第四章 5
あらゆる想定外で始まった演目だったが、シャロンはラルフの予言通り、素晴らしい舞台を披露した。
圧倒的な歌唱力で紡がれる、悲劇と救いに満ちた独唱歌。
全能の神に捧げる美しき聖譚曲。
すれ違いから、真実の愛に辿りつく男女の物語を謳った譚詩曲。
そのどれもが非常に素晴らしい情緒と優雅さに溢れており、シャロンの歌を聞いたものは皆、悲しみに泣き、幸福に安堵する。
そして歌声だけではなく、ピアノの演奏も恐ろしいほどの技巧で満ちていた。
最初、予定されていた演者でないことに気づいた者もいたが、奏でられる旋律を前にすぐに非難の言葉を失っていた。
披露される楽曲は弾き切るだけでも大変困難なのだが、伴奏者はそれに独自の解釈やアレンジを加えて見せた。正直なところ、元々のピアニストよりも優れているのでは、と称するものもいたくらいだ。
また客の何人かはこれだけ長い曲なのに、彼が暗譜のみで演奏していることに驚き、隣に座る面々にひそひそと耳打ちする姿が散見した。
当然、その演奏を最も近くで聞いていたシャロンも驚愕の色を隠せない。
(ラルフさん、どうしてこんなに上手いの……⁉)
相当の腕前であるということは、レッスンの時から承知していた。
だが今こうして弾いている姿は、単なる趣味や一講師という曖昧な技量ではない。一流のピアニストとして、人々を魅了出来る――それこそ王族の支援者が付くレベルではないだろうか。
事実、観客の何人かはシャロンの歌声よりも、ラルフの音色に酔いしれているようだった。下手をすれば食われてしまう、そんな圧倒的な存在感を背後に感じながら、シャロンは初めての感覚に胸を高鳴らせる。
(わたし今、ラルフさんと舞台に立っているんだわ――)
今までも何度も舞台に上がった。
だがそのどれよりも、今この時が幸せだった。
すぐ傍にラルフがおり、シャロンのために曲を奏でてくれる。それはまさにシャロンがアイドルとして思い描いていた――一番の幸せの形だった。
やがてすべての楽曲が終了し、シャロンが礼をした途端、割れんばかりの拍手が鳴り響いた。椅子から立ちあがっている貴族も多く、男女ともに手を止める様子がない。
(やったわ、わたし――)
成功した。やり切った。
思わずラルフを見ると、彼もまた眼鏡の奥の目を眇め、シャロンに微笑みかけていた。その表情を見たシャロンは、ぎゅっと心臓の奥が甘く締め付けられる。
だめだわ、と頬が緩みそうになる自分に喝を入れ、シャロンは再び観客席に向かって頭を下げる――すると舞台袖にいた裏方が、口だけでシャロンに何かを伝えようとしているではないか。
それを読み取ったシャロンは、大きく目を見開いた。
(――『あと一曲、陛下のご希望です』……⁉)
何ということだろう。
おそらく国王陛下がシャロンの歌声にいたく感動し、プログラムにない曲を披露しろと言い出したのだ。おまけに会場もいまだ絶え間ない拍手の渦に包まれている。時間の都合上、アンコールは考えなくてよいと言われていたのに。
(ど、どうしよう、このレベルまで仕上げているものは……)
シャロンは急いで何曲か候補を上げるが、すぐに否を出した。突然アンコール曲を依頼したところで、ラルフが演奏出来るか分からない。ピアノが途中で止まってしまえば、せっかくの舞台の終焉に水を差すことになってしまう。
(でも陛下のご命令を無視するわけには……何か、何か曲は……)
ラルフもシャロンの異変に気付いたのか、『どうしましたか』と唇の動きだけで伝えてきた。それを見た瞬間、シャロンの脳裏にある一つのメロディーが甦る。でもどうしよう。タイトルが分からない。
(ラルフさん、あの曲を)
(あの曲?)
(ええと――『わたしに教えてくれた曲』です)
シャロンは祈るような気持ちで音なき言葉を紡ぐ。するとラルフはすぐに理解し、再び鍵盤へと指を乗せた。滑らかに流れ始めた旋律に、観客たちはようやくアンコールが届いた、と拍手をまばらにさせる。
(毎日練習していた、この曲なら……)
それはラルフが作り、シャロンのために書き起こした、初めての練習曲。
シャロンはすうと息を吸い込むと、その流麗な旋律に向けて、優しく触れるように歌声を乗せる。
『――好きだと気づいたのは、いつだったかしら』
どこか物悲しい音色は、シャロンの甘い歌声と合わさり、砂糖菓子のように転がっていく。決して高度な技術を披露する曲ではない。だが単純ゆえに美しい絶妙な和音が、二階席までも独自の世界に包み込んでいた。
『でもわたしは人形 それでもあなたの傍にいたかった』
『あなたが微笑むたび わたしに触れるたび この気持ちに鍵をかけた』
紡がれていくのは、自分を作ってくれた職人に恋をした人形の物語。
人々は心を持ってしまった人形に同情し、必死に恋心を押しとどめようとする様に涙を浮かべた。シャロンもまた歌いながら、そっとラルフの姿を求める。かつてと同じ、真剣に鍵盤を眺める端正な横顔。
(――すきです。ラルフさん)
決して口には出来ない思いを、シャロンは歌にして彼に捧げる。
『あなたが好き 結ばれないと知っていても 叶わぬ恋だとしても』
その瞬間、ラルフの視線がシャロンに向いた気がした。
突然のことにシャロンもまた驚愕したが、気のせいだろうと意識を歌に集中させる。
やがて終幕を迎えた曲の中で、職人はひとりの女性と恋に落ち結婚する。人形は彼とその子どもたちを見守りながら、やがて眠るように心を失った――ティン、という細い高音を残してラルフの指が鍵盤から離れ、同じくしてシャロンも息を吐き出す。
(――終わった……)
会場内は恐ろしいほどしんと静まり返っており、シャロンはわずかに表情をこわばらせた。やはり即興曲ではだめだった? と不安が押し寄せた時、ぱち、と手を叩く音が聞こえてくる。
次第に二つ、三つと拍手は増え、次第に空気を震わせるように豪快な歓声が飛び交い始めた。その感動は一階席はおろか二階にまで伝播し、鳴りやまない賞賛で建物全体が埋め尽くされていく。
その圧倒的な光景を前に、シャロンはしばらくの間呆けていた。だが喝采を浴びているのだとようやく気づくと、急いで背後のラルフを振り返る。
「――ッ!」
当然のようにラルフも立ち上がり、シャロンの方を見つめていた。視線がぶつかった瞬間、ラルフは目を眇め、今にも泣きだしそうなほど優しい笑みを浮かべる。
それを見たシャロンの胸の奥からは、たちまち溢れんばかりの喜びが沸き上がり、花開くような満面の笑顔となって零れ落ちた。
きらきらと輝くシャンデリアの下、シャロンは一世一代の大舞台を――それは晴れやかな表情と感謝で締めくくったのだった。




