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継母に追い出された令嬢は薬草畑でのんびり暮らすことにした  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第9話 水路の視察のついでに調べた


「サヤ、久しぶりね」


 ──その声を聞いた瞬間、背筋が冷えた。


 畑の入口に、女が立っていた。四十代の、仕立てのいい旅装。街道の埃を被っていても隠せない、手入れの行き届いた立ち姿。後ろに従者が一人。


 マリエッタ。


 継母の顔は、記憶の中と少しも変わっていなかった。穏やかで、慈しみ深く、誰が見ても「よくできた母親」と言う、あの顔。


 ヘルツ男爵邸の玄関で「もうあなたはこの家の人間じゃないのよ」と言った時と、同じ微笑み。


「こんなところで畑仕事をしているなんて。たくましくなったわね」


 褒めているのか嘲っているのか判別できない声。社交の場で鍛えた、隙のないトーン。


「……ヘルツ男爵夫人。ご用件を伺えますか」


 声が震えないように注意した。「継母」でも「マリエッタ」でもなく、称号で呼ぶ。距離を取る。前世で厄介な上司と対峙する時にやっていたのと同じ方法だ。


 マリエッタの眉がほんのわずかに動いた。──「男爵夫人」呼びは想定外だったらしい。


「他人行儀ね。……まあいいわ。この畑のことだけど、サヤ」


 一歩、近づいてきた。


「元はおばあ様の土地だったわよね。おばあ様はヘルツ家の親族。ということは、この土地もヘルツ家に関わる財産として──」


「この畑は祖母から私への直接遺贈です」


 遮った。


 三日前の夜、机の上に置かれた書類を何度も読み返した。レンが残していった土地登記の写し。辺境伯府の印が押された、正式な文書。あの書類に書かれていた内容を、そのまま口にする。


「祖母は母方の親族であり、ヘルツ男爵家を経由していません。土地の遺贈は祖母個人から私個人への──」


「離籍は手続き上のこと」


 マリエッタが被せてきた。声のトーンが変わらない。穏やかなまま。


「あなたがヘルツ家に在籍していた時期に、おばあ様の遺産がどのように処理されたか。家の中のことは家の中で整理すべきでしょう? 法的な手続きが完了していようと、親族間の財産管理は別の問題よ」


 論点が、ずれている。


(──法的に反論できないから、「親族間の管理」という曖昧な枠に持ち込もうとしている)


 前世の薬局でもあった。法律上は問題ないのに、「業界の慣例」「取引先との関係」を持ち出して押し通そうとする人。理屈ではなく空気で勝とうとする手法。


「ヘルツ男爵夫人。離籍は「手続き上のこと」ではありません。法的に──」


「サヤ。私はあなたのためを思って──」


「失礼」


 声が、後ろから来た。


 振り返る。


 レンが畑の柵を越えて歩いてきた。後ろにオスカー。そしてもう一人──五十がらみの、厳しい目をした男。黒い上着に辺境伯府の紋章が刺繍されている。


「水路の視察で通りかかった」


 通りかかった。


 三日間、畑に来なかった人が。辺境伯の代官を連れて。通りかかった。


(……通りかかるわけないでしょう)


 でも今は、その嘘がありがたかった。


「アシュフォード騎士爵領主、レン・アシュフォードだ。──ヘルツ男爵夫人とお見受けする」


「……これはアシュフォード卿。遠い辺境まで、ご苦労なことですわね」


 マリエッタの声に、初めて警戒の色が混じった。領主が出てくるとは思っていなかったのだろう。社交の場ではない。畑の前で、法的知識を持った相手が現れた。


 レンが一歩前に出た。手に、書類を持っている。


 ──あの書類だ。三日前に縁台の上に置いていった、あの書類とは別の。いや、同じものの正本かもしれない。辺境伯府の印が、紙の上で光っている。


「この畑はサヤ殿個人の所有であり、男爵家の家産ではない。根拠は三つ」


 レンの声は淡々としていた。感情がない。交渉の時の声だ。


「一つ、祖母からサヤ殿への遺贈を証する遺言状の写し。教会印つき。二つ、辺境伯府の土地登記簿。この畑は祖母個人の名義で登記され、遺贈によりサヤ殿に名義移転されている。三つ、離籍証明書の写し。離籍時をもって、サヤ殿と男爵家の法的関係は消滅している」


 書類を一枚ずつ、マリエッタの前に差し出した。


 マリエッタの目が書類の上を走った。教会の印。辺境伯府の印。離籍証明の記録番号。──偽造ではない。正式な手続きを経た書類だと、マリエッタにもわかったはずだ。


 唇が、かすかに引き結ばれた。


「なお」


 レンが続けた。声のトーンは変わらない。


「離籍時に、サヤ殿に対する法的影響の説明義務が適切に履行されたかについて、疑義がある。離籍の法的意味──相続権の消滅、家名の喪失、身分変動──を当事者に書面で通知する義務が、履行された記録が見当たらない」


 マリエッタの肩が、ほんのわずかに強張った。


「辺境伯代官のダグラス殿にも、その点は確認済みだ」


 レンの後ろに控えていた男──ダグラスが、一歩前に出た。


「ヘルツ男爵夫人」


 低く、重い声だった。


「辺境伯府としても、離籍時の手続きの適正性については関心を持っております。これ以上の権利主張は、通知義務不備に関する正式な調査を招く可能性がございます。──ご承知おきください」


