第一章 2
そしてシャロンの『アイドル』育成計画は始まった。
「ちょぉっとォ! あんた何回言ったら分かるの⁉」
「す、すみません!」
ボールルームの中に、サルタリクスの大声が響き渡った。びくりと体を硬直させるシャロンのもとにつかつかと歩み寄ると、逞しい腕でがっしりと腰を掴んでくる。
「背筋はまっすぐ、ホールド崩さない! やり直し!」
「は、はいっ!」
朝食を終えてすぐ、まずはダンスのレッスンが始まった。
まったくの初心者であるシャロンに向けて、正しい姿勢からポーズ、基本となるステップの指導からスタートする。だがなにせ経験のないシャロンにとっては、普段使わない筋肉を消費する苦行でしかなかった。
「い、いた、先生痛いです!」
「体硬ったいわねえ、ちょっと剥がしてあげるわ――フン!」
「ぎゃーーーー!」
「ちょっと、アイドルが変な声出さないのよ!」
肩と背中に手が当てられた次の瞬間、激痛がシャロンを襲った。だが痛かったのはほんのわずかな間だけで、すぐに元の調子に戻る。いやむしろ少し軽くなった気もする。
「はい次! その姿勢のまま、あの時計の針が下を向くまで!」
「は、はひ……」
時計の読めないシャロンは、果たしてどのくらいすればいいのかと絶望しつつ、必死になって背筋を伸ばし続けた。
ようやくダンスのレッスンが終わり、昼食の時間になった。だが運ばれてくる料理を見たシャロンは、隣にいた執事に恐る恐る確認する。
「あのこれ、わたしの、ですか?」
「はい。旦那様より、特別メニューをご用意するようにと」
(た、食べきれない……)
脂身の少ない鳥身の香草焼きに、魚のバジルソース添え。数種類のキノコが入ったリゾットに丸ごとトマトのミネストローネ。豆や野菜を練り込んだ焼き菓子まである。
メイド時代は黒パンとスープ、祭日に少しのお肉が出る程度の食事しか見たことのなかったシャロンなので、ずらりとテーブルを埋め尽くす皿の群れに、食べる前から胸やけがし始めた。
「しっかりと栄養をとって、健やかな体を作っていただきたいとのことです」
「い、いただきます……」
どうやらこれも『アイドル』になるため、必要不可欠な要素のようだ。シャロンは食事の前の祈りを神に捧げると、気合を入れて香ばしい焼き目の鳥にナイフを入れようとする。
すると先ほど話しかけた執事から、銀色の指示棒でぴしゃりと手の甲を叩かれた。
「え、え⁉」
「食器の持ち方が美しくありません。フォークは背を上に、人差し指を添えて」
「こ、こうですか……?」
「違います」
(うう……)
スープから立ち上っていた湯気が、時間とともに薄れていく。シャロンは途方に暮れながらも、辛抱強く執事の教えに従った。
(も、もう食べられない……)
ダンスのレッスンでお腹がすいていたこともあり、シャロンは何人前あったのかという料理を何とかすべて完食した。ただしあれ以降も何度もびしばしと叩かれ、手の甲はうっすらと赤味を帯びている。
だが午後のレッスンのために訪れた音楽室で、シャロンは再び胃痛を抱える羽目になった。
「――声が出ていない。呼吸法も分かってない。やる気あるのか?」
「は、はい……」
ニーナのダメ出しに、シャロンは懸命に習ったことを再現する。だが実践しているつもりでも、どうやらニーナの目には良く映っていないようだ。
「違う。何回言わせるんだ」
「す、すみません」
「もう一度、最初から」
お腹から横隔膜を押し下げるようにして声を出す。ニーナの叩くピアノの鍵盤に合わせて一音ずつ上げていくが、やはり途中で止まってしまった。
「ダメだ。上体に力が入ってる。筋肉つけるところからするべきだな」
「き、筋肉、ですか?」
「そこに寝ろ。腹筋五十回」
一瞬数字を聞き間違えたかと呆けていたシャロンだったが、どうやらニーナは本気のようだ。シャロンはいっぱいになっている内臓をなだめながら、必死に上体を曲げ起こしていた。
ニーナに度々罵声をぶつけられながら、歌のレッスン――というより筋トレを終えたシャロンは、ようやく夕食のテーブルについていた。反対側にはラルフがおり、実に愉快そうにシャロンを見て微笑んでいる。
「いかがでしたか、初めてのレッスンは」
「な、なんとか……」
「午前中に絞められた鶏のような声がしましたが」
「あの、それは……すみません」
くす、と笑みを零しながら、優雅な手つきで鴨肉のソテーを口に運ぶラルフを前に、シャロンは自らの前に置かれた食事にしばし絶句した。
(何かしら、これ……)
ローストされた大きな種と、粘り気のある白い液体。液体の方はなんとなく酸っぱい匂いがして、シャロンは傷んでいるのではと訝しむ。するとその様子に気づいたラルフが、笑いをこらえるように口元に手を当てた。
「大丈夫ですよ。ただのナッツとヨーグルトです」
「ナッツとヨーグルト、ですか?」
「ええ。女性の美容のためにとても良いと言われている食品です」
さすがに貿易商の家。知らないものばかり出てくるわ、とシャロンは感心する。いかんせん量が少ないが、食べ物を出してもらえるだけでもありがたいと思わなければ。
(でも……もう少しだけ……)
くるる、と寂しく鳴くお腹をシャロンが労わっていると、それを見たラルフが執事に何かを言づけた。すぐにシャロンのもとへ、フルーツの盛り合わせが運ばれてくる。
「あの、これは?」
「本当は決められたメニューだけなのですが、……まあ、頑張ったご褒美ということで」
「あ、ありがとうございます!」
途端に花が咲くような笑みを浮かべたシャロンを見て、ラルフはどうぞと食事を促した。よく熟した果実の甘みが、疲れ切ったシャロンの心と体を癒してくれるかのようだ。目には涙すら滲み出してくる。
(お、美味しい……こんな美味しいものがこの世にあるなんて……)
見る間に皿を空にし、満ち足りた表情を浮かべるシャロンに、ラルフが苦笑する。紅茶のカップを傾けながら、シャロンに話しかけた。
「とりあえず、サルタリクスとニーナの評を聞きました」
「……! ど、どうでしたでしょうか」
「アイドルとしては『不合格』だそうです」
分かってはいたが、いざ断言されると心に来るものである。だが教師陣の酷評を聞いたというのに、ラルフは平然とした様子だ。
「あの、すみません……」
「? 何がです」
「せっかく先生をつけてくださっているのに、わたし、全然ダメで……」
するとラルフはカップをソーサーに戻すと、静かに目を眇めた。
「まだたった一日です。諦めるには早すぎるでしょう」
「で、でも、やっぱりわたしには無理なんじゃ……」
うつむくシャロンを前に、ラルフは『マイナス十点』と呟いた。
「何度でも言ってあげましょう。あなたはこの私が選んだ『原石』です。誰もが心を奪われる、素晴らしい『アイドル』になれる素質を秘めている」
「……」
「まあそれも磨けば、のことですがね。やめるのは構いませんが、その時点でうちの養子縁組は外させていただきます。かかった経費も請求させていただきますので、そのつもりで」
ね、とにっこり微笑む悪魔を前に、シャロンは自らの逃げ場がない――どころか、四方を断崖に囲まれているのではないか、と冷や汗をかいていた。