12 理想に
ヘルワはベンチから腰を上げた。
納戸はヘルワが2、3歩歩いてから我に返り、引き留めようと立ち上がる。
「待ってくれ。どこへ行くんだ」
「ついてこなくていいよ。どうせついてこれないから」
ヘルワが立ち止まり、納戸は訝しげに恐る恐る次の行動を待つ。
空を見て、それから振り返ることなくヘルワが決定的な言葉を放った。
「僕は今から人を殺しにいく」
「頼む。やめてくれ」
「無理だよ。遅すぎる。僕はもう忘れられたんだ」
再び歩き出す背中。止めたいのに、止められない。決定的な亀裂が生まれる前に止めたいのに、言葉が届かない。分かり合いたいのに、存在が絶望的に違う。
納戸は逡巡する。そして、甘い理想のために拳を握った。
「なんの真似?」
ヘルワの前に立ちふさがる。
分かり合いたいのに、暴力しか手段がない。正しさなんてない。
それでも、拳を握った。
「止める。分かり合いたいんだ」
「は、」
呆れた、乾いた笑いだった。
「あなたは言葉の意味を理解できていないんだね。いや、目を逸らしているのかな? まぁどっちでもいいよ。どっちにしても、傲慢だから」
ハイキック。全く躊躇のないそれを、納戸は上体を後ろへ反らして避ける。
その瞬間にヘルワの拳が目の前に伸びた。黒い手袋。触れても毒で即死はない。
忘却物装備と共感してその力を引き出す。
超常の一撃を右手で受け止める。そのまま握り、懐へと逆に引き寄せる。
勢いのまま左手でヘルワの胴体を殴ろうとして、その意思を身体が拒否した。
代わりに納戸のお腹が拳をいただいた。
手を離し、公園の地面に転がる。
追撃を警戒して即座に起き上がるもヘルワの歩みは悠然で淀みない。
お腹を擦る。忘却物装備が無ければ死んでいたかも知れない。
駄目だ。手加減なんて出来ない。
そう理解しているが、暴力を振るうことにまだ躊躇いがある。握った拳は立ちふさがるための力でしかない。
間接技に意識を切り替える。呼吸が必要かどうか分からない相手に間接技など笑い種であり、締め落とすことは不可能に思える。
だが、疲れさせることは出来る。
その目論みは、一瞬で目の前まで距離を詰めたヘルワに砕かれた。
足を力づくで払われ、バランスを崩した瞬間、地面へ落ちる瞬間に、サッカーボールよろしく蹴り飛ばされる。
「辛いでしょ。もう動かない方がいいよ。僕には勝てない」
そんなことは分かっていたつもりだった。その事実を改めて突きつけられる。忘却物を相手に、人間が一対一しても勝てない。
納戸は悲鳴のような甲高い音を鳴らす。
共感率146%。限界を越えて、装備の力を引き出す。
「ああ酷いね。あなたは、無自覚だ」
「なんの、話だ」
「…終わりにしよう」
徒手空拳。躊躇なく迫る格闘技術。納戸の身体能力は限界を越えてもまだ足りない。
回避に集中しつつ、確実に隙を探す。しかしヘルワは、コンパクトなジャブを多めに繰り出してくる。
ジャブだけでも勝てるとでも言いたげで、そしてそれは正解でもある。
時折混じるハイキックとローキックに意識を割かれては、反撃など夢のまた夢。
それでも、じっくりと待つ。疲労が全身を回る。乳酸が溜まる。
後ろへ、横へ、耳元を拳が掠めた瞬間。
その腕を掴むことに成功した。全力を尽くして、無理やり一本背負い投げを敢行する。
「オラァ!」
忘却物装備の力があり、ヘルワを空へと投げ放つ。間をおかず着地点に向かう。
ここだけが、打って出られる最初で最後。全ての意識をヘルワに間接技を決めることに集束させる。寝技以外選択肢はない。
ガラスが割れるような音がした。
甲高い鳴き声が止んだ。
増幅された身体能力が消える。
優雅に着地したヘルワは構えをとらなかった。
「だから言ったんだ酷いって」
「…頼む」
「あなたはそればかりだね。結局僕にばかり要求する」
「取り返しがつかない」
「遅いっていった。僕はもう忘れられたんだよ」
背を向けて去っていく。その姿に手を伸ばす。
「待っ!」
振り返ったヘルワに蹴り飛ばされる。
地面をゴロゴロと転がり、痛みに腹を押さえる。
痛い。痛い。痛い。
汗が吹き出る。具合が悪い。縋るようにヘルワを見る。
青い目は、冷たかった。
「まっ…て」
立ち上がる力はなかった。電話を繋げて助けを呼ぶことに躊躇いを覚えた。
八方塞がりの中で今北課長の電話番号が鳴った。
◇
病室で目を覚ます。打撲と骨にヒビが入っていた。
当然帰宅する力もなく、今北課長に言われるがまま2日入院。
朝8時。ぼんやりと昨日のことを思い出す。
ヘルワと戦ったことを言いたくはなかったが、しかし忘却物装備の破損に納戸自身の怪我、今北課長からの信頼を前にして嘘は思い付けなかった。
その結果。ドレッサーの殺人を未然に防げたと感謝された。
釈然としない。
ヘルワが人を殺せなかったことが不自然だった。納戸が助けられるまでの間、殺人を犯すだけの時間は充分にあった。
「はぁ…」
なにを考えているのか分からない。
痛むお腹をさする。
ここまでこっぴどくやられておいて、それでも止めたいと思っている。
「ぞっこんだな俺…」
自分の気持ちに整理をつけて、ヘルワのことを再びしっかり考える。なぜ人を殺さなかったのか、そして殺したと嘘をついたのか。
人を殺したくはないのかもしれない。希望的観測だと首を振る。既にヘルワは人を殺している。
自分を忘れた人物を殺すことは、忘却物としての本能だと語っていた。しかしその姿に寂しさは見えた。
それは諦観だったのではないだろうか。どうしようもないことを落胆と共に受け入れた。
殺人に意欲的ではないが、本能として殺人をやめることも出来ない。
囚われている。
「そうか」
しっくりときた表現に思わず口から納得が溢れた。
推測はたった。なら次は、それをどうやって助け出すか。
解き放つことはしてはいけないだろう。一度大丈夫だと肯定してしまえば、殺人に躊躇がなくなる。そうなれば本当に処理するしか手立てがない。
納戸はふと、そもそもの着地点が不鮮明だということを思い出した。
殺人事件を引き起こしたドレッサーは処理する。この前提を変えることがまず始めに行うことではないだろうか。
ヘルワを処理せずに生かす方法。規定、規則、なんでもいい。なにかあっただろうか。
懸命に頭のなかで、忘却物対策庁の分厚いルールブックを捲る。
記憶のなかのそれは、文字の多くが掠れており、あまり役に立たない。
だが、1つの項目が引っ掛かった。
忘却物装備の取り扱いについて。
現在規格化された忘却物装備はオリジナルの劣化だ。そしてオリジナルは忘却物対策庁が保有している。
力だけ残された意思のない残骸。共感出来る人だけが使用可能なオリジナル。
何らかしらの要因で処理後に残留した能力と破片。役に立つと保管されている。
しかし、保管されるのは処理後の残骸だけではない。意志も力も残された完全な状態の忘却物も保管されている。
役に立つ。そして共感できる人物が忘却物対策庁内にいるという条件で、存在することが許される。
生きることが許される。
やるべきことが決まった。
ヘルワ・エルシュテルベントを理解する。
最初の理想にたどり着いた。




