第7話 あの薬草茶の作り手ですわよね?
辺境伯の紋章がついた馬車が、畑の前で止まった。
──またギルドか。
身構えた。反射的に、小屋の棚にある栽培記録ノートの位置を確認する。ゴードンが引き下がってから三週間。「別途ある」と言い残していった以上、次の手が来てもおかしくない。
馬車の扉が開く。降りてきたのは──男ではなかった。
四十代半ばくらいの女性。深い藍色のドレスに、控えめだけれど上質な銀のブローチ。後ろに侍女が一人。ギルドの紋章ではなく、辺境伯家の紋章。
「あなたがサヤさんね?」
声は柔らかかった。でも目は鋭い。社交の場で人を見慣れた目。
「辺境伯夫人フィオナですわ。先日ニコから聞いてね、あの堅物が珍しく興奮した声で報告してきたものだから、どんな畑かと思って」
辺境伯夫人。
(──ギルドじゃない。辺境伯家だ)
ギルドの査察とは格が違う。辺境伯は、この辺り一帯を統括する上位貴族。その夫人が直接来るということは──。
「突然お邪魔してごめんなさいね。お茶をいただきながら、畑を見せていただけるかしら」
◇
畑を案内しながら、フィオナの反応を窺った。
この人は薬草の専門家ではないだろう。でも、質問が的確だった。「この薬草はどのくらいの期間で収穫できるの?」「領地にはどのくらいの量を供給しているの?」「品質が安定している理由は?」
経営者の質問だ。薬草そのものではなく、供給の持続性と信頼性を見ている。
「現在はアシュフォード卿の領地への供給で、畑の生産量はほぼ上限です。品質を維持するためには、土壌の管理と栽培記録の更新に毎日時間をかける必要がありますので」
「まあ。それで品質が保たれているのね」
「はい。逆に言えば、今の畑の規模を超えて量を増やすと、管理が追いつかなくなります」
フィオナが足を止めた。
「……うちの領地にも供給してもらえないかと思っていたのだけれど」
来た。予想はしていた。
「申し訳ありません。今の規模では、品質を落としてまで量を増やすことはできません」
断った。
辺境伯夫人を相手に。
フィオナの目が、ほんの一瞬だけ見開かれた。──それから、ふっと口元が緩んだ。
「あなた、面白いわね。普通は辺境伯家の名前を出されたら、無理をしてでも応えようとするものよ」
「品質の落ちた薬草をお渡しする方が、よほど失礼だと思いますので」
「……ニコが興奮していた理由がわかったわ」
フィオナは笑って、侍女が用意した椅子に腰を下ろした。縁台の隣に置かれた簡素な木の椅子。辺境伯夫人が座るにはあまりにも質素だったけれど、フィオナは気にする様子もなかった。
お茶を出した。火根草と赤蔓花のブレンド。フィオナが一口含んで、目を細めた。
「これは……体が温まるわね。じんわりと」
「冷え性の方に好評です。お湯の温度で効き目が変わりますので、淹れ方の説明書もお付けします」
「説明書まで。──本当に丁寧ね」
フィオナはお茶を飲みながら、何気ない調子で言った。
「そういえばサヤさん。あなた、ヘルツ男爵家のお嬢さんだったのですってね」
心臓が、一拍飛んだ。
「……ええ。以前は」
「先日ね、辺境の小さな集まりがあったの。そこにヘルツ男爵家の──ティナ嬢、だったかしら。あの子がいてね」
フィオナの声は穏やかだった。でも、目の奥に何かが光っていた。
「あの子、『姉は家出して辺境で野良仕事をしている』と言っていたのよ。ずいぶん寂しそうにね。周りの夫人方もみんな同情していたわ」
家出。野良仕事。
(……そう言っていたんだ)
知らなかった。ティナが社交界で何を言っているかなんて、辺境の畑にいる私の耳には届いていなかった。
「でもね」
フィオナがお茶の器を膝の上に置いた。
「私、言ってしまったの。『あの薬草茶の作り手ですわよね? 先日うちの領地にも分けていただいて。品質管理が見事だとニコが絶賛していましたわ』って」
