第四章 4
「今日のために用意したんだ。着けてくれるかい?」
「で、ですが、こんな立派なもの……」
シャロンが臆するのも無理はない。グレンが用意したのは、大粒のダイヤと白金で出来た実に瀟洒なネックレスだった。正面にはグレンの瞳を映し込んだかのような見事なサファイアが飾られており、一般には流通していないレベルの出来映えだ。
その姿にシャロンは、ラルフからもらったピンクダイヤモンドのそれを思い出す。
(……今日は目立ちすぎないように、着けてこなかったんだわ……)
なんだか急に心細くなるシャロンをよそに、グレンは手際よく首の後ろで金具を留めた。ひたりと肌に吸い付く感触に、シャロンは何故か首輪をつけられたような、言い表せない不快感を覚える。
「いいんだ。君に似合うと思ったから。じゃあ、頑張っておいで」
「はい。精一杯務めさせていただきますね」
名残惜しそうに微笑んだグレンは、最後に、とシャロンの手の甲にキスを落とした。
一階に移動する間、誤魔化すように何度か手を撫でさすっていると、前を歩いていたラルフが抑揚のない声で呟く。
「随分と気にいっていただいたようですね」
「え⁉ いえ、これは、その」
「名誉なことです。素晴らしいではありませんか」
ラルフとしては褒めたつもりなのかも知れないが、シャロンは素直に喜ぶことが出来ず、複雑な気持ちを抱えていた。
(……やっぱり、ラルフさんに言われると、ちょっと苦しい……)
それ以降一言も発さないまま、二人は舞台袖へと到着する。
しかしそこで衝撃の事実を聞かされた。
「――伴奏者が、来ていない?」
「はい……どこかで事故にあったのか、連絡が取れなくて……」
今回ペアを組む予定だった伴奏者は王国でも有名なピアニストで、今回の出演は彼との共演という謳い文句でもあった。シャロンはニーナから告げられた『油断していたら痛い目をみる』という言葉を思い出したが、すぐに気持ちを切り替える。
(どうしよう……今から代役を探すなんて出来るのかしら)
一番に思いついたのはニーナだったが、今から迎えを出してもシャロンの出番にはとても間に合わない。編成されている曲も難易度の高いものばかりで、今から他のピアニストにあたっても、出来る人間がどれほどいるだろうか。
ラルフも同じく思考を巡らせているらしく、口元に手をあてたまま不安げな面持ちで舞台を見つめていた。その横顔を見たシャロンは、覚悟したように息を吞む。
(いざという時は、……わたしが、ひとりで歌うしかない)
グレンの推薦という立場上、舞台に穴を空けることは出来ない。出番まであと十数分。それまでに伴奏者が来なければ、一人でも壇上に上がろうとシャロンは決意する。もちろん非難されることは承知の上だ。
冷たい氷を塊のまま呑み込んだような、ひやりとした息苦しさがシャロンを襲う。その時、ぽん、と温かい感触がシャロンの頭上に下りてきた。
「――お、兄さま?」
「なんて顔をしているんです。あなたはアイドルでしょう?」
見上げると、ラルフがシャロンの頭を撫でていた。かつてのラルフが戻って来たような物言いに、シャロンは思わず涙腺から喜びを滲ませる。しかし感動するのはまだ先だと言わんばかりに、ラルフはきびきびと裏方に指示を出した。
「伴奏者が到着しなければ、私が出ます」
「え⁉ で、ですが、楽譜もリストも準備に時間が……」
「曲順も楽譜もすべて頭に入っています。問題ありません」
その言葉にシャロンと裏方は同時に「えっ⁉」と目を剥いた。だがラルフは本気らしく、着ていた黒い外套を脱ぐと、ダークグレーのシャツの袖を折り上げている。
やがて困惑するシャロンをよそに、次の演者が舞台へと向かって行った。いよいよ次――とシャロンは大きく深呼吸する。
(お、お兄様がピアノ……たしかにとてもお上手だけれど、楽譜もないのに……)
気持ちを落ち着かせようと、シャロンは歌い出しの音を思い返す。だが動揺しているのか中々頭に入ってこない。
今まで体験したことのない規模のパーティー。それに突然のアクシデントだ。
頭の奥がぐらぐらと歪み、指先はカタカタと震えている。シャロンは両手を固く組み、ままならない恐怖を必死に抑え込もうとした。すると隣に立っていたラルフが、シャロンの冷たくなった拳に自身の片手を重ね、そっと優しく握り込む。
「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ」
「は、はい! で、ですが、その、緊張して……」
するとラルフはシャロンの手を覆ったまま、とても穏やかな声で続けた。
「あなたはもう立派なアイドルです」
「お兄様……」
「あなたが陰で続けてきた努力も、堪えてきた苦しみも、私は全部知っています。どんなにつらくても、あなたは決して逃げ出さずに戦い続けてきた。本当に……私の求めていたアイドル、そのものだった」
するとラルフは一瞬だけ、ひどく悲しそうな顔をしていた。
その表情にシャロンは目を奪われていたが、すぐにいつもの微笑みになり、彼女の怯えを取りさるように手に力を込める。
「どんな恐ろしい舞台でも、あなたはきっと成し遂げる。それだけの力があなたにはある。だから――笑っていてください」
はい、とシャロンは掠れた声で答えた。
瞼を閉じると涙があふれてしまいそうだったので、必死に目を開いたまま唇を噛みしめる。とくとく、と心臓の音が落ち着くのが自分でも分かった。
(大丈夫……出来る、いいえ――やるのよ)
やがて今の演目がクライマックスを迎え、会場から盛大な拍手が聞こえてきた。その大きさにぶるりと背を震わせていると、突然ラルフが『少しこちらを向いてくれますか?』と囁きかけてきた。
「はい、何でしょ――」
次の瞬間、シャロンの額に何か温かいものが触れた。
ラルフの片手はシャロンの後頭部に添えられている。ラルフは少し上体を屈めるようにして、シャロンの頭上に顔を近づけており――そこでようやく、口づけされたのだと理解した。
ラルフがそっと手放したのと同時に、シャロンは恐る恐る自身の額に手を伸ばす。
「――ら、ラル、フさ……⁉」
「緊張しないおまじないです」
にこ、と口角を上げるラルフの笑顔は実に爽やかで、シャロンは全身にのしかかっていた緊張や不安が一気に吹き飛んでいくのが分かった。というより、他のことがすべて考えられなくなったというべきか。
(ら、ララ、ラルフさんに、キス、された……⁉)
頭の中が真っ白になるシャロンに対し、ラルフは動じたところ一つない余裕ぶりだ。
その大人な感じに悔しさと格好良さを噛みしめながら、シャロンは舞台へと一歩を進めた。




