第四章 9
二階に到着したラルフたちは、ニーナの聴力を頼りにシャロンのいる部屋を捜した。長い廊下を走っていると、行き止まりに突然一枚の重厚な扉が姿を現す。
「これは……」
「分かりやすいな。この先に奴らがいるということか」
見れば引手の下に立派な鍵穴があり、ニーナはしゃがみ込むと、そっと耳を押し当てた。何度か鍵を爪先で叩いて確認する。
「大丈夫だ。開けられる」
するとニーナは懐から、二種類のかぎ針のようなものを取り出した。鍵穴にそれらを差し込むと、内部の音を聞き分けながら慎重に錠を回していく。
「不思議なものだな」
「え?」
「お前と最初に会った時も、僕はこんなことをしていた。それが今では、お前を助ける側になるなんて」
「ニーナ……」
「ほら開いたぞ、早く――」
かちりと音を立てて扉が前後する。と同時にニーナが慌てたようにラルフの手を引き、扉を開いて押し込んだ。
「兵士が来る。僕はこの扉を塞いでおくから、お前は先に行くんだ」
「――はい、」
迷うことなく走り出したラルフの背を見送ると、ニーナはすぐに振り返った。開錠した鍵を再度内部から閉め、取っ手に挟めるものはないかと物色する。だが次の瞬間、扉ごと破壊しそうな勢いで、兵士たちが突進してきた。
「――ッ」
仕方なくニーナは乱暴に歪む扉に背を押し当て、必死に打ち破られるのを防ぐ。だがあまり時間はない、と祈るような気持ちで目を閉じた。
シャロンが目を覚ますと、そこは天蓋のついたベッドの上だった。
「あれ、思ったより早いね。薬が少なかったかな」
「グレン、殿下……?」
すぐに体を起こそうとしたが、側頭部を槌で叩かれるような激しい痛みに、シャロンはたまらず頭を抱え込んだ。筋肉から力が抜け、再び柔らかい寝台の上に倒れ込む。
グレンはそんなシャロンの傍らにしゃがみ込むと、ひと房の髪をすくい上げた。
「まあいいや。とりあえず、この髪を切ってしまおう」
「……なに、を」
「あとは少しずつ薬を足して……一緒に楽しいことしようか?」
すうと目を細めたグレンの手には、装飾の付いたナイフが握られていた。鋭利な輝きを目にしたシャロンは、ここから逃げなければと懸命に身を捩る。
だがそれを阻害するように、グレンはシャロンの両手首を一つに掴み上げると、恐怖に震えるシャロンの頬にそっとナイフを添わせた。
「言っておくけれど、逃げちゃだめだよ。君は僕の新しいお人形なんだから」
「――ッ、……」
歯の根ががちがちと音を立てる。シャロンの全身は鳥肌を立てるほど怯えていたが、頭だけは脱出するすべを必死に考えていた。だがグレンに飲まされた薬の影響か、断続的に強い頭痛が襲ってくる。
(どうしよう、どうしたら――)
ぎりぎりと手首を押さえつける力も強く、シャロンはいよいよ抵抗の気力を失っていく。全身が戦慄し、恐怖のためか目からは絶え間なく涙が零れ落ちた。
(助けて、だれか――誰か――)
滲んでいく視界の中、思い出すのは真っ黒な外套。
(ラルフ、さん……)
わずかな希望に別れを告げるように、シャロンはそっと睫毛を下ろした。溢れた悲しみは大きな雫となって、シャロンの白い頬を滑り落ちる――その時。
バァン、とけたたましい音と共に、入口の扉が蹴破られた。
「――失礼します」
丁寧な言葉とは裏腹に、はあと荒々しく息を吐きだすラルフが姿を現した。その光景にシャロンとグレンは目を見開いていたが、すぐに状況を理解したグレンが、にっこりと口角を上げて対峙する。
「これはアイゼン子爵。あまりに不躾な訪問では?」
「ああ、失礼いたしました。ですがどうしても、お伝えしなければならないことがございましたので」
ラルフもまた、にこりと営業用の微笑を浮かべた。眼鏡を押し上げると、空気までもが凍てつくような冷たい視線をグレンに向ける。
「――私の妹を、返していただきたい」
するとグレンもまた、天使のような笑みを一転させると、侮蔑したようにラルフを見やった。
「何を言っているんです? 僕はきちんと許可を取ったじゃありませんか」
「部屋に行くという契約までです」
「大人なんだからさ、そのあたりは言わなくても分かると思うんだけど」
「残念ですが、私はしがない商人ですので――」
グレンの強い威圧にも全く屈することなく、ラルフは平然と口元を歪めた。
「契約にない範疇は――お引き受けすることは出来ません」
「……やだやだ、これだから成金は」
グレンははあーとわざとらしく肩を落とすと、ぐいとシャロンの髪を掴み、寝台の上で無理やり引き立たせた。ラルフが近づこうとすると、もう一方の手に握っていたナイフをこれ見よがしに見せつける。
「――痛ッ!」
「シャロン!」
「動かない方がいい。手元が狂って喉を刺してしまうかもしれないよ」
その言葉に、ラルフはその場に押しとどまった。強く唇を噛むラルフの姿に、自身の優位を確信したグレンは嘲るように口を開く。
「うーん、でも君の言うことも一理ある」
「……殿下、どうか」
「じゃあさ、この子僕にちょうだい?」
ラルフはうつむいたまま、大きく目を見開いた。
だがなおもグレンの軽妙な言葉は続く。
「契約をかわせばいいんだよね。じゃあシャロンを僕のものにしたい。それならいいんだろう?」
「殿下、彼女は物ではありません。まずは彼女の意思を――」
「そうなの? 僕はてっきり君も、シャロンを人形として見ていると思っていたけど」
「違います。彼女はれっきとした人間です」
「そうか、君とは話が合うと思っていたのに残念だよ。でも大丈夫、きっとシャロンも僕のことを好きになるよ。正妃は無理だけど、愛人として可愛がってあげることは出来るし」
無邪気な言葉が、いっそうグレンの異常さを浮き彫りにしていく。
「もちろんアイゼン子爵のことも、彼女の兄として紹介してあげる。王宮につながりが持てるんだし、君にとっても悪い話じゃないと思うんだけど」
だがグレンの甘言を、ラルフははっきりと拒絶した。
「お断りします」
「あれ、いいの? 君は王族に取り入りたくて、仕方がないっていう噂を聞いたけど」
「彼女を犠牲にしてまで、欲しい金などありません」
ラルフの返事に、グレンはわずかに気分を害したのか、鼻の頭に皺を寄せていた。すると何か面白いことを思いついたと言わんばかりに、にこりと頬を引き上げる。
「そんなにこの子のことが大切なんだね。寂しいけれど、それならしょうがないな」
「殿下! では……」
「そこで土下座してよ」
グレンの光のない瞳を前に、ラルフはぐっと息を吞んだ。その表情に、グレンは嬉しそうに嗤笑する。
「返してくださいってお願いしてみて。それともこの子には、君が頭を下げる価値なんてないのかな?」
「……それ、は……」
「――お兄様、もうやめてください!」
必死に痛みを堪えていたシャロンは、彼らのやり取りにたまらず声を上げた。




