君と一つに
江見恵斗は完璧な少女だった。
成績優秀で、部活動はしていないがスポーツも得意。アメリカ人だった母親譲りの日本人離れした容姿。どこをとっても文句のつけようがない少女だった。
江見恵斗は完璧すぎた。だから、同じ高校の皆に嫌われていた。皆に嫌われるにつれて、恵斗も皆が嫌いになった。彼女が世間に対して心を閉ざすのに、そう時間はかからなかった。
「おはよう」
そんな恵斗に、唯一声をかけてくる生徒がいた。中学から同級生だった滝元遥だ。名前も見た目も性格も女のような男だ。勉強も運動も目立ってできるわけじゃないのに皆に好かれている、そういう男で、恵斗はあんまり彼のことを好いてなかった。
恵斗は挨拶を返さなかった。遥は笑顔のままで恵斗の隣に座った。恵斗の嫌いな気持ちとは裏腹に、二人の席は隣同士だった。
「昨日返却された世界史のテスト、何点だった?僕は平均点に乗せるのでギリギリだったよ」
恵斗が反応を示さなかろうが、遥はいつでも彼女に笑顔で話しかけた。他の人が怪訝な顔をしようと、遥は恵斗に話しかけ続けた。
「江見さんは頭いいもんね、うらやましいよ。僕なんか勉強してもいい点とれないや」
いちいちうっとうしい奴だ、と恵斗は思っていた。皆の人気者の遥に好かれているせいで余計に嫌われるから、遥に話しかけられるのは大嫌いなのだ。
中学の時から、恵斗は遥が嫌いだった。自分より何もかも劣る遥が皆に好かれて、ちやほやされて、そんな遥がなぜだか自分に話しかけてきて。彼女を取り巻く状況全てが、彼女に惨めさを感じさせた。
「どうして私に話しかけるの」
あるとき、彼女からこう言った。遥は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「どうして、私に話しかけるの」
面倒だったが恵斗はもう一度聞いた。遥は小さな声で、えっと、とか、その、とか、まるで意味のない単語を呟いた。
「何か言いなさいよ。滝元」
恵斗は口が悪かった。それが彼女の嫌われる原因の一つであったことは恵斗自身も分かっていたが、直そうとは微塵も思っていなかった。
「えっと、あの、迷惑だった?」
「そういうことが聞きたいんじゃない」
恵斗は遥の目を見た。まじまじと見たのは初めてだった。茶色くて大きな遥の瞳に、眉間にしわを寄せた恵斗が映っていた。
「私は、何が目的なのか聞きたいの」
えー、と遥は言葉を濁した。恵斗はまたじろりと遥をにらんだ。遥は恵斗の視線に肩をすくめた。
「僕はただ、その、あなたと仲良くなりたいんだ」
仲良く、と恵斗は小さな声で繰り返した。遥は頷いた。
「私と、仲良く」
また、遥は頷いた。恵斗は拍子抜けしたように遥から視線を逸らした。
にらむことをやめた恵斗の様子をうかがうように、遥は恵斗の視線の行く末を見送った。
「私と仲良くなってどうする」
「あなたの笑う顔が見たいんだ」
「笑う顔を見てどうする」
「もっと笑ってもらいたい」
「どうして」
恵斗は横目でちらりと遥を見た。遥は恵斗の視線を感じたのか、照れくさそうに頬に手を当てた。女みたいなやつだ、と恵斗は思った。
「あのね、僕、江見さんのこととってもきれいだと思うよ。だから、そばにいて、笑顔を見せてほしいんだ」
恵斗は、ふ、と小さく息を吐いた。笑われたのかと思った遥は身じろぎした。実際、恵斗は笑ったわけではなかった。だが、笑ってしまいそうになるくらい、可笑しかった。
「私のためなら、何でもできるの」
「え、その、できることなら」
「そうか」
恵斗は今度こそ笑った。本当は腹から声をあげて笑いたかったが、人と接する機会がほとんどない彼女の喉は、大きな声をあげる方法を忘れていた。口角をあげることで精いっぱいだった。
「じゃあ、大学に入ったら、一緒に暮らそう」
「えっ」
「嫌なの」
