思い、思う。
大丈夫よ、心配しないで――
そう、彼女は言った。
自分と二人きり。海に向かう崖の上で、美しいドレスを身にまとった彼女は白く輝く羽を大きく広げる。
有翼の彼女が、仲間を探している事は最初から聞いていた。
ある旅人から有翼人種の情報が手に入ったと、彼女の心はその時から自分から離れてしまったのだ。
止めても聞かない事など、とうの昔に知っていたのに。それでも必死に止めたのだ。
有翼のくせに飛ぶのが下手な彼女の傷ついた羽。
それでも彼女は、強い眼差しをこちらに向けた。
「行かないでくれっ!」
薄いカーテンの隙間から差し込む、赤い光。
自分の酷くしゃがれた叫び声に目が覚めた。もう夕刻なのだろうと、すっきりとしない頭で、ぼんやりと思う。
寝過ぎて痛む頭にうなりながらも、固いベッドから酷く重い自分の背中を引き剥がした。
彼女が果敢に飛び出してから、何日がたったのだろう。いや、もう何週間になるのか。
自分にはない羽を、気持ち良さそうに伸ばした彼女は、とても美しかった。
だが、あれほどの色彩が、自分の中で酷く薄れている事に気がつく。
「起きてるかい? ああ、やっと目が覚めたんだねぇ」
ノックもなく、無遠慮に開いた扉からは隣家の老婆が驚いた顔でこちらを見つめ、そして顔中をシワでいっぱいにしながら優しく笑った。
ボロ家とはいえ、鍵もかけていなかっただろうか?
酷く心配性な自分からは、とても考えられない。
「私がわかるかい? パンとミルクを持ってきたんだよ。食べられそうでなくとも、少しでも食べるんだよ。いいね」
「……はぁ」
気のない返事をしたのに、老婆はそれは嬉しそうに笑った。
少し混乱する頭を小さく、思いのほか弱々しく振り、深く息を吐く。
ふと見れば、老婆は新しいパンとミルクを机に置き、その前に持ってきてくれたのだろう、乾いたパンと半分に減った水差しを手にした。
「あの、まさかとは思いますが、朝の分ですか?」
「いいや、昼の分さ」
「そうですか……その、すみません」
起きなかった自分を恥じ頭を垂れれば、老婆は大きな声で笑った。
気まずいながらも、その豪快な笑い声がどこか懐かしくて、思わず笑顔になる。
「もし、よろしければご一緒にどうですか? たしかリンゴがまだ残っていたはずなので」
「……気を使う事はないよ。私も暇でね、話し相手になってくれるかい?」
「え、ええ。俺で良ければ」
彼女が有翼人種仲間の情報を聞きつけて旅立つまで使っていた一脚に、当然のように老婆は座った。
複雑な気分ではあるが、椅子なのに置物同然になるよりかはマシかと、自分を納得させる。
それでもハムが挟まっているパンを見れば、自分も何かお礼をしなくてはとリンゴが入っているはずの木箱を開けた。
何も入っていない。
そんな事があるだろうか。貰ったばかりの赤いリンゴも何もかも、小さな木箱の中には探すまでもなく入っていない。
「あの、失礼ですけど。この家の物を触りましたか?」
「いいや、掃除くらいはするけどね」
「そう……ですか」
時々ではあるが、こうして食事を持ってきてくれる隣家の老婆は、何かと良くしてくれている。
そんな彼女を疑うなど、もってのほかだとは思うのだが。
とにかく気付かれないように小さく息を吐き、木箱の蓋を戻す。
「それより、体は辛くはないかい?」
「はぁ」
足に力が入らず、とにかくベッドに腰掛ければ、老婆は嬉しそうな雰囲気を隠そうともしない。
それが不思議でもあったが、ただ肩をすくめて礼を言ってから差し出されたミルクに手を伸ばした。
夕方まで寝ていれば、当然のども乾く。
そらされる事のない視線から逃げるように、目をそらして飲み干した。
「……こんなにうまかったかな」
「あれだけ寝ていれば、そりゃあうまいだろうさ」
「そうか、どれだけ寝ていたのかな。長かった気もするし、すぐ目が覚めた気もする」
そう言えば、老婆は目を丸くして、また笑う。
ミルクでうるおされたのどだが、かすれた声は戻らない。
そんなに傷めた覚えも、大声を張り上げた覚えもないのだが。
「彼女は……シェイナは、きっともう帰ってはこないのだろうね」
思わず口からこぼれた言葉は、とても寂しげになってしまったけれど、老婆はただ黙って聞いている。
「シェイナを知っているのは、あなたと僕だけ。それなのに、あの日お別れを言えなくて申し訳なく思っているんだよ」
「陽がのぼる前に出て行ったからね」
老婆の言葉に、少し驚いた。
たしかに年を取れば、早起きになるのだろう。音を立てないように走る二人を偶然、窓から見えていたとしてもおかしくはない。
「……彼女の羽は、もう限界だったはずなのに。水をはじく事も出来ない羽だったのに、止められなかった」
「……仕方がないわ。ずっと虐げられて生きてきて、どこにいるか知れない仲間に希望を持っていたんだから」
なぐさめるような口調は、うなだれてしまった自分を優しく包み込んでくれる。
「そうだ、たしかに行かせてあげたかった。でも、力尽きてしまったら? 人間に捕まってしまったら? 他の有翼人が悪い奴だったら? そう考えれば考えるほど、俺は……」
「……シェイナは、きっと後悔はしないさ。知っているだろう? どんな目にあってきていても、ずっと現実を見ていたじゃないか」
いつの間にか老婆は、背中をさすってくれていた。
自分が涙を流していた事に気付く。
「それでも、彼女が大切だったんだ。彼女が夜空から落ちてきた時、本当に天使だと思った。意思の強い瞳に惹かれた。絶対に守ると、彼女の寝顔に誓ったんだ」
「それは、シェイナに言ったのかい?」
「……言えない。シェイナは自分の人生を、自分で選ぶ事が出来る人だ」
シェイナがいた頃を、とても懐かしく思い出す。
はるか昔の出来事のようだ。彼女の笑顔や、羽根の一枚まではっきりと思い出せるのに、色褪せている。
上等の衣服。美しい首飾りや羽飾りがつけられているのに、シェイナは頓着ない風であった。見世物小屋でつけられたとも言っていた。
強情で、警戒心が強く猛禽類のように気性は激しい。
しかし信頼さえ勝ち取れば、彼女の印象はがらりと変わる。
大きな声で笑い、心が強く優しい。外見はもとより内面も美しい。
「手を離さなければ良かったのか」
「ずっと、閉じ込めるなんて。お前に出来るのかい?」
首を横に振る。
たとえ出来るだけ時間を引き延ばせたとしても、結局はシェイナを送り出していただろう。
「彼女を愛していたんだ。ずっとそばにいたかった。でも、それはシェイナを苦しめる」
「思い出してみなさい。シェイナが飛び立つ前、何か言っていなかったかい?」
老婆の言葉に、目を閉じた。
思い出した事を、静かに言葉に乗せる。
「最後に見た、朝日を浴びて神々しく輝くシェイナの姿。大きく羽を広げ、彼女は振り向いた。僕は、何て言った……ああ、たしか声を出したら泣き出しそうで、出来るだけ笑顔を作っていたっけ。シェイナは心配しないで、と」
そうだ。無理に笑顔を作っていた。
彼女はきっと、それを見抜いていただろう。
だが、何も言わずにかすかに笑ったんだ。
手が白くなるほど握りしめられていた。
「……シェイナも、俺と離れたくなかったのか? 止めて、欲しかったのか? いや、それは傲慢だな。彼女は使命感に満ちていたから」
「シェイナは、たしかに仲間を探していたよ。だけどね、きっと本当に大切なものが何か、気がついたんだろうね。でも後には戻れなかったのさ、シェイナは有翼人だったからね」
「俺なら、そんな事気にしないのに。誰からも守ってやるのに」
こぶしを自分の足に叩きつければ、老婆は小さく笑った。
いかにも楽しげな笑い方だ。
涙はひいていた。老婆は彼女の椅子に戻り、口の端を持ち上げる。
「いいかい? よく覚えておいで。シェイナは長く長く飛んで、両の羽が折れたのさ。
そして、探していた有翼人は、医者だった。羽をなくした医者さ。シェイナは彼にすがった。有翼人の羽を対価に、人間になるべく骨を削ったのさ。長い事痛みに苦しんだが、シェイナは喜んだよ。これで人間になれたってね」
突然の話に、目をみはった。
何を、言い出したのか。
シェイナの行方を、なぜ老婆は事細かに知っているのか。
「それは、本当なのか?」
「本当さ。だけどカイルが崖から落ちたって言うじゃないか。それで爺さんになるまで意識があったりなかったりしている間にね、帰ってきたよ」
「……爺さん?」
「そうさ、自分の手をよく見てごらんよ」
あまりの事に言葉を失い、自分の手をまじまじと見つめる。
節のあるごつい手は変わらないようであったが、こんなに骨ばっていただろうか。
「俺は……」
「寝ていたんだよ、私が帰ってくるまで。隣のステラさんが面倒を見てくれていたんだ。時々ぼんやりと目を覚ましていたようだけどね、記憶はないんだろう?」
「寝て、いた?」
「そうさ。そこまで私を想ってくれていたんだね、こんなにもカイルを傷つけてしまっただなんて、考えもしなかった」
老婆は、隣家の人ではない?
じゃあ誰だ。私と言った。
話の内容からすれば彼女は――シェイナ?
「シェイナ、なのか?」
思わず立ち上がろうとして、よろめきベッドへとへたりこんだ。
驚いた。自分も爺さんになったショックもあったが、シェイナと気付かず、自分は彼女を前に何を言った?
顔に血がのぼり、熱くなるのがはっきりとわかる。
どうして気がつかなかったのか。たしかに老いてはいるが、彼女の面影ははっきりと見てとれるではないか。
多少、声は低く落ち着いてはいるが、大きな笑い声も、喋り方だって変わりない。
「そうだ。ずっとそばにいたよ、いつかきっと気がついてくれると信じていたからね」
意外と早くその時が来た。とまた笑い、紫色の宝石がついた首飾りを机に乗せた。
セピア色の記憶が、華やかに色づいて輝きを取り戻す。
そんな彼女に手を伸ばし、頬に触れた。また涙が伝う。
「あいかわらず、泣き虫は治ってないな」
「仕方がないだろう? シェイナにまた触れられるなんて、思わなかったんだ」
「こんな婆さんになってしまったけどね」
おどけて言う彼女に、首を横に振って見せた。
「いや、変わってないよ」
「……それは、少しばかり失礼じゃないか?」
「そうかな? だって君は、綺麗なままじゃないか」
何がおかしかったのか、シェイナは声をあげて笑った。
懐かしいのは、自分が知らず過ぎてしまった時のせいなのか。
「リンゴは、たしか隣のステラさんが生きていた頃、もったいないからってアップルパイを作ってくれたよ。とてもおいしかったのに、残念だったね」
からかうような言葉が、今更届く。
思わず笑えば、彼女も一緒に笑ってくれた。
どれほどの時間を無駄にしただろう。
だがこれからは彼女とともに暮らしていける。
自分をずっと見守ってくれていた彼女を大切に出来る時間は、どれだけ残っているのかわからない。
だが、一緒に歩いていける時間が少しでもある事に、深く深く感謝した。
小説風景12選「2月」参加作品。
今月のイラストは、AYAKAさまの作品です。
小説を読んでくださって、ありがとうございました!
これからも、もっと頑張っていきます。