第一章 3
それから数日間、シャロンは今までに味わったことのないほどの叱責を受け続けることとなった。
全身筋肉痛になってサルタリクスに怒られ、食事の席では胃袋の許容量とマナーにうるさい執事との攻防戦をし、歌おうとすればニーナから腹筋を言い渡される。
その上二週間を経過した辺りから、教養と化粧についての講師も増え、シャロンは文字通り朝から晩まで『アイドル』としての技量を叩きこまれていた。
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(つ、疲れた……)
抱えていた帝国史のノートと一緒に、シャロンは自室のベッドに倒れ込んだ。
時計を見ると夜の十一時。最近ようやく時間が読めるようになった。
(だ、だめ……顔を洗って、寝着に着替えないと……)
正直ものすごく眠たい。今目を閉じればすぐに朝まで熟睡できる自信がある。
だが午後に化粧の指導を受けたばかりで、これを落とさなければ、とシャロンは必死に瞼を押し上げた。
のろのろと立ち上がると、部屋の隅に用意されていた洗面皿に向かう。顔についていた白粉や紅を拭い取ったところで、シャロンはゆっくりと顔を上げた。正面には夜を四角く切り取ったかのような窓ガラスがあり、青白い悲愴な顔の自分が映っている。
(わたし、本当にアイドルなんかになれるのかしら……)
リーデン家の養子になってから三週間。
相変わらず講師陣からの評価は芳しくない。音楽にいたっては腹筋の回数が増えたくらいで、ニーナから何の指導もしてもらえない有様だ。
(ダンスも歌も、全然身につかない……勉強は楽しいけれど、知らない言葉ばかりでそれを調べるのに時間がかかって……)
前髪についた雫を拭いながら、シャロンは強く目を瞑った。
(もう、辞めたい……)
いっそ、逃げだしてしまおうか。ここを出て、新しい仕事を探して……とシャロンは考える。そうと決まればのんびりしている時間はない、とシャロンは自室を後にした。
わずかばかりの照明が灯る廊下を、シャロンは音を立てないよう注意して進んでいく。途中ラルフの執務室があり、シャロンは特に気を付けて足裏を絨毯に下ろした。
そこで扉の隙間から、わずかな明かりが漏れていることに気づく。
(こんな時間なのに、まだ仕事をしているのかしら……?)
だが逃亡がばれてはまずい、と息を潜めてシャロンはそろりと移動する。
すると執務室の中から、馴染みのある声が聞こえてきた。
「ラルフ、本当にあの子で大丈夫なの?」
(サルタリクスさんだ……)
レッスンで説教される時とは異なる、落ち着いた真摯な声色に、シャロンは思わず足を止めた。続いて聞こえてきたのはニーナの声だ。
「僕も同感だ。あそこまで呑み込みが悪い生徒とは会ったことがない。今からでもいい。他の奴に変えてはどうなんだ?」
二人の忌憚ない意見を前に、シャロンは手を握りしめた。言われて当たり前だ、と頭では理解をしているのに、どうしてか心臓が痛い。
(分かっている。わたしには、アイドルなんて無理……才能がないことなんて、わたしが一番分かっている……)
ぐちゃぐちゃになる感情を何とか抑えようとするが、知らず目頭に熱が宿る。ぶわりと沸き上がる悲しみに、シャロンは思わず目を瞑った。
そこに穏やかな、だがはっきりとしたラルフの言葉が突き刺さる。
「いいえ、変えません。私は絶対に彼女をアイドルにします」
(ラルフ……さん……)
ラルフの宣言に、講師たちのかすかなため息が続く。
「ラルフの目に間違いがないことは知っているけど……あの子は物じゃなくて、人間よ。いくらあなたでも見抜けないことはあると思わない?」
「私は人でも物でも、真贋を違えることはありません。それはあなたが一番よく知っているでしょう? サルタリクス」
「そ、それは、そうだけど……」
「ならあいつの進歩のなさはどうするつもりだ? 三週間も経って、何一つ習得出来ていないんだぞ」
「ニーナ、ではあなたは一か月そこらで、今の技量を身につけたとでも?」
ぐ、とニーナが言葉を呑み込んだ。
「大体、あなた方はあの子の何を見ているんですか。何も出来ていない? とんでもない! あの子は今日、夕食の時間に時計を見て現れました。時針と分針が読めるようになった証拠です。食事のたびに赤くしていた手も、今ではすっかり白いまま」
シャロンは思わず自身の手の甲を見た。そういえば最近は時間がなく、とにかく早く食事をしなればという思いから、マナーの指摘回数を極限まで抑えるよう挑戦していた。そんなところまで見られていたなんて、とシャロンは再度ラルフの言葉を待つ。
「誰が何と言おうと、私はあの子を――シャロンを信じています。あの子は必ず素晴らしいアイドルになる。その姿を私は誰よりも先に、誰よりも近くで見たいんです」
気づけばシャロンの涙は乾いており、そっと光の漏れる扉へと手を添わせた。
(ラルフ、……さん)
今すぐこの扉を開きたい。あの言葉を、ラルフがどんな顔で言ってくれているのか、シャロンは見たくてたまらなかった。だがすぐに手を離すと、シャロンは来た方角へと戻っていく。
(わたし、……負けたくない……)
見てくれる人がいた。自分でも気に留めていなかったような、小さな成長をラルフだけが気づいてくれたのだ。
部屋に戻ったシャロンは、再度顔を洗うと両手で頬を叩き、気合を入れなおした。ベッドに投げ出されていた帝国史のノートを拾い上げると机に向かい、参考書とともに開く。
時計の針は、十二時を回ったところだった。