「嫌じゃない、嬉しい」
「じゃあ決まりだ」
また、恵斗は笑った。心なしか、さっきよりも笑いやすかった。恵斗の笑みを見て、遥も笑った。耳まで真っ赤だった。
2人だけの会話だった。地理の時間の話だった。
「いいんじゃないか」
大学が決まってすぐ、恵斗は父に電話した。父の返事は予想通りだった。
「ルームシェアなら家賃も半分になるんだろう。仲良くしなさい」
父は優しい口調で言った。相手がどこの誰かも聞いてこなかった。父はあまり恵斗に干渉してこないので、恵斗は父のことは嫌いではなかった。
遥の方はなかなか苦労をした。遥の親は遥のことをとても心配していた。そんな親を見て、遥も諦めかけていた。しかし、恵斗は違った。遥を自分のそばに置けないのは苦痛だと思った。
恵斗は遥の親に直接話しに行った。そして、嘘を吐いた。
「自分はご覧のとおり男です。中高と滝元くんと仲良くさせていただきました。ご心配はありません」
恵斗は遥よりも背が高かった。そして、美しいけれども中性的な顔立ちだった。遥の親は、恵斗の見た目でその言葉を信じた。その嘘によって得た信頼は、十分なものだった。
2人は大学の近くのワンルームの部屋を借りた。
「お父さんとお母さんに嘘吐いちゃった」
引っ越しの日、そういって悲しむ遥を、恵斗は無表情で見下ろした。
「私と暮らせるんだからいいでしょ、遥」
遥は顔を上げた。恵斗の顔を見た。恵斗は視線をそらした。
「今度から名前で呼ぶ。私のことも好きに呼んで」
そう言って恵斗は荷物を新居の中へと運び入れた。
「待ってよ、恵ちゃん」
遥は恵斗の後を追って新居へと足を踏み入れた。
2人は同じ大学に入学した。恵斗は理系のトップの学部に首席で、遥は文系で一番偏差値の低い学部に入学した。偏差値は15も違った。キャンパスは同じだった。
「あんたはそれでいいの」
「大学自体は有名だったから、お父さんもお母さんも何も言わなかったよ」
遥はどうしても恵斗と離れたくなかった。恵斗は別にかまわないと思っていた。遥に対するうっとうしさを感じなくなっていく自分に気付いた。
「滝元遥さんが緊急搬送されました。すぐに病院にお越しください」
2人で暮らし始めて3年目の春だった。恵斗の携帯にかかってきた電話は、病院からのものだった。恵斗は授業を投げ出して病院へと向かった。
「江見恵斗さんですね」
医師は眼鏡をかけた年配の男だった。
「はい」
「バイト先で倒れられたそうです。命に別状はありません」
恵斗は点滴を受けながら眠っている遥の顔を見て、ほっとした。顔には出さなかった。
「いつになったら退院できますか」
「2、3日で大丈夫ですよ」
「わかりました」
「江見さん、ちょっとよろしいですか」
「はい」
医師は手招きをして病室から恵斗を誘い出した。恵斗は医師に連れられ、別室へと案内された。
「何ですか」
勧められるがままに椅子に座った恵斗は、睨むように医師を見つめた。
「滝元さんとは、どういったご関係ですか」
「同居人です」
「そうですか」
「何ですか」
「虐待の痕跡と思われるものがありました」
医師はカルテを見ながら恵斗に答えた。
「滝元さんが搬送された原因は過労によるものと考えられます。栄養失調状態でした。それで、診察の際に気づいた点がありまして」
恵斗は黙っていた。
「両薬指以外の爪すべてに、剥がした痕跡がありました。治りかけですが、一番近いものだと先週にでも剥がれたんじゃないかというものが」
「それで」
「ここまで大量に剥がれるとなると、偶然とは思えません。原因は、ご存知ですか」
恵斗は目線だけをあげて医師を見つめた。医師の視線は、話の内容に反して柔らかいものだった。恵斗はまた目を伏せた。原因、と小さな声でつぶやいた。医師は黙って恵斗を待っていた。恵斗は何となく、この人なら平気じゃないか、と思い始めていた。