間。
「ティナ嬢、固まっていたわよ。それはもう見事に」
フィオナの口調は軽かったけれど、目は笑っていなかった。──この人は、わかっていて言ったのだ。
「周りの夫人方も少し雰囲気が変わってね。『あら、家出ではなく薬草の専門家として?』『野良仕事ではなく栽培事業を?』って。まあ、ちょっとした波紋ね」
波紋。
ティナが三週間かけて築いた「かわいそうな妹」の演技が、フィオナの一言で──。
(……私は、何もしていない)
何も仕掛けていない。ただ、畑を耕して、薬草を育てて、品質を守っていただけ。それが勝手に噂になって、フィオナの耳に届いて、フィオナが事実を口にしただけ。
ティナの嘘は、私が暴いたのではない。私が作った薬草が暴いた。
「それからね──」
フィオナの声が、少しだけ低くなった。
「ヘルツ男爵夫人が、この畑の噂を聞いて、こんなことを言っているらしいの。『あの畑はうちの家の財産のはず』って」
手が止まった。
「……家の、財産」
「ええ。真偽のほどは知らないけれど、そういう声が出ているということだけ、お伝えしておくわね」
フィオナは最後のお茶を飲み干して、立ち上がった。
「また来るわ。──畑の規模が広がったら、その時は供給の話を聞かせてね」
侍女とともに馬車に乗り込み、丘を下りていった。
◇
フィオナの馬車が見えなくなってすぐ、別の来客があった。
畑の入口に立っていたのは、二十代前半くらいの青年。亜麻色の髪を後ろで束ねて、肩から革の鞄を提げている。
「サヤ殿ですね。辺境伯家の薬師をしております、トーマスと申します。ニコさんの紹介で──栽培記録を拝見したいと思いまして」
ニコの紹介。
声は明るくて、目がきらきらしていた。薬草の話ができる相手に会えた喜びが、全身から滲み出ている。
「もちろん。畑をご案内します」
トーマスは熱心だった。畝の一つひとつを覗き込み、土を指で確かめ、葉の裏まで観察した。質問が止まらない。
「この赤蔓花の乾燥方法、日陰で三日干しですよね? 魔力含有率の安定にはこの方法が最適だとニコさんが──」
「ええ。ただ、天候によって調整が必要で、雨天が続く場合は──」
薬草の話をしている時、私は早口になる。自分でもわかっている。前世の薬局時代のクセだ。新しい薬の勉強会で同期と議論していた時のテンションが、つい出てしまう。
トーマスも同じだった。二人で畝の端にしゃがみ込んで、火根草の根の太さについて議論していた時──。
「──失礼」
声が、後ろから来た。
振り返る。
レンが柵の向こうに立っていた。いつもの灰色の目。いつもの無表情。──いつもの、はずだった。
「水路の確認に来た。……客か」
最後の二文字が、少しだけ硬かった。
「はい。辺境伯家の薬師のトーマスさんです。栽培技術について──」
「トーマスと申します。アシュフォード卿にはお初にお目にかかります」
トーマスが立ち上がって頭を下げた。レンは短く「ああ」とだけ答えて、視線をトーマスからサヤの畑に移した。
いつもなら、ここで縁台に座る。お茶を出して、黙って飲んで、畑を見て帰る。それがこの三ヶ月で出来上がった二人の動線。
でも今日、レンは縁台に向かわなかった。
「水路の確認は済んだ。──失礼する」
踵を返した。
(……え、もう帰るの?)
来て、一言二言交わして、帰っていく。水路の確認なんて三十秒もしていない。
「あの──お茶、淹れますけど」
レンの足が一瞬止まった。
「……今日はいい。急ぎの書類がある」
振り返らなかった。
丘を上がっていくレンの背中と、麓で待っていたオスカーの姿が見えた。レンがオスカーの横を通り過ぎる時、オスカーが何か言いかけて──口を閉じたのが、遠目にわかった。
(忙しいんだろうな)
そう思った。領主なのだから、急ぎの書類くらいある。毎回お茶を飲んで帰る方が、むしろ不思議だったのだ。
「──