第一章 4
翌日から、シャロンは少しずつ変わっていった。
まずは早朝、肺活量を増やすためにジョギングを開始した。ダンスや音楽のレッスンでは相変わらず怒られ続けていたが、昼食は出来るだけ早く済ませ、残りの時間を予習に充てることにした。
今日習うところの語句を調べておき、授業では前回分からなかったことを尋ねた。就寝前には復習をし、家庭教師がちらりと見たシャロンのノートには、授業で扱わなかった事柄までびっしりと書かれていた。
化粧に関しては使った白粉や紅について、すべて絵を描いて暗記をした。また授業のない日も朝から昼、夜とさまざまな方法を試し、自分に一番似合う色、塗り方を独学で習得した。
もちろん最初のうちは、指示されたことの倍はある作業量に、困憊して潰れることも多かったが――何度倒れようが多少の熱があろうが、シャロンは自らに人一倍の努力を課し続けた。
その日、シャロンは珍しくラルフの元を訪ねていた。
「ピアノを習いたい?」
「は、はい。……やっぱり、ダメ、でしょうか……」
「――いいえ? でもどうして急にそのようなことを」
「その、歌をやるためには楽譜も覚えた方がいいと思いまして……でも、本では分からない部分が多いので、出来ればどなたかの師事を受けられればと……」
するとラルフはふうむ、と口元に手をあて、しばらく考え込んでいた。やがて恐縮しているシャロンを見て、いたずらを思いついた子どものような顔で笑う。
「でしたら、私がいたしましょう」
「え?」
「これでもピアノでは、少し名が知れていましてね。もしご不満であれば、別の講師を探してきますが……」
「い、いいえ! でも良いんですか? お、お兄様もお忙しいのでは」
「可愛い妹たっての頼みとあれば、断ることなど出来ませんよ」
かわいい、という甘い響きにシャロンは思わず唇を噛んだ。顔が赤くなっているのが自分でも分かる。
(そ、そういう意味じゃないって、分かっているのに……)
シャロンが必死に顔の火照りを払う間に、ラルフは椅子から立ち上がると、隣室へと移動した。慌ててシャロンが追いかけると、目の前に立派なグランドピアノが現れる。どうやら執務室の隣に、防音の部屋を設けているようだ。
「どうぞ」
ラルフに言われるまま、鍵盤の前に置かれた長椅子に座る。すると隣にくっつくように、ラルフが腰かけてきた。ようやく大人しくなったシャロンの心臓が、再びばくばくと音を立てる。しかし当のラルフは一切気にしていないようだ。
(ち、近い!)
「まずは音を覚えましょう――これがC」
ぽーん、と柔らかくハンマーが弦を打つ。集中しなければとシャロンは必死になるが、すぐ傍にいるラルフの声に聞き惚れてしまって、なかなか覚えることが出来ない。次いでD、Eと音階が上がっていくのを、シャロンは丁寧に耳に馴染ませた。
「これで一通りのオクターブは終わりです。では、これが何の音が分かりますか?」
「ええと……Aですか?」
「正解です。ではこれは」
「G……?」
「……これは?」
「ツ、CとDの間? ってあるんですか?」
「C♯、と言います。黒鍵は使わなかったのに、よく分かりましたね」
「な、何となく、……?」
「驚きました。耳が良いんですね」
どうやらラルフは本当に感心しているらしく、珍しく目を大きく開いていた。初めて見るその表情に、シャロンは褒められたこと以上に嬉しくなる。緩みそうになる口元を押さえながら、シャロンは懸命に楽譜の読み方を習っていった。
そしてシャロンがこの邸に来てから、半年が経過した。
その日ラルフはギルドの飲み会に参加しており、帰りついたのは十一時を過ぎたところだった。酒は弱い方ではないが、さすがに少し飲みすぎたか、と痛む頭を押さえながらラルフは私室へと向かう。
するとその廊下の突き当りに、ぼんやりと光る部屋を発見した。
(……?)
どうやら小規模パーティー用に作らせたボールルームの一角のようだ。使用人の不手際か、と足を進める。すると中には人影があり、ラルフは思わず目を見張った。
(――シャロン?)
そこにいたのは、ダンスの練習に励むシャロンだった。
相手がいないのでシャドーだが、まるでパートナーがそこにいるのかと錯覚したくなるほど、しっかりしたポージングだ。ピンクの長い髪を高い位置で一つに結び、額には玉のような汗をいくつも浮かべている。
だがその目には一切の妥協も疲労も見せず、懸命に鏡に映る自分の姿を確かめていた。
今日のレッスンは八時にはすべて終了したはずだが、一体何時間こうして一人で踊り続けていたのだろうか。
(……)
ラルフはそんなシャロンの姿を見、すぐに踵を返すと、来た廊下をまっすぐに戻っていった。
時計がてっぺんを回る頃、シャロンはようやく練習を終えた。
(もうこんな時間、明日のヴェルシア語の予習だけしておかないと……)
全身汗みずくの状態で髪をほどく。ここに来た時は肩につかないくらいの長さだったのに、今では背中に達する勢いだ。ラルフ曰く髪は女性の命らしく、長い方が色々と都合がいいからと言われて以降、せっせと伸ばし続けている。
タオルで汗をぬぐい、室内の戸締りをした後、廊下側の扉を開ける。すると足元に見慣れない盆が置かれていた。
「何かしら、これ……」
誰かが置き忘れたのか、としゃがみ込む。盆の中には水の入ったボトルと空のグラス、そしてパラフィン紙に包まれた、ドライフルーツの焼き菓子が置かれていた。その脇に小さなカードがあり、書かれている言葉にシャロンは目を疑う。
『――あまり、無理はしないように』
(これ、ラルフさんの字だわ……!)
はっきりとした署名があるわけではないので断定は出来ない。だがピアノを習った時に楽譜に書かれていた文字や、養子縁組に必要だからと書かされた書類にあったラルフの筆跡と、とてもよく似ていた。
もっとよく見てみよう、と灯りのある室内へそれらを持ち運ぶ。
(もしかして、差し入れしてくれたのかしら……)
タイミングよくお腹がくうと鳴り、シャロンはそろそろと焼き菓子を口に含んだ。甘さは控えめだが、乾燥した果物の凝縮された味わいが、じんわりと舌の上に広がる。シャロンは美味しさを噛みしめながら、ゆっくりゆっくりと反芻した。
気づけばボトルの水も半分以上飲み干してしまい、こくりこくりと冷たい水が喉を滑り落ちる。
(お水……まだひんやりしてる……)
シャロンはすぐにグラスを置くと、もう一度廊下の方を見に行った。もしかしたらたった今置かれたものかも知れない、と期待してラルフの姿を探したが、薄暗い奥行きが続くばかりで、願っていた彼の姿はない。
「いない、よね……」
だがわざわざ様子を気にしてくれた。それだけでシャロンにとっては十分だ。
シャロンは部屋に戻り、グラスに残った水を飲み干すと、よしと気合を入れる。
「もうちょっとだけ、頑張りますね」
シャロンはメッセージカードを両手で持つと、そっと口づけた。