「先に言っておきます。嘘ではありません」
「はい」
「彼が、自分で剥がしました」
「滝元さんが、自分で」
「はい」
医師はさすがに驚いたようだった。恵斗はそれ以上は黙っていた。
「それはまた、どういう経緯で」
「話すと長くなります」
「どうぞ」
聞かれたから答えるしかない、と恵斗は思った。
「遥は、私のために働くことをやめなかったんです」
「あなたのために」
「彼は、仕送りがあるからいいと言ったのに、ある時からバイトを始めました。お金はあって困るものじゃないから、と言っていました。もちろんそうですが、いつの間にか異常な量のバイトを掛け持ちしていたのです。私が止めたら、彼は、あなたのためならなんてことはないと、笑って私の言葉を聞き流しました。でも、ある時、彼が風邪を引いているのにバイトに行こうとしたんです。私はまた、そうまでする必要はないと止めました。そうしたら、彼、取り乱して」
ちらりと医師の顔をうかがった。医師は真面目な顔をして聞いていた。
「僕はあなたの役に立ちたい、役に立てないなら死んでもいいと思ってる、そう言い出しました。彼に落ち着くように言ったんですが、彼は言うことを聞いてくれなくて、急にペンチを取り出したんです。それで、昔の遊女は好きな男の人に自分の生爪をあげたらしいよ、って言ったんです」
恵斗は淡々と話し続けた。自分でも驚くくらい冷静だったが、自分はもともとそんなに感情的な方ではないな、とも思っていた。
「昔の女にできたことが、男の僕にできないわけがない、と言って、彼はペンチで自分の爪を引き剥がしました。それで、その爪を私に差し出して、あなたのためならこれくらいどうってことはない、と言いました」
恵斗はその時の光景を思い出していた。遥は泣きながら笑っていた。見てて痛々しかった。
「手を差し出して、それを受け取りました。彼は一言、それをあげる、と言いました」
「それを、どうしたのですか」
恵斗は黙って自分の喉元をトントンと軽く叩いた。医師はしばらく訳が分からずに恵斗を眺めていたが、突然はっと表情を変えた。
「飲んだの、ですか」
さすがに医師は驚いたようだった。恵斗は頷いた。
「どうしたらいいのかわからなかったんですけど、以前彼が、あなたの一部になりたいって言ってたのを思い出して、飲むしかないと思いました」
「あなたの一部に、というのは」
「彼の口癖です」
医師の目が、心なしか鋭くなった。恵斗は医師の目を見て、自分の膝に視線を落として、また医師の目を見た。
「彼は私の役に立つことが生きがいでした。もし、私の一部になれば、彼は自分のすべてを私のために使えると考えていたんだと思います」
「愛されていたんですね」
「どうだか」
恵斗は小さく、変態だから、と呟いた。
「恋人同士だったわけじゃありません。肉体関係はもちろんないし、好きだと言い合ったことはないし、お互いに付き合おうとか言ったこともないので。だから、彼の感情が愛なのかどうかはわかりません」
「では、あなたは」
「私が、何です」
「あなたは滝元遥さんを愛しているのですか」
恵斗は顔をあげて医師を見た。医師は真剣な表情だった。
「それが何だっていうんです」
「あなたが滝元さんを愛していらっしゃるなら、いったん滝元さんから離れられたほうがよろしいと思うのです」
「私が、遥から離れる」
恵斗の声は震えていた。医師は冷静に頷いた。
「滝元さんは精神疾患の疑いがあります。あなたへの気持ちが暴走しているようです。自分の体を顧みることを忘れているので、今回退院してもまた同じことを繰り返すでしょう」
暴走という言葉が、頭を巡っていた。確かにその通りだと恵斗は思った。いつの間にか、そばにいるだけでは気持ちが足りなくなって、遥は自分の命をすり減らしていったのだ。
