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第五章 アイドル、婚約者、そして最愛




 ピアノを弾いていたシャロンは、ぎいという扉の音に手を止めた。


「おかえりなさい! おにい、……じゃなくて、ラルフさん」

「はい。ただいま戻りました」


 相変わらず頭の先から靴先まで真っ黒なラルフが、外套を脱ぎながらシャロンに微笑みかける。身軽になったその足で、長椅子に座るシャロンの隣に腰かけた。


「まったく、王族というものはどうしてああも隠蔽体質で非効率的なのか」

「た、大変そうですね」

「ですがこれで召喚も終わりでしょう。あなたにも、迷惑をかけてしまいましたね」

「そんな、元はといえば私のせいなのに」


 申し訳なさそうに眉尻を下げるシャロンを見て、ラルフはそっと彼女の頭を撫でた。





 ――先日のグレン殿下の騒動以降、シャロンやラルフ、サルタリクスらは参考人として、何度か王宮に呼びつけられていた。


 最初はあきらかな犯罪とはいえ、相手が王族ということもあり、闇に葬られるのではと危惧していた。事実、捕らわれていた女性の大部分は泣き寝入りを覚悟していたらしい。

 だが被害に遭った女性の中に、ゴルト伯の一人娘・エメリアがいたことで、状況が一変した。王族が緘口令を敷く前に、有力な貴族間で噂が広まってしまったのだ。王族も諦め悪くあがいていたようだが、さらに不運なことに、社交界や他国に広くつながりを持つラルフに情報を握られたことが致命傷となった。


 結果、表立った処罰こそなかったものの、グレン第三王子は王位継承権を剥奪。地方の辺境伯邸で監視付きの一生を送るらしい。


「あなたのせいではありませんよ」

「でも……」

「そのおかげで、アイドルよりも強いコネクションを持つことが出来ましたし」


 うっとりとした愉悦を浮かべるラルフに、シャロンは少しだけ苦笑する。


 シャロンを王族に売り込む計画は失敗してしまったが、ラルフはあの場で宣言した通り、グレン殿下の醜聞をちらつかせては、これでもかというほど王族や大公らに根回しを進めているらしい。

 決してただでは起きない、本当に商人として頼もしい性格である。


 当事者としての記憶を手繰ったシャロンは、ふとラルフに問いかけた。


「そういえば、あの時グレン殿下の邸で倒れていた兵士たちは、ラルフさんが?」

「まさか。あれはサルタリクスの仕業ですよ」

「えっ⁉」

「サルタリクスは元々高名な騎士一族の出身でした。ですが彼自身、本当にやりたいことと期待されていることの間で板挟みになっていた。そのうちに後継者争いで一族が離散し、一人でいるところを私と知り合ったんです」

「き、騎士、ですか?」

「ええ。そういえばニーナと知り合ったのも同じ頃ですね」


 ようやく明かされた講師陣との出会いに、シャロンは思わずぽかんと口を開いた。ラルフと二人にそんな過去が……と驚いていたシャロンはおずおずと尋ねる。


「あの、ずっと気になっていたんですが……ラルフさんは、昔ピアニストをされていたんですか?」

「どうしました突然?」

「だ、だって、コンサートの時もあれだけの曲を完璧に弾いていましたし、しかも暗譜なんて……」


 ああ、と合点がいったようにラルフは顎に手を添えた。何かを思い出すかのように、しばしぼんやりと鍵盤を眺めていたが、ゆっくりと手を伸ばすとポーン、と一音だけ柔らかく響かせる。


「正確には――ピアニスト志望でした。私は元々リーデン家の次男で、家業のことはすべて兄に任せて、諸国を放浪する遊び人のような暮らしをしていたんです」


 もっとしっかりしろ、どうして兄を助けないのか、という両親の叱責を聞き流し、朝から晩までピアノを弾いては遊び暮らした。各国の貴族らから専属にという依頼を受けたこともあったが、ラルフはすべて断った。

