序
「――――――――――」
もう、動けない。
裸足で山や崖を登った。着の身着のまま川を、海を渡った。
足の裏は皮が剥げ血が固まり、肉が見えている。
海水や川の水で濡れた制服には、逃げる際、追手を止むを得ず殺した時の血がこびり付いている。
いつものように学校へ行っていたら、気が付いたら知らない場所に幽閉されていた。
血走った眼の男達が周りを囲み、一様に『聖女』と崇めはじめた。
これで人類は救われるだの、神を産む儀式だの、神経を疑う発言をしながら、男達は彼女の服を脱がそうと掴みかかって来たのだ。
そこからの彼女は早かった。
恐怖より憎悪と嫌悪が勝った彼女は、掴みかかってきた男の腰に携えてあった剣を奪い、その場にいた男達を惨殺した。
騒ぎを聞きつけられる前に窓から飛び降りて逃走し、近くの森へ飛び込んだ。
追手を殺しながら海を山を駆け、力尽きた彼女は樹海の深淵にぽっかりと大口を開ける洞窟へと身を預けていた。
殺した追手達から奪える者は全部奪った。
書物も持っていたため目を通したが、さっぱり読めない。ヘブライ語によく似た書体だった。
まず追手の服装からして異国…いや、異界であるはずだ。
追手は変な呪文を唱えて、鎖のようなものを飛ばして拘束しようとしてきた。
そこまで考えて、とりあえず魔法の概念を仮定することにしてみる。
(…死んでもアイツらに捕まっちゃだめだ、捕まるくらいなら死んだ方がマシだ…!!)
彼女を捉えようとした人間達の目は、明らかに平静を失っていた。
気が触れている、と言った方がいいか。盲信者、信じるものの正常性を信じて疑わない者達。
飢えた者達が目の前の食べ物を求める時の目と、あまりに酷似していた。二次的欲求ではなく、一時的欲求…食欲や性欲に駆られた、理性を持たぬ肉塊。彼女には彼らがそう見えていた。
到底信じられるものじゃない。魔法も、剣もあの人間達も。だが、目の前で起こった事を否定できるほど、彼女には余裕がなかった。
これからどうするのか、という事も考えられない。今も尚追ってくる彼らからどう逃れるかを考えるのが精いっぱいだった。
少し体力が回復した後、追手から奪った包帯や薬草で一先ず足を治療した。
薬草の使い方は本で見たが字は読めないため、挿絵の通りに行った。合っているかは定かではない。
薬草をその辺の石で磨り潰し、ドロドロのペーストになった物を足に塗り、包帯を巻いた。
…少しは楽になった気がした。
奪った物の中に火を起こす道具があったため、それで松明を作り、洞窟の中を歩いてみる。
洞窟の中は、見た事もない鉱物や植物で溢れていた。陽も当たらないのに花は咲き乱れ、鉱物は蛍のように淡い光を発している。
幻想的な光景に溜息を洩らしつつ、壁伝いに奥へ奥へと進んでいく。
分かれ道もあったが、特に目的もなく適当に道を選び、たまに見つかる純度の高い湧き水で喉を潤しながら、時間をかけて洞窟を進んだ。
奥へ進んでいくにつれて植物は減っていき、鉱物が増えて行った。
水晶や薔薇輝石のような透き通った鉱物が至る所から顔を覗かせ、松明の光に照らされてプリズムのように乱反射していた。
やがて、帰り道も分からなくなり始めた頃。
洞窟の中に滝を見つけた。小さな滝だが、滝壺には無数の魚が泳いでいた。
何とか数匹捕まえ、奪ったナイフで内臓を取り除いていく。持っていた木の枝を串代わりに刺して松明の火を移して作った焚火で焼いて食べた。
逃げていた時は気づかなかったが相当お腹が空いていたらしく、食べている時は無心だった。
お腹が膨れた所で散策を続ける。
暫くは静かだった洞窟に、不自然な物音が響き始めた。足を止め、注意深く耳を澄ます。
………大勢の足音。鎧が擦れる音。男達の野太い声。
一瞬で体が凍りついた。まさか、もう追って来たのか。どれだけ執念深いというのだ。
物音の正体に気づき、一目散に奥へと走り出す。
奥へ。もっと奥へ。
必死に走り、何度も転びそうになりながら走り続けると、ふと風が頬を撫ぜた。
(!どこか外に通じてるの?)
体力は既に尽きていた。だが、外に通じているという僅かな可能性が、感覚のない足を奮い立たせる。
走る事はもうできないが、精一杯のスピードで歩き続ける。
やがて、開けた場所に出た。
冷たい風が頬を撫ぜる。
その場所には花が咲き乱れていた。鉱物しかなかった今までの通路とは雰囲気が一変している。
先の見えない程に高かった天井には天然の巨大な穴が開いていて、そこからは月が見えた。
その広場だけ光が差し込んでいる。
その広間で、花に囲まれて何やら巨大なものが鎮座していた。
巨大なものを六本の石の柱が囲んでいる。柱には無数の文字が彫られていた。
――――違う。
これは、生き物だ。
岩の如き不動のそれをみて、直感的にそう感じた。
動かないのに、それが放つ神秘的な、壮大な、堂々たる雰囲気に息を呑んだ。
「……竜?」