不思議なものだ、と恵斗は思っていた。遥を世話したいと思う人はいくらでもいただろうに、そんな遥が望んだのは、みんなに疎まれている恵斗に尽くすことだったのだ。もし自分なんかに出会わなければ、遥は今頃どんな生活を送っていたのだろう。考え出すと、虚しさが込み上げてきた。
恵斗は気づくと泣いていた。医師は黙ってそれを見ていた。優しい人だと恵斗は思った。
「遥がおかしくなったのは、私のせいです」
恵斗は涙を拭った。
「私がいなくなればいいなら、いなくなります」
拭っても拭っても、涙が止まらなかった。
「だから、彼のこと治してください」
医師は黙って恵斗にハンカチを差し出した。恵斗がそれを受け取ろうと手を伸ばしたとき、看護師が遥が目覚めたことを伝えに部屋に入ってきた。
「心配かけてごめんね、もう大丈夫だよ」
遥は弱弱しく笑った。恵斗はベッドの横の椅子に座って、遥を見つめていた。
「2、3日だって。その間寂しい思いさせちゃうね、ごめんね」
よく謝るやつだと思って、恵斗は聞いていた。
「私は大丈夫。自分の心配をしろ」
「相変わらず意地っ張りだね」
そう言って遥は嬉しそうに笑った。この笑顔をしばらく見られなくなると思うと、少し胸が苦しかった。
医師には、自分の口から言いたいと伝えた。医師はそれを認めてくれた。恵斗は機会をうかがっていた。
「遥」
話が途切れた時に、恵斗はいきなり切り出した。
「なあに」
遥は首をかしげて恵斗を見つめた。
「あんた、退院したら、実家に戻りなさい」
恵斗は遥の目を見て言った。遥の目がぐらぐらと揺らいだ。薄い布団を両手でぐっと握りしめ、遥は全身で震えていた。
「どうして」
「あんたのため」
「僕のこと、いらないの」
「違う」
「嫌いなの」
「違う」
恵斗は遥の手を掴んだ。遥ははっとしてその手を見た後、恵斗の顔を見た。
「好きだから、離れたいんだ。あんたの健康のために」
恵斗は自分が初めて好きという言葉を使ったことに気付いた。恥ずかしさなどは感じなかった。こんなものかと思った。
「私だってあんたがそばにいないのは辛いけど、あんたが死んじゃったらもっと嫌だ」
何の抵抗もなく言葉が出てきた。本心だからだろうか、と恵斗は思った。自分は遥が好きで、死んでほしくないのだと思った。それに気づいた途端、目の奥がじんわりと熱くなった。涙は目にたまっただけで零れはしなかった。
遥は恵斗の話を聞きながら、ずっと震えていた。恵斗は遥の手を通じて、それを感じていた。涙を流しながら、恵斗を見つめていた。瞬きをするのも忘れているようだった。
「遥、頼む」
「恵ちゃん、あのね」
遥は恵斗の手の上に手を重ねた。その手も震えていた。
「僕が、薬指の爪だけ剥がさない理由、知ってる」
恵斗は首を横に振った。顔を伏せると遥の手が目に入った。確かに薬指だけは普通のきれいな指だった。
「どうして」
「恵ちゃんとね、お揃いの指輪をはめたかったんだ。婚約指輪と結婚指輪」
遥は柔らかく微笑んだ。
「どっちの薬指だかわからなくて、どっちも結局剥がせなかったんだ」
ばかでしょ、と遥は笑った。
ばかだな、と恵斗も微笑んだ。
「どっちも左手だよ」
「ああ、そっか。やっぱり恵ちゃんは物知りだね」
遥はそう言って笑った。恵斗はまた微笑んだ。遥は、ふう、と小さくため息をついて、うつむいた。
沈黙が続いた。2人の手は重なったままだった。恵斗は何も言わなかった。ただただ遥の答えを待った。それを知ってか知らずか、遥は宙を見つめるような虚ろな目をしていた。
どれくらい時間が過ぎたかわからなかった。医師の計らいで外に出ていた看護師がいつの間にか病室に戻ってきていたし、日も傾いてきた。
「恵ちゃん」
遥がか細い声を出したとき、恵斗は思わず眠りから覚めた時のようにはっとした。