 一介の貴族ではなく、国の王族に召し上げられるような――そんな傲慢な夢を思い描いていたのかもしれない。


「兄は本当に優しい人で、そんな私のことを責めもせず『家業のことは自分がやるから、好きなように生きろ』と背中を押してくれました。このピアノも、私が帰ったときに披露出来るようにと、兄が用意してくれたものです。ですがある日突然――兄は事故で亡くなりました」

「お兄さん、が……」

「私はすぐに呼び戻され、家を継ぐよう言われました。最初は逃げ出すつもりでしたが、兄がしてきた……しようとしていた仕事を見て、考えが変わったんです」


 兄は複数国にわたる交易路をさらに発展させ、新たな事業として金融業の子細な計画を立てていた。それだけではなく、得た利益を元に公的な孤児院の設立をしたり、貧困家庭の子どもたちが学校に通えるように助成金を設立したりと、福祉に対して誠実に取り組んでいたことを、ラルフはその時初めて知った。

 いつも『俺には何の才能もないから、お前が羨ましいよ』といって、ラルフの頭を撫でてくれた。だが本当は兄こそが『天性の商人』として輝かんばかりの才能を持っていたのだ。

 それは自分だけではない、誰かを助けることの出来る才能。


「私は兄の遺志を継ぐために、この家に戻りました。それ以来、ピアノを弾くのはやめていたんです。自分に対する誓約のようなものでしょうか」

「そう、だったんですね……」

「ですが、あなたがあんまり思いつめた表情をしていたので、つい」


 兄の素晴らしい才能を潰したくなくて、見よう見まねでラルフは必死に働いた。その成果は少しずつ現れ、なんとか事業を回していくことが出来るようになった。

 だが商人としてのラルフが輝けば輝くほど、元々存在していた『音楽家としてのラルフ』は闇に葬られてしまっていたのだ。そのことに、ラルフ自身も気づかないふりをしていたのかも知れない。

 しかし抑圧された自らの欲望はなおも歪んでいき、やがて『アイドル』としての存在を強く追い求める願望に代わった――そこで、ラルフはシャロンと出会ったのだ。


「思えば私は、あなたに自分の姿を重ねていたのかもしれません」

「わたしに、ですか?」

「ええ。私が諦めた夢を――誰かに叶えてほしかった」


 誰からも愛される素養を。音楽で人を笑顔にさせる才覚を。王族からも認められる実力を。自分が求めて得られなかったすべてを、アイドルという形でラルフはシャロンに託した。シャロンはそれを見事にかなえ、ラルフの思っていた通りの存在となった。


「でもそれは……間違っていました。私とあなたは違うと、分かっていたはずだったのに」


 二人は別々の人間だった。だから互いに恋に落ちた。

 シャロンはラルフに恋をするあまり、自らを犠牲にしてまでアイドルを演じ切ろうとした。ラルフもまた、彼女が他の男のものになることを、手放しに喜べなくなっていた。

 気づくことが出来て良かった、とラルフは呟く。


「今まで、本当に申し訳ありませんでした」

「と、とんでもないです! むしろわたしの方が、ラルフさんにはお礼を言わないといけませんし……」

「お礼、ですか?」

「はい。わたしをここまで育ててくれて、ありがとうございます」


 そう言って柔らかく微笑むシャロンの顔は、かつて国中の男たちを魅了してきたアイドルに相応しいものだった。その笑顔を今は自分一人が独占しているのだ、という優越感を覚えながら、ラルフはそっと一枚の書類を内ポケットから取り出す。


「ああそうだ、これもようやく揃いましたよ」

「これは?」

「『――ゴルト伯爵家アブドラ・マッカーソンは、シャロン・リーデンと養子縁組を結ぶものとする』……これであなたは正式にゴルト伯爵家のお嬢さん、ということになります」

「へ?」


 突然のことに、シャロンは再び開いた口が塞がらなかった。



 

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