お、お兄様が弾いておられた曲です。何というタイトルなんですか?」
シャロンの提案に、ラルフは視線を落とした。
「タイトルは――ありません」
「ない……?」
「ええ。……あれは、私が昔作った曲なので」
え、とシャロンは思わず声を上げてしまった。
もちろんニーナほど音楽に詳しいわけではない。だが先程の楽曲は、とても素人が片手間に書き上げられるものではないことくらい、シャロンでも理解出来た。
ならば余計に、とシャロンは強く願い出る。
「それならなおのこと弾きたいです。お兄様の曲」
「ですが……」
「お願いします。すごく、……すごく素敵でした」
真摯なシャロンの視線を受け、ラルフは参ったとばかりに苦笑した。
「分かりました。この曲を人に教えるのは初めてですが、まあ何とかなるでしょう」
「あ、ありがとうございます!」
となると、楽譜に起こして……と準備を考え始めたラルフは、そうか、と思い出したように口にする。
「であれば、タイトルもつけなければなりませんね」
「なんと名づけるのですか?」
「そうですね……少し考えさせてください」
ふふ、とラルフがいたずらめいた笑みを浮かべる。その姿を見たシャロンは、体の奥がどくんと跳ねるのに気づいた。ではレッスンの続きを始めましょう、と隣に座ったラルフが鍵盤を叩く。その指先を眺めながら、シャロンは改めて思い知らされた。
(わたし、やっぱり……ラルフさんのこと、好きなんだ……)
いつからだろう。もしかしたら、私をアイドルにすると宣言した時から、ずっと惹かれ続けていたのかもしれない。
(でもだめだわ……アイドルは『恋愛禁止』……)
アイドルはすべての人のために。誰か一人のものになってはならない――他ならぬ、ラルフから言い聞かされてきたことだ。なによりラルフにとって、シャロンは『商品』……貴族たちの中に取り入り、王族とのつなぎを作る、金儲けのための道具でしかないのだから。
分かっています、とシャロンは心に秘める。
(神様、お願いします。この気持ちは絶対に誰にも言いませんから、どうか……思うことだけはお許しください……)
自分が目指すべきはアイドルで、王族に近づく手段を得ること。
それだけがシャロンとラルフを繋ぎとめている楔なのだと、シャロンは自らの初恋に、絶対に外れない錠をかけた。