第四章 10
「わたしなら大丈夫ですから、もう……」
「ふふ、君は優しいね。シャロンはこう言っているけど、どうする?」
「……」
短い静寂の後、ラルフはゆっくりと絨毯の上に膝をついた。そのまま一方の手のひらを床に伸ばしたところで、シャロンが再び泣き叫ぶ。
「やめてください! 殿下、私、言うとおりにしますから。どうかお兄様を……」
「いいじゃない。あのプライドの塊みたいな男がひれ伏すなんて、一度見てみたいと思わない?」
愉悦を浮かべるグレンを、シャロンは瞋恚の目で睨みつけた。だが当のラルフはシャロンを諭すように微笑む。
「いいんですシャロン。このくらい、大したことではありません」
「でも……」
「大丈夫。あなたは必ず、私が守りますから」
ラルフのもう一つの手が下ろされ、シャロンはたまらず目を瞑った。グレンに対する怒りと悔しさで、腹の奥底が煮えくり返っていく。
(どうすればいい? わたしはこのまま、ただ泣いているつもり⁉)
違う、とシャロンは濡れた睫毛を押し上げた。
今までだってそうだった。出来ない、無理だと泣いているうちは変わらない。そこを努力で乗り越えるのが――本当の『アイドル』だと。
(戦うのよ、最後まで!)
次の瞬間、シャロンはグレンの腕に力いっぱい噛みついた。
突然の衝撃にグレンはナイフを手落とし、シャロンの髪を掴んでいた力も弱まる。その隙にシャロンは上体を傾け、逃げ出そうと試みた。
「ッ!」
だがグレンもすぐに体勢を立て直し、目の前をよぎったシャロンの髪の端を捕らえたかと思うと、力の限り引き寄せる。苦痛に呻くシャロンを目前にし、たまらずラルフが叫んだ。
「シャロン!」
「躾の悪い人形だ。きちんと教え込んで――」
しかしシャロンは悲鳴を噛みしめると、ベッドに落ちていたグレンのナイフを手に取った。驚き目を剥くグレンの目の前で、シャロンは自身の髪に刃を滑らせる。
ジャギ、と砂を食むような嫌な音とともに――シャロンの長い髪は、中空で真っ二つに切り離された。
シャロンとグレンの距離は一気に引きはがされ、パラパラと長さのまばらな薄紅の髪が散る。シャロンはその勢いのままベッドを降りると、ラルフの元に駆け出した。
「くそッ!」
手の中に残った髪の束を投げ捨て、グレンは慌てて後を追う。だがすぐさま立ち上がったラルフの方が早く、シャロンはそのまま彼の腕の中に飛び込んだ。
「ラルフさん!」
「シャロン!」
咄嗟に受け止めたラルフは、たまらずシャロンを強く抱きしめた。抱擁もそこそこにすぐに背後に移動させると、改めてグレンと対峙する。
「申し訳ありません、殿下。失礼は後日、きちんとお詫びいたしますので」
「それで済むと思っているのか? いいからシャロンを――」
怒りのためか、宝石のようなグレンの瞳が今は醜く濁り切っている。すると聞き慣れた声とともに、背後からどかどかと足音が連なった。
「グレン殿下! そうはいかないわ!」
「サルタリクスさん⁉」
振り返ったシャロンの目に飛び込んで来たのは、繊細なドレスシャツを破きまくったサルタリクスと、息切れで死にそうになっているニーナ。そしてやせ細った女の子たちだった。
その中の一人に見覚えがある――と気づいたシャロンは、思わず声を上げる。
「エ、エメリアお嬢様⁉」
「何ですって?」
つられてラルフも振り返る。そこにいたのは紛れもなく、以前写真で見た『エメリア・マッカーソン』だった。
「ど、どうしてお嬢様がこんなところに⁉」
「あなた、どうしてわたくしを知っているの? まあそんなこと今はどうでもいいわ。わたくしはこの男に騙されたんですの!」
勝気な瞳とともに、エメリアの指がグレンを指し示す。すると先ほどまでの微笑が嘘のようなほど、グレンは完璧な無表情に変貌した。
「騙されたなんて人聞きが悪いなァ。逃げ出したいと言ったのは君じゃないか」
「まさか、監禁されるとは思いませんもの」
「僕だって、君があれほどうるさい人形だとは考えもしなかったさ」
二人の会話でラルフがすべてを理解する一方、シャロンはわけが分からず一人混乱していた。見かねたニーナが、ようやく戻って来た呼吸の合間に切れ切れと説明する。
「邸の地下で、女たちの、声がしたんだ」
「地下で、って……そんなの、全然聞こえませんでした……」
「そこに、こいつらが、捕らえられていた。おそらく、この王子の犠牲者だろう」
シャロンは恐る恐る女性たちに目を向ける。皆腕や足に痛々しい傷跡があり、シャロンはこくりと息を吞んだ。さらにラルフが付け加える。
「おそらくエメリア嬢が駆け落ちした相手というのが、このグレン殿下だったのでしょう。王族の名を出せば、疑うはずもありませんしね」
「そ、そんな……」
「彼は――自分の気に入った女性を囲い込み、飽きたら地下に幽閉する……そんな行為を繰り返していたんです」
やがて階下から物々しい足音が近づいてきた。どうやら事前にニーナが通告していたらしく、王宮の衛兵たちがグレンを捕らえに来ているのだろう。
「いくら王族とはいえ、このことが明るみに出れば、国民からの批判は避けられない。あなたの本性は王族の醜聞として――私が責任をもって、高値で売り払って差し上げますよ」
いつものように眼鏡を押し上げるラルフを前に、一切の感情を捨てたグレンが呟く。
「最後まで金かァ。プライドのない成金が」
「成金で結構。私は元々――こういう性格ですので」
にこ、とそれは嬉しそうに黒い悪魔は微笑んだ。