「どうした」
「やっぱり、無理だよ」
遥は泣いていた。大きな目から涙を零していた。
「僕は、死んだっていい。君の役に立ちたい」
絞り出すような、悲痛な声だった。恵斗は、自分の手を包む遥の手に、嫌な汗を感じた。
「遥」
「嫌だ、離れるなんて」
「ねえ、いい子だから」
「死んだ方がマシだ」
遥は恵斗の手を振り払った。そして、自分の腕に刺さっていた点滴を引き抜き、自分の胸へ深々と突き刺した。
一瞬のことだった。恵斗は何もできなかった。せんせえ、と看護師が情けない悲鳴を上げながら病室を飛び出すのを、他人事のような顔をして見送った。
「けい、ちゃん」
遥に呼ばれた。そう思って、恵斗は遥の顔に顔を寄せた。
恵斗の耳元で、遥は囁いた。恵斗が頷くと、遥は嬉しそうに微笑んで、そのまま目を閉じた。
「ずっと一緒だ」
恵斗はそう呟いた。目を閉じた遥をきつく抱きしめ、そして、遥を抱き上げて病室を出た。
看護師が医師を連れて戻ってきたのは、恵斗と遥が出ていった後だった。血に濡れた点滴針が、ベッドの上に残されていた。
その後、遥の姿を見た者はいなかった。
3年の月日がたった。
恵斗は例の病院にいた。例の医師に会いたいと言われて、呼ばれるがままに来た。
「ようこそ」
あの日と同じ部屋に通された。あの日より、医師は少し老けた。あの日より、恵斗は少し髪が伸びて、女性らしくなった。
「調子はどうです」
「まあまあです」
そう答えて恵斗は椅子に腰を下ろした。
「先生は」
「私もまあまあです」
「そうですか」
そう言って恵斗はにこっと笑った。遥がいなくなってから、彼女は以前のようなとげとげしさを感じさせなくなった。彼女が滝元遥失踪事件の重要人だとは、信じられなかった。
「滝元さん、どこで何をしているんでしょう」
医師はいきなり切り出した。恵斗は表情を変えなかった。
「江見さんは、どう思いますか」
恵斗はふふ、と小さく笑って、窓の外を見た。
「案外、その辺にいたりして」
また小さく笑って、恵斗は医師の顔を見上げた。
遥と最後に接したのは間違いなく恵斗だ。恵斗が遥を抱いて病院を出るのを、多数の病院のスタッフが目撃しているから間違いなかった。
「江見さん、私は本当のことが知りたいんです」
医師は冷静に言った。
「看護師の目撃情報から、殺人事件ではないことはわかっています。遺体遺棄ならもう時効ですから、罪にはなりません。誰かに言うつもりはありませんから、私には教えてください」
私には、と医師は付け足した。恵斗の眉がピクリと動いた。
恵斗は遥とのことを警察で一切口にしなかった。医師に話したことの10分の1も警察には言わなかった。そのことから恵斗は余計警察に疑われたが、何しろ証拠がなかったので逮捕まではいかなかった。
「先生には、ですか」
医師は頷いた。恵斗は柔らかく微笑んだ。そして、内緒ですよ、と呟いて、自分の喉元を軽くトントンと叩いた。医師は訳が分からずに眉間にしわを寄せた。恵斗は表情を変えずに喉元を叩き続けた。静寂の中で、トントン、と恵斗が喉元を叩く音だけが聴こえた。
医師ははっとして表情を変えた。恵斗はそんな医師の反応を見て、にいっと口角をあげた。
「まさか、そんな」
「言ったでしょう。案外その辺にいるかもって」
恵斗は自分の胸に手を当てた。
「私は、彼の願いを叶えてあげたんです」
「滝元さんの、願い」
恵斗は頷いた。そして、いったん真顔になって、またにっこりと微笑んだ。
「彼は最期に言ったんです。私と一つになりたいって。だから、叶えてあげたんです。彼は今、私と一つになったんですよ」
そういった恵斗の笑顔は晴れやかで美しかった。医師は、恵斗につられて自分の口角が上がるのを感じた。
「飲んだのですね、彼を」
何も言わずに、恵斗はにっこりと微笑んだ。美しい笑顔だった。
終