第8話 お茶を、淹れすぎてしまった
「なぜ私の個人的な事情を、勝手に調べたのですか」
自分の声が震えていた。
レンが畑に来たのは、フィオナの訪問から一週間後の昼下がりだった。いつもの「水路の視察」ではなく、手に数枚の書類を持って。
「男爵家からの離籍時の法的状況を確認した」
開口一番、それだった。
「この畑は祖母からサヤ殿への直接遺贈であり、男爵家の家産ではない。辺境伯府の土地登記にも記録がある。男爵夫人が権利を主張しても、法的根拠はない」
書類を差し出された。辺境伯府の印が押された土地登記の写し。離籍証明書の写し。祖母の遺言状に関する照会記録。
──全部、調べてある。
フィオナから「畑はうちの財産」という継母の言葉を聞いたのは一週間前。私はまだ小屋の床下を探し始めたばかりだった。祖母の遺言状がどこにあるかも確認できていない段階で。
レンは、もう全部揃えていた。
「……頼んでいません」
声が低くなった。自分でもわかる。喉の奥が詰まるような、苦い感覚。
レンの灰色の目が、私を見ている。
「男爵夫人の動きがある以上、法的な備えは──」
「それは、私の問題です」
遮った。失礼だとわかっている。レンがこれを善意でやったことも、理解している。合理的だし、実務的だし、領主としてサヤの畑を守ることは水路の管理にも関わる。正しい判断だ。
正しい。
でも。
「なぜ私の個人的な事情を、勝手に調べたのですか」
同じ言葉を、もう一度言っていた。
(──頼っちゃだめだ)
頭の奥で、何かが叫んでいた。あの日の記憶。ヘルツ男爵邸の廊下。「あなたの部屋は妹に必要なの」と言われた日。父の書斎の扉が閉まったまま開かなかった日。
居場所は、他人が握っている。他人がくれたものは、他人が取り上げる。
母の形見の髪飾りも。部屋も。名前も。
だから──自分のことは、自分でやる。自分で見つけた畑を、自分の手で守る。誰かに書類を揃えてもらって、誰かの法的知識に頼って、それで安心するなんて。
それは──。
「……出過ぎた真似をした」
レンの声は、短かった。
反論しなかった。言い訳もしなかった。書類を静かに引いて──いや、引きかけて、一瞬だけ手を止めた。
それから、縁台の上にそっと置いた。
「書類は置いていく。必要なければ、破棄してくれ」
踵を返して、畑を出ていった。
振り返らなかった。いつもは一度だけ──畑を見るために振り返るのに。今日は、一度も。
背中が丘を上がっていく。オスカーが麓で待っているのが見えた。レンがオスカーの横を通り過ぎる時、オスカーが何か言いかけて──口を閉じた。
二人の姿が稜線の向こうに消えた。
縁台の上に、書類が残されていた。
風が吹いて、紙の端がぱたぱたと鳴った。
◇
翌日、レンは来なかった。
その翌日も。
さらにその翌日も。
週に二度の「水路視察」の日が来ても、丘の稜線に人影はなかった。水路は変わらず流れている。畑の薬草は変わらず育っている。何も変わっていない。
何も──。
……嘘だ。
朝、畑に出る。土壌を確認する。栽培記録をつける。薬草を収穫して、乾燥させて、ブレンドして。村人が来れば対応する。ハンナと世間話をする。全部、いつもと同じ。
でも夕方になると、縁台を見てしまう。
誰も座っていない縁台を。
(──忙しいんだろう。領主なんだから。ゴードンの件だってまだ片付いていないし、領地の仕事もある。私が怒ったから来なくなった、なんて思い上がりだ)
そう自分に言い聞かせた。一日目は、うまくいった。
二日目は、少し苦しかった。
三日目の夕方。
竈の前でお湯を沸かして、いつものように器を二つ並べていた。火根草を刻んで、赤蔓花の花弁を量って。温度を確認して、壺に注いで、蓋をして、五分。
壺を開けて、二つの器に注いだ。
──二つ。
手が止まった。
縁台に持っていこうとして、そこで気づいた。器が、二つある。一つは自分の分。もう一つは。
「……お茶を、淹れすぎてしまった」
声に出していた。
誰もいない小屋の中で。
淹れすぎた、のではない。いつもの習慣で、二人分を作ってしまっただけだ。三ヶ月以上、来るたびにお茶を出して、断られたことが一度もなくて。それが体に染みついて、手が勝手に動いた。
ただ、それだけのこと。
余った一杯を見つめる。湯気が立ちのぼって、薬草の甘い香りが小屋に広がっている。
(……寂しい、のか。私は)
認めたくなかった。
一人で大丈夫だと思っていた。前世でも今世でも、一人でやっていける。追い出されても、形見を売っても、荒れた畑をゼロから立て直しても。一人で。
でも──。
余った器の、紅色の液面を見つめたまま、動けなかった。
◇
その夜、柵の外からハンナの声がした。
「サヤちゃん、起きてる?」
小屋の扉を開けると、ハンナが息を切らせて立っていた。いつもの噂話の顔ではない。少し、緊張している。
「さっき、アシュフォード卿のところの副官殿──オスカーさんが村に来てね」
オスカーが。
「男爵夫人がこちらに向かっているって。従者を連れて、三日前に都を発ったらしい。早ければ明後日にはこの辺りに着くって」
手が、握りしめられた。
マリエッタが、来る。
「オスカーさん、あんたに直接伝えてくれって言ってたわ。それと──」
ハンナが少し首を傾げた。
「アシュフォード卿からの伝言は特にないって言ってたけど、わざわざ夕方に馬を飛ばして来てたわよ。副官殿が個人的に動くかしらねえ」
(──オスカーが、個人的に?)
副官が、領主の指示なく動くだろうか。
……動かない。軍人気質のあの人が、独断で情報を伝えに来るとは思えない。ということは。
(レンが──指示を出した?)
来なくなった。でも、情報は届けた。
自分では来ないけれど、私が必要な情報を受け取れるようにしてくれた。
怒って来なくなったのではない。
引いたのだ。私が「自分でやる」と言ったから、その意思を──。
「サヤちゃん? 大丈夫?」
「……大丈夫です。ありがとうございます、ハンナさん」
笑って見せた。笑えたかどうかは、わからない。
ハンナが帰った後、小屋に戻った。
机の上に、あの書類がある。レンが置いていった土地登記の写し、離籍証明書の写し、遺言状の照会記録。破棄していいと言われた書類。
──破棄していない。
破棄できなかった。
手に取った。辺境伯府の印。教会の印。一枚一枚、丁寧に調べて、正式な手続きを踏んで取得した書類。「水路の管轄を調べていたら目に入った」なんて言い訳で集められる量ではない。
これを集めるのに、どれだけの手間がかかったのだろう。
(……あの人は、ずっと「ついで」と言う)
石垣を直したのも「水路工事の延長」。布告を調べたのも「水路の管轄を確認していたら」。声の届く距離にいたのも「水路の確認」。
全部、ついで。
全部──。
書類を机の上に戻して、窓の外を見た。
暗い。蝋燭の灯りが窓から漏れているだろう。この灯りが丘から見えると、あの人は言っていた。
今夜は──丘に、誰かいるだろうか。
いないだろう。怒らせたのは、私だ。
……いや、怒っていないのかもしれない。引いただけなのかもしれない。でも、引かせたのは私だ。
ノートを開いた。明日の作業計画を書く。明後日までに、できることを全部やる。
マリエッタが来る。
書類はある。レンが残していった、法的な備え。使うかどうかは──。
(自分で決める。自分の問題だから)
ペンを走らせる。手は、もう震えていなかった。
ただ、机の端に置かれた二つ目の器──冷めたお茶が入ったまま──が、蝋燭の灯りで紅く光っていた。




