夕刻のキャンパス
最近忙しくなってきて、空き時間を見つけて書くようになってしまいました。
とある大学のキャンパスの中。周りを林で囲まれたその敷地では幾つもの建物がひしめき合っていた。
敷地内の自然と対になったそれらの中に、幾人もの人が出入りし学びそして教鞭をとる。ある時は友人達と冗談を言い合い話し続ける場、また時には一生忘れられないような強烈な経験も待ち受ける場所へと常に変貌する。
それだけ、ここの場所には様々な出来事が発生できるような雰囲気で溢れていた。もっと言えば、それらの出来事は必ず敷地内のどこかで確実に存在していた。
目指すものがあるから、遺すものがあるから、人々は自らそこに入る。学ぶ人も教える人も皆何らかの目的や希望を胸に抱きながら敷地内で学び、教鞭を執ろうとする。そしてそれらを受け入れることで、コンクリートで作られた無骨な形の建造物達は学舎としての意味をしっかりと保っていたのだ。
そんな建物が乱立した中の一つ、第三研究棟の一室に目を向けてみよう。3階の端の方にひっそりと、たたずむ扉。その研究室の名前が書かれた紙がぽつんと貼られているだけの無機質な鉄製の扉を開ける。すると、棚に整然と在るべきところへと並べられた薬剤や器具が、最初に目に付く。
所々にまとめておいてある書類が、今の今まで触られたような顔で端然とあった。部屋の中の様子からしても明らかに廊下の殺風景な見た目とは雰囲気を異にしている。つまりこの中は―鋼鉄の扉の向こう側は廊下の空間から隔絶され、独自の毎日が営まれている、まさしく異世界であった。
詳しく部屋の中を見れば、ビーカーやらピペットなどの実験器具が、様々な色の瓶に入れられた試薬が、試験管に入った植物が一緒くたになっている。それらが混合された粘土が一つの空間へと練り上げられる。釉薬も掛けず素焼きのまま焼き上げられて、無骨さとかすかな温もりを持った一つの焼き物となったのだ。
それが実用的な物、はたまた芸術的価値の高い嗜好の逸品なのか。それは、誰も分からない。ただ一つ言えるのは、そこから見える夕焼けは言いようも無く美しかったということだけだ。それだけは、ここを拠点とする人達が最も良く知ることだった。
そんな夕焼けの混ざり合った鮮烈な赤色がやんわりと窓から差し込む空間の中を覗く。そこには二つの人影が緩やかに伸びていた。実習やら研究やらは先程終わり、他の人は一足早く部屋を後にしていた。
今残っているのはまだ帰りの準備をしている生徒と、退官間近の年齢となった老教授だけであった。教授はすっかり白髪が各所に混じった髪を掻きやりながら、どこと無く生徒の様子を見つめている。
青年がカバンにノートや筆記用具を詰め終え、扉に向かう。だが、何を思ったのだろうか、ドアノブに手を掛けてからしばらくそのままじっとしている。教授は一瞬不思議そうな顔をした後、意味ありげな光景を解き明かすのがいかにも楽しいという目をしていた。
「〇〇教授」
未だドアの近くに立っていたままの生徒が言いづらいことを伝えるように、ボソリと話し掛けた。
「ん?何かな」
「すみません。ちょっと僕の話を聞いてはくれませんか?」
今度は屈強とも貧弱とも言えない体を教授の方に向けて、はっきりとしているが不安を随所に滲ませた声で言った。
「珍しいね。君が相談事なんて」
そう言うと、生徒はサークル活動であろう真っ黒に焼けた顔で、恥ずかしさを揉み消すように笑いながら言葉を続ける。
「考えてみればそんなに重要なことでもないんですけど、たまに良く分からなくなることがあるんです」
「ふふっ。いつも明るい君が落ち込む位だから、それは大事なことなのだろう?取りあえずどこかに座ろうか」
そう言って教授は、普段実験をする席を指差す。薬品に囲まれたそこに生徒は座り、教授もまた隣の椅子にゆっくりと腰を降ろした。
「そうだ、コーヒーはいるかね?」
「あ、はい。いただきます」
教授は立ち上がり、片隅にあるポットとインスタントコーヒーの瓶を取り出し、いつも二人が好むブラックの状態のコーヒーを持ってきて、一方を生徒に差し出した。
