第四章 2
「ああごめん、疲れさせてしまったね。じゃあ少し休憩しようか」
「で、殿下⁉ どちらに」
言うが早いか、グレンはシャロンと手を繋いだまま、会場を離れ渡り廊下へと移動した。次第に喧噪が遠のいていき、二人はそのまま邸の奥にある中庭へとたどり着く。
噴水と薔薇のアーチで見事に飾り立てられており、今はわずかな月明りしかないが、昼間に訪れればさぞかし素晴らしいだろう。おまけに招待客らは皆建物の中にいるらしく、人の姿は見当たらない。
東屋の一つに足を向けると、ようやくグレンはシャロンを解放した。
「ここ。僕の好きな場所なんだ」
「そうなんですね……」
時折ざあと吹く夜風が心地よい。しかしこんな目立つ逃走劇を披露してしまい、会場でどんなあらぬ噂が立っていることか。考えるだけで恐ろしい。
だが当のグレンは自らの行動をなんとも思っていないのか、無邪気に微笑んでいた。
「でも驚いたよ。あのダンスを完璧に踊れる子がいたなんて」
「ありがとうございます」
「それに聞いていたよりもずっと可愛い。髪の色はちょっと変わってるけど……まあそれは何とでもなるし」
「殿下……?」
気づくとグレンはシャロンの髪を手に取り、確かめるように親指で撫でていた。思わず身を引くシャロンだったが、グレンはなおもシャロンに対して賛美の言葉を送り続ける。瞳の奥には熱が込められており、シャロンは静かに息を吞んだ。
「シャロン、君本当はもっと踊れたんじゃないのかい?」
「……とんでもないです」
「ふふ、嘘は下手だね。そんなところも可愛いな」
やがてグレンは、シャロンの髪を手繰るとそっと口づけた。吸い込まれそうな夜空色の瞳が、シャロンの目を捉えて離さない。
「ますます気に入った。ねえシャロン、僕と――」
「――シャロン、ここにいたんですね」
突然、聞き慣れた声がグレンの言葉を遮った。
シャロンが慌てて振り返ると、中庭の入り口にラルフが立っている。
「なかなか戻らないから心配しましたよ。そろそろ迎えの時間です、帰りましょうか」
「お、お兄様……!」
しかしグレンはにこりと微笑むと、シャロンの髪から手を離し、そっと腰を抱き寄せた。シャロンは慌てて距離を取ろうとするが、腕の力が強く抜け出せない。
「これはアイゼン子爵、わざわざありがとうございます。ですがシャロンのことは僕が責任をもって送り届けますので、先に帰っていただいて結構ですよ」
(ど、どうしよう……)
もちろんシャロンとしては、今すぐにでも帰りたい。
だがようやく王族とつながりを持てるかもという場面で、みすみすそのチャンスを逃すのは愚の骨頂だ。当然ラルフも手を引くはず――と思っていたシャロンだったが、何故かラルフは引き下がることなく、穏やかに言葉を続ける。
「いえいえ、そこまでご迷惑はかけられません。それに――殿下にお会いしたい方が、他にも多くおられますし、ね?」
するとラルフの後方から、色鮮やかな一団が近づいてきた。
「いたわ! グレン様よ!」
「本当だわ!」
どうやら美しく着飾ったご令嬢たちらしく、グレンはわずかに表情を歪めた。それを見たラルフは愉悦を浮かべるようににやりと口角を上げる。こういう時、彼は手練れの商人であることを思い立させる悪い顔をするのだ。
「皆さま、殿下を捜しておられましたので。出過ぎた真似をとは思いましたが、ご案内させていただきました。どうぞごゆっくりお過ごしください」
「……そういうことか」
やがてラルフの横をすり抜け、女性陣はグレンのいる東屋めがけて殺到した。彼女たちの勢いに怯んだのか、グレンの拘束がかすかに弱まる。その隙をついてシャロンはするりと逃げ出した。しかしタイミング悪く、一人の肩とぶつかってしまい思わずよろめく。
(――ッ)
だが芝生の上に投げ出される衝撃はなく、代わりにしっかりとした両腕に抱えあげられていた。高くなった視線を右左に動かしていると、ラルフの顔が間近に現れる。
「さあ、行きましょうか」
「お、お兄様!」
俗にいうお姫様抱っこの状態で、ラルフはグレンを残したまま、さっさと中庭を後にした。馬車に向かう間もずっと抱きかかえられたままで、他に人の目はないとはいえさすがに恥ずかしい。
「お、お兄様、もう大丈夫ですから、下ろしてください……」
「どうせあと数歩です。我慢しなさい」
シャロンは嘘だ! と頬を赤くしながら顔を伏せた。だがここで抵抗して、またグレンに捕まるのも困る、とラルフの腕の中でおとなしくする。シャロンが歩くときの数倍の速度で移動していく景色を眺めながら、恐る恐る問いかけた。
「お兄様、良かったのですか?」
「何がです?」
「た、助けていただいたことは、本当に嬉しいのですが……も、もう少し頑張って、王族の方と親しくなっておいた方が良かったのでは、と……」
「……」
するとラルフはシャロンの瞳をじっと見つめた。眼鏡の奥の瞳は黒く、相変わらず何を考えているのかシャロンには一向に図り切れない。だが小さくため息をついたと思うと、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「――今までの私なら、そう言っていたでしょうね」
「お兄様?」
「……何でもありません」
珍しく煮え切らない態度のラルフに、シャロンは疑問符を浮かべる。
やがて迎えの馬車に到着し、シャロンとラルフはそれぞれ向かい合わせに座席に座り込んだ。車輪が回り始めてもラルフは沈黙したまま、小窓から流れゆく景色を眺めている。
どこか雰囲気の違うラルフを前に、シャロンはただ胸騒ぎを覚えていた。




