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第四章 6



 二階席に戻ったシャロンを出迎えたのは、興奮した様子のグレンだった。


「シャロン! 本当に素晴らしかったよ!」

「ありがとうございます、殿下」

「特に最後の曲。僕も思わず涙ぐんでしまったくらいさ」


 言われてみればグレンの目元は赤く染まっており、シャロンは再度「ありがとうございます」と微笑んで見せる。


「でも本当に申し訳ない。まさか伴奏者が間に合わないなんて……でもおかげで、アイゼン子爵の隠れた才能も見られたわけだしね」

「とんでもございません。お聞き苦しい演奏でしたかと」

「いや、本当に素晴らしかったよ。昔どこかの国で宮廷楽人をしていたのかい?」

「いいえ。ただの趣味です」


 ふふ、と真意の知れない笑顔を浮かべるラルフに、グレンは少しだけ驚いているようだった。だがすぐにシャロンの方に向き直ると、その両手をがっしりと掴む。その力の強さにシャロンは思わず息を吞んだ。


「シャロン――これが終わったら、僕の部屋に来てほしい」

「で、殿下、ですが……」

「いいだろう、アイゼン子爵?」


 シャロンはすがるような気持ちでラルフを見た。彼はわずかに視線を落としていたが、ひとつだけ瞬きを落とすと、すぐに顔を上げ一笑した。


「――承知いたしました。殿下」

(……ラルフ、さん)


 分かり切っていた返事だった。


 以前の公爵家のパーティーとは違い、王族から直接の招待を受けそれに応じた。おまけに当のグレンが直々に同伴を願い出ている以上、一子爵でしかないグレンが断るなど出来るはずがない。

 グレンはラルフの言葉に満足げにうなずくと、改めてシャロンに眼差しを向ける。

 女性なら誰でもうっとりと眺めたくなるような、グレンの絶世の相貌を前にしてもなお、シャロンは隣にいるラルフが、今どんな表情をしているのか――そればかりが気になっていた。






 数刻後のラルフ邸、玄関ホール。

 主を出迎えたサルタリクスとニーナは、揃って眉間に皺を寄せた。


「ラルフ、シャロンはどうしたのよ」

「……グレン殿下が御所望でしたので、まだ王宮に残っています」

「はあ⁉」


 外套を脱ぎながら、ラルフはつかつかと足早に執務室を目指す。その背中を追いかけるようにしてサルタリクスが続けた。


「どうして一人で残してきたの⁉ それじゃ何かあったら――」

「王族に気に入られるのであれば、あの子も本望でしょう」

「それ本気で言ってるの⁉」


 サルタリクスがラルフの腕を掴み、無理やり体を向けさせた。だがラルフは普段と同じ冷静な表情のまま眼鏡を押し上げる。


「本気です。そもそも最初からそういう話だったでしょう。王族とのつながりを得るための『アイドル』だと」

「そりゃ最初はそう思っていたわよ! でも、あんたはそれで良いの⁉」

「じゃあ私に何が出来るというのですか‼」


 突然のラルフの怒声に、サルタリクスは目を見開いた。一度声にしてしまうと箍が外れたのか、ラルフは矢継ぎ早に苛立ちを吐露する。


「私は所詮、何の権力も持たないただの一商人です。爵位だって金で買ったようなもの、きちんとした身分の――それこそ王族の方に召し上げられた方が、あの子にとっても幸せなはずだ」

「だから! そこにシャロンの気持ちはあるのかって聞いてるのよ!」

「気持ちなんてなくてもいい! 私はあの子が、これからもずっと幸せでいてくれたら、それで……それでいいんです。私のエゴだと罵られてもいい。あの子がずっと笑ってくれるなら、それで……」

「あーもう! 話にならないわ!」


 すると噴火寸前のサルタリクスを押しとどめるように、ニーナが言葉を引き継いだ。


「少し落ち着け。どうでもいいが、この前の調査結果、面白いことになったぞ」

「面白いこと?」

「お前が調べろと言った、カッティテロスの九十一番。一つは北の大陸ヴェルシアに。もう一つはこの国――グレン第三王子殿が所持しているらしい」


 ニーナがにやりと口角を上げると同時に、ラルフは目を見張った。


「レンズ加工も国内の工房で確認済み。濃度の高い色硝子へ変更したそうだ。王宮御用達の工房で、依頼者もグレンの従者だったらしいから間違いはないだろう」


 途端にラルフの脳裏に、かつてシャロンをつけ回した男の姿が甦った。

 たしかに眼鏡に隠されて顔の半分はほとんど見えなかった。髪の色も実物とは随分と違っていたが、シャロンのように色粉でわざと汚していた可能性は高い。


(もしもあれが、グレン殿下だったとしたら……?)


 ラルフの背にぞくりとした恐怖が走った。

 時期が近かったから気づけなかった。もしも、グレンがたまたま噂を聞いてシャロンを呼びつけたのではなく――実際にシャロンと出会った上で、公爵を使ってパーティーに招かせていたとしたら。


(最初から、シャロンを狙っていた……?)


 たしかに村で出会った時の男は、少し様子がおかしかった。ラルフは体の奥底に言いようのない不快感が積もっていくのを自覚しながらも、なおも自身に言い聞かせる。


(だから何だというんですか。シャロンを見て気に入って、呼びつけたというのも別段おかしな話ではない。それだけあの子に好意を持ってくれたというだけで――)


 しかし頭で理論を繰り返す一方で、心臓は煩わしいほどの鼓動を立てている。

 するとそれを促進させるかのように、ニーナが驚くべき追撃を繰り出した。


「あとこれは昔の下町仲間に聞いたことだが――最近身寄りのない女が、何人か消えていた事件。女の一人がいなくなる直前に『すごい方から誘われた』と興奮気味に話していたそうだ」

「すごい方?」

「どこに行くのかと聞くと『王宮だ』と言っていたらしい。まあ、あくまで噂だから断言は出来ないが――」

「……ッ」


 ラルフはいよいよ限界を迎えていた。

 大丈夫だと告げているのは理性の片隅だけで、全身からは汗が滲み出し、手足は冷たくなって震えている。

 違う。そんなはずはない。

 だが思考の大部分を最悪の可能性だけが埋め尽くしていく。


 するとすうと深く息を吸い込んだサルタリクスが、ラルフの腕をぱっと手放すと、続けざまに胴体目がけて力の限り拳を叩きこんで来た。

 突然のことに、ラルフは『ぐは、』と溜め込んでいた息を吐き出す。


「ガードしなさいよこのくらい。情けないったらありゃしないわ」

「サ、サルタリクス……どうして」

「うだうだ悩むくらいなら教えてあげるわ! あんたね、シャロンが幸せなら良いって言ってるけど、あんた自身の気持ちはどうなのよ!」

「私の、気持ち……?」

「たしかにシャロンの気持ちはあの子にしか分からないわ。でもあんたの気持ちは、あんた自身が一番分かってるでしょうが! どうしてそれにまで目を背けるのよ!」


 殴打された衝撃が引くにつれ、じわじわとした別の痛みがラルフを侵食する。


「ようやく自覚したと思ってたのに! 分からないなら何度だって言ってやるわ! あんたはあの子が好きなのよ! 多分、出会った頃からずっとね!」

「ち、違います! たしかに私はあの子を――シャロンを大切だと思っています。でもそれはアイドルとしての彼女の魅力であって、私は――」


 言いかけて、ラルフはようやく言葉を切った。



 

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