一口啜り、何の法則性もなく揺れる面に映された自分の顔を見つめながら、自分の悩みを伝える。
「実は……これからどうやっていこうか検討もつかないんです。やりたいことが多過ぎるし、何より院試を受けようか就職しようか分かんなくて、ごった混ぜの状態なんですよ……」
老教授は、この話を聞いた瞬間に理解した。彼は真面目に考え過ぎ袋小路に陥っているのだと。元々彼は常に突き進むタイプだった。教授は教え子をえこひいきする人柄ではなかったが、色眼鏡で見なくてもそれが強みでもあり、かつ懸念すべき事項でもあると認識していた。
今、彼は何よりも重要な分岐点にいるのだ。彼は自分の力で道を信じて進まなければならない。そんな思いを秘めて返答する。
「……続けて」
「はい、それで悶々としていると自分だけじゃなくて、周りがみんなどっちつかずの壊れやすい物に見えてくるんですよ……僕が考えすぎなのでしょうか?」
老人は今まで自身が感じてみてきたことを、古びたノートのページを破らぬようめくるように、そっと思い出し始める。それらを元に会話を続ける。
「いや、なんら不思議なことはないさ。それこそ、みんながみんな一度くらいは考えることだよ。何より私自身もそう見えたことがあったさ」
「教授も……ですか」
「そ、まあ何十年も前の話だがね。聞くだけ野暮かも知れないが、そのことについて真剣に思い悩んだことはあるかな?」
「はい、一応」
「なら、話は早い」
そういうと、話を一旦止めて生徒から棚に目を移す。何かないだろうか、そう思いながら棚の端にぽつりと置き去りにされていた一つのモノに手を伸ばした。
教授は桜の枝が挿してある、水の入ったガラスコップを二人が居る間の机の上にそっと置く。
誰かが持って来たかも知れないその枝には、春の中頃までは満開の花が輪郭を薄い桃色にぼかしていた。今は花びらはとっくに散り果て、茶色の細い枝にはかつての華やかさは微塵も感じることができない。ただ、寂しそうにコップに立て掛けてあるだけである。
「この桜なんかは、はかない物の代表的な例だね。いつの頃からか、盛大に咲いて散るときは潔くはかなく散る様子が当時のお侍さんと同じ様だったらしい。そして桜は『死』そのものも意味するようになってきた、という説もある」
そう言うと、教授は机の上にある枝を半ば慈しむかのごとく、しわが目立つ指でそっと撫でる。青年はその様子がどこか教授もはかないモノに見えてしょうがなかった。
「春の桜は散り果て、夏の蛍は命を燈す。秋の落ち葉は色あせ、冬の雪も最後には溶けてしまう。でも、それらはみんな心残りはあっただろうか。意味の無いものだったんだろうか。君はどう感じるかね?」
それは教授が教えている科学的で、論理的な事実に沿った問いとは180度違っていた。普段とは違う抽象的な質問に青年はまごつくが、一度深呼吸をして静かに答える。
「……全て、意味があると思います。何より見る人を楽しませてくれるんで」
「そう、意味があるものなんだ。綺麗なもの、風流なもの。みんなそうだ。でもね、それら自身は一体どう感じているんだろうか?何より、自分の美しさを見る手段が無い。それこそ、それらからすれば、それら自身は矮小でみすぼらしいモノかもしれない。私達だって鏡の前に立って始めて、やっと自分自身を見ることができる。でも、それも左右逆転した完全に真実のモノではない。何より大体の物はきっかけさえあればすぐに変わってしまうんだ」
教授は、静かにかつ芯の強さを持ったハキハキとした口調で続ける。紡がれた言葉のことごとくが、青年がスポンジかと思う位に染み込んでいき、内側から響いていくようであった。
「では――もしこの世の物が全部そうだとすれば、僕はどう過ごすのが良いんでしょうか?」
教授は自分に何を伝えてくれるんだろうか。青年は、転機となり得るかもしれない言葉を期待し、輝いた目をして教授の言葉を待った。