 沈黙。


 畑に風が吹いた。薬草の葉がさわさわと鳴る。その音が、やけに鮮明に聞こえた。


 マリエッタの顔から、微笑みが消えていた。初めて見る表情。社交の仮面を剥がされた、素の顔。唇が一文字に閉じられ、目が細くなっている。


「……覚えておきなさい」


 搾り出すような一言だった。


 踵を返して、従者とともに丘を下りていった。振り返らなかった。



 マリエッタの馬車が見えなくなるまで、誰も動かなかった。


 ダグラスが「本日はこれで」と短く告げて、自分の馬のもとへ向かった。レンと目配せを交わしていたのが見えた。──偶然の同席ではない。それはもう、わかっていた。


 畑に残ったのは、私とレンと、少し離れた場所にいるオスカー。


「……いつの間に、あの書類を」


 声を出したら、少しだけ震えていた。怒りではない。緊張が解けた反動だ。


「三日前に置いていったものとは別に、遺言状の正本の写しを辺境伯府で取得した」


「ダグラス殿は?」


「水路の管轄に関する相談で辺境伯府を訪ねた際に、今日の件を伝えた」


(──水路の管轄の相談。ダグラス殿を呼ぶのが、水路の相談の「ついで」)


「……ついでの範囲が、広すぎます」


 ぽろっと、出てしまった。


 レンの表情が──あの動かない表情が、一瞬だけ揺れた。唇の端が、ほんの一ミリほど引かれて、すぐ元に戻った。笑おうとしたのか、それとも言葉を飲み込んだのか。


 三日前のことが、胸の中で渦を巻いていた。「なぜ勝手に調べたのですか」と怒った自分。「出過ぎた真似をした」と引き下がったレン。三日間の空白。二人分のお茶。冷めたまま残った器。


 あの三日間、レンは来なかった。でも情報はオスカー経由で届けた。来なかったけれど、見捨てなかった。


 そして今日──私が「自分でやる」と言った問題に、それでも書類を持って現れた。「通りかかった」という嘘をついてまで。


(──頼ることは、依存じゃない)


 三日間、小屋の中でぐるぐると考えていたことの答えが、今ここにある。


 この人は、私から居場所を奪いに来たのではない。


 居場所を守るための道具を、黙って置いていっただけだ。使うかどうかは私に任せて。


「……ありがとうございます」


 言った。


 初めて──本当に初めて、この言葉を素直に口にした。お茶を出した時の社交辞令でも、水路が完成した時の事務的な謝意でもなく。


 レンの目が、わずかに見開かれた。灰色の瞳に何かが浮かんで、消えた。


「……ああ」


 短い返事。いつもの。でも、声が──ほんのかすかに──掠れていた。


 少し離れた場所にいたオスカーが、何かに気づいたように口元を緩めた──気がした。視線の端でそう見えただけで、確認はできなかった。



 レンが帰る前に、私はもう一つだけ聞いた。


「……あなたは、なぜ、ここまでしてくれるのですか」


 畑の入口で。夕暮れの光が、レンの横顔を照らしている。


 レンは、少し間を置いた。


「……水路の管理上、この畑は重要だ。薬草の供給が止まれば領民の医療に影響する」


 正しい。合理的。領主として、完璧な回答。


 でも、その声は──さっきマリエッタに法律を突きつけた時の、あの淡々とした声ではなかった。少し低くて、少し遅くて、少しだけ──息が足りないような。


「……そうですか」


 私は笑った。


 自分でも不思議な笑い方だった。嫌味でも皮肉でもなく、悲しいのでもなく。ただ──ああ、この人は本当に不器用なんだな、と思ったら、自然に口元が緩んだ。


 レンがその笑い方を見て、一瞬だけ──本当に一瞬だけ、目を逸らした。


「……失礼する」


 踵を返した。丘を上がっていく。オスカーが追いつく。


 二人の背中が稜線の向こうに消えるまで見送ってから、小屋に戻った。


 栽培記録のノートを開く。今日の日付の欄に、ペンを走らせた。


 ──「ヘルツ男爵夫人来訪。権利主張。法的書類により棄却。辺境伯代官同席」


 書き終えて、ペンを置いた。


 窓の外を見る。丘の稜線に、もう人影はない。


 ただ──あの掠れた声が、耳に残っていた。「水路の管理上、この畑は重要だ」。水路。ついで。管理上。


 全部、嘘じゃない。嘘じゃないけれど、全部でもない。


 ……いつか、あの人が「ついで」じゃない言葉を使う日が来るんだろうか。


 ノートを閉じて、窓辺に頬杖をついた。蝋燭はまだ灯していない。夕暮れの最後の光が、畑の薬草をうっすらと照らしている。


 水路のせせらぎが聞こえる。石垣の白い角。赤蔓花の蔓が、柵に巻きついて伸びている。


 ──全部、この場所で育てたものだ。


 明日もここにいる。明後日も。


 お茶は、明日から二杯分に戻そうと思った。

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