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エッセイ

淀んだ空気

最近の出来事です。

 ここはごく一般的な賃貸アパートである。見るからに住居としての歴史が浅いこの建物には、新生活を始める若者たちの新鮮な空気が満ちていた。

 その空気の中でかろうじて息を潜めて過ごしているのが俺で、淀んだ三十路の空気に包まれた六畳一間の一室に、女の叫び声が響いた。


「こんなことすると死んじゃうでしょ!?」


 隣室のカップルが大喧嘩している。その声が俺の部屋まで響いてくるのだ。


「ねぇ、どうして、こんなことを、するの!?」


 喧嘩の理由は分からないが、ただならぬ気配だということだけは伝わる。

 一体なにをしているのか、ドタバタと低い音が鳴ったあと、それまで聞こえてこなかった男の声がした。


「やめろ……やめろーーーー!!!!!!」


 ガシャンガシャンとなにかが壊れる音がして、怖くなった俺は部屋の窓とカーテンをそっと閉めた。


 これが去年の梅雨頃の話である。この時期、隣室のカップルは激しい喧嘩を繰り返していた。

 それが真夏になるとすっかり音がしなくなった。鉄筋コンクリートで出来たこの建物は防音性に優れており、普段は人の話し声など聞こえない。

 本来の静けさを取り戻した住居に満足した俺は、絶えず稼働される冷房の汚れた空気の中で、サブウーハーの低音を響かせていた。



 先日のことだった。

 その日も変わらずサブウーハーを響かせていると、ふいにピンポンと何者かの訪問を告げる音が鳴った。

 オートロックのこの建物にはインターホンが設置されている。頼んでいた荷物の集荷が来たかと思い、インターホンのディスプレイを見るとカメラ映像は表示されていなかった。

 ということはつまり、住人が我が部屋の入り口でチャイムが鳴らしたということだ。

 もしやついに騒音の苦情がきたのだろうか。恐々としながらドアを開けると、そこには去年の梅雨、時折見かけた隣室のカップルが笑顔で立っていた。


「僕たち子供が産まれたんです。今後泣き声で迷惑をかけるかもしれないので、事前に挨拶へ伺いました」


 別れたんじゃなかったのか、むしろ子供まで作っていたのか、という驚きで気の利いた言葉の一つも出てこず「ヲ、オメデトウゴザイマス」と片言で答えるのが精一杯だった。


 衝撃から抜け出せないままやりとりを済まし、受け取った高級そうなバウムクーヘンを見つめること少々、カップルの顔を思い出してみた。

 あんなにヒステリックな叫びを上げていた奥さんはふっくらとした体型になっていて、落ち着いた柔和な笑みを浮かべていた。

 旦那の方は人見知りの気配を感じさせるものの、男として挨拶の対応を行う責任感にあふれていた。

 あぁ、彼らは幸せになったのだな、と少しずつ感じ入っていると、遠く赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、いよいよ一人で顔を綻ばせるのだった。


 翌日、隣室から女の奇声が響いた。

 まさか、と思う間もなく、低くなにかを殴打する音が聞こえる。部屋を閉め切っているのか、なにを言っているかまでは分からないが、とにかくまた喧嘩をしているようだ。

 くぐもった不明瞭な叫びは数分間続き、ある瞬間からピタッと音は収まった。


 昨日もらったバウムクーヘンが視界に入り、胸のあたりに黒いモヤがかかるのを感じる。



 ここはごく一般的な賃貸アパートである。見るからに住居としての歴史が浅いこの建物にはかつて、新生活を始める若者たちの新鮮な空気が満ちていた。

 その中で俺は、淀んだ空気とともに過ごしている。

隣の子供のことを考えるのが怖いです。

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