「ああ、決まった過ごし方なんてモノは――無い」
だが、その過度な期待はストライクゾーンを大きく外れた物であった。微かに青年の目の焦点が、予想外の返答によって揺らぎ、白黒させた。
そんな青年の反応ごときでは教授の話が絶たれることは無かった。半ば反応を予期していたかのように平然と話を続ける。
「と言うよりも、日常を過ごすというのは元々決まっていない、曖昧な事柄なのだよ。考え方も振り返り方も人それぞれなモノ。もう爺さんである私でさえも分かりかねる難物さ。それこそ世界が壊れやすいモノだとするならば、途中で変貌して余計に選択肢が生まれるんだ」
「じゃあ、何を頼れば良いのですか?最終的には、自分しか分からなくなるじゃないですか」
そう青年が問うと、教授は心底嬉しそうな顔をした。企みが上手くいった少年のような、邪気の無い口角を目一杯引き上げた笑み。老人の皮を被った純粋なる少年が今そこにいる、と青年の目には映った。
「ふふっ、ご明答。自分を信じることこそが最大の拠り所なのだ。それこそ、悩み続けていても前に進んで行ける強大な力となる」
はて、悩みながら進むとはどういうことだろうか。疑問は次の言葉で溶ける。
「普通は悩むときは立ち止まってするもの。でもね、それじゃあ今は生きていけない。進み続ける義務が私達にはあるのだ。まだ首が据わらない赤ん坊も、私のようなヨボヨボの爺さん婆さんでも、悩みを持ちつつ気持ちだけは前向きに行かなければならない」
更に重さを増して青年を取り巻く言葉の奔流。しかし、あの笑みを見た時から受け入れる準備はできていた。
「過激に言えば、『生きている間は悩み続けろ。やめる時は死ぬ時だ』と、言えるね。私自身はこう自分に戒めている」
「悩むことすなわち人生、ですか。何とも深い言葉ですね……」
青年は素直に感嘆していた。憑き物の皮が玉葱を剥くように次々と教授の言葉で取りさらわれ、あとは自らが最後の一皮を一気に引きちぎるだけだ。今までと比べて何と心の軽いことか。今まで立ち止まっていたが道が開かれかけた今は本来の加速度を取り戻し、身体が進みはじめた気がした。
「そんなに深くも無いだろう。他の人からしたらざれ言に取られかねん。というか、この話はみんながいなくなる時にしたかったんだがね。また、考えなければならんな、ハハ」
教授は顔に刻まれたしわをさらに深めて、笑顔を作る。子供っぽさと老獪さが顔には、入り混じっていた。
「ただ、進めば良いだけなのだ」
気が付くと、金色に室内を彩っていた斜陽は既に居なくなり、代わりにほぼ真円に近い十六夜が群青色のキャンパスに青白い光りを何の齟齬もなく重ねていた。
――5年後。老人が部屋の中で一人、ロッキングチェアが揺れるのに身を任せ雑誌を読みふけっていた。彼が学生の頃から続けており、今は生活の一部となっているその行為を今日も例外無く行う。しかし、心の中ではどこと無く、いつもとは違ったモノになるだろうと、長く生きてきた勘によって確信していた。
リューマチが酷く強張る手に鞭打ち、ページをめくり続ける。しばらくすると、あるページに吸い寄せられるかのように老人の目が留まった。
そこに書かれていたのは、いつかの青年の研究成果であった。教授の職を退官した後に聞いた風の便りによると、大学を出た後大学院に進み博士課程に進んだそうである。
記事の内容を老眼が進行し、しょぼしょぼとした双眼でゆるりと追う。どうやら、2つの物質の状態を取り持つまた新しい物質を発見したらしい。かつての悩んでいった青年が、今ではしっかりと前を進み続けていることが堪らなく嬉しくて、安堵していた。
「そうだ、生きている間は悩み続けろ」
そう言って老人は目を閉じた。
博士となった青年が恩師の訃報を耳にしたのは、その翌日のことであった。
「自分が3時間かけて作った文でさえも、読者は10分足らずで読み終えてしまうのさ」
と、書いているときにふと思った。特に意味はない。
半端・末派の作者でございますが、これからもよろしくお願いします。