第一章 5
シャロンがアイドルを目指し始めて、八か月が経過した。
「はい終了! いいわあ~素晴らしい、完璧よ!」
「ありがとうございます!」
かつてのボールルーム。
そこには以前のように叱られ、泣いていたシャロンの姿はない。
完璧なバランスの栄養を与えられた体は、成長期にふさわしい伸びやかな成長を遂げていた。
長く細い手足にすらりとした首筋、女性らしいふくらみはそのままに、全身は柔くしなやかな筋肉で覆われている。おまけにあれだけ踊った後だというのに、汗一つかいておらず、息切れする様子もない。
「先生、ちょっと気になったんですが、さっきのステップでは――」
「そうね、そこは男性に合わせて……」
完璧と称された後であっても、少しでも気になる部分は必ず尋ねた。最近ではその質問がどんどん専門的なものになっていき、サルタリクスの方が舌を巻くほどだ。
「あ、すみません先生。次に歌のレッスンが入っているのでこれで失礼します! 今日はありがとうございました!」
「はい、お疲れ様」
二時間踊り続けた後だというのに、溌溂とした笑顔を浮かべながら、シャロンはボールルームを後にする。その溢れんばかりの元気の良さに、こちらまで笑顔になってしまうわね、とサルタリクスは苦笑した。
(あの子、経済学と心理学の授業も増やしたって言っていたわね……)
聞けば、元々ラルフが予定していた課題以外にも、ピアノ、絵画、調理と幅広く師事を受けているのだという。
料理なんて貴族の令嬢はしないものでは、と思ったのだが、彼女が目指すのは『アイドル』だ。何が役に立つか分からないから、出来るだけ多くの技能を習得したいという、シャロンたっての願い出らしい。
「でも大したものだわ。たった八か月でここまで成長するなんて……」
かつてのラルフの言葉を思い出し、サルタリクスは一人微笑んだ。
シャロンの変化はダンスだけではなく、歌の部分でも明確に表れていた。
「じゃあ僕が歌うから、後に続けて」
「はい!」
いつからか、シャロンの呼吸が明らかに変わった。思わず何をした、とニーナが問い正したところ「腹筋を朝と夜に五十回ずつ……」と怯えた様子で答えたのを思い出す。
その日からすぐに歌のレッスンに入ったのだが、途端にシャロンは目覚ましい進化を見せた。
「――、……この曲は知っていたのか?」
「い、いいえ! 初めて聞きました」
「……」
まただ、とニーナは焦燥感すら覚える。
シャロンはとにかく耳が良かった。ニーナが歌う音を完璧に覚え、理解し、その通りに繰り返すことが出来た。それも一回聞いただけでだ。おまけに曲解釈を伝えて二回、三回と歌わせると、さらに情緒に溢れた多彩な表現を出してくる。
(どう考えても普通じゃない。……天才の所業だぞ⁉)
正直なところ、ニーナですらここまでの芸当は不可能だ。いつだったか、来たばかりの彼女をこき下ろした時、得意げに「絶対に大丈夫だ」と言い切ったラルフの顔を思い出しながら、忌々しくシャロンに尋ねる。
「お前、前にどこかで歌の習いを受けたのか?」
「い、いいえ! とんでもない」
「じゃあどうしてここまで歌える?」
するとシャロンはううーんと深く眉間に皺を寄せたかと思うと、何かを思いついたように手を叩いた。
「あ、でも元々歌うことは好きでした! 孤児院時代に、流れの歌い手さんが来ると、後でみんなと一緒に歌えるように、一生懸命聞いて覚えたりとか……」
「他には?」
「あとは……あ、ラルフさんにピアノを習っているので、そのせいかもしれません」
「ラルフが? お前にピアノを?」
信じられない、とニーナは息を吞んだ。
(あいつがまたピアノを弾くなんて……それどころか、人に教えるなんて……)
狼狽するシャロンを前に、ニーナは腹の奥がぞくぞくとするのを感じていた。これは才能への嫉妬か――いや、この金の卵を自らの手で孵化させることが出来る、喜びだ。
「次の曲行くぞ! 長いからしっかり続け!」
「は、はい! お願いします!」
ニーナから鬼気迫るレッスンを受けたシャロンは、ラルフの執務室へと向かっていた。
(あああどうしよう、ピアノのレッスンが……)
あらかじめ先の予定は伝えておいたのだが、自分の世界に没入したニーナを止めることが出来ず、ラルフと約束していた五時になってしまった。五分前行動を課していたシャロンにとっては大きな失態だ。
一呼吸置いてこんこんと扉を叩く。返事はない。
(まさか、怒っていなくなってしまった……⁉)
そっと取っ手を押してみる。すると扉はあっさりと開き、シャロンは恐る恐る中に足を踏み入れた。執務机にラルフの姿はない。すると隣室からかすかなピアノの音が聞こえ、シャロンは再度もうひとつの扉に手をかけた。
するとわずかに開いた隙間から、きらきらと輝く音の粒が流れ込んでくる。
(――素敵……)
そこでは清らかな水のせせらぎのような、素晴らしく壮麗な曲が奏でられていた。ピアノの前には軽やかに鍵盤をつま弾くラルフがおり、その美しい姿にシャロンは思わず目を奪われる。
普段のすべてを見透かしてくるような笑顔ではなく、白と黒の鍵だけをまっすぐに見つめる真剣な横顔。夕焼けの柔らかい陽光が、ラルフの高い鼻筋や顎の輪郭を照らし、まるで彼自身がうっすらとした燐光を発しているかのようだ。
指先から生み出されるすべらかな旋律は甘く、だが悲しみを告げる恋人のようで。セリフも歌詞もついていないのに、シャロンの脳裏には何故か歌劇の一幕が再現されるかのようだった。
「――シャロン?」
「……は、はいッ!」
突然名前を呼ばれ、シャロンは反射的に返事をした。ぱちんと泡が弾けるように幻想は消え去り、代わりに不思議そうな顔をしたラルフの姿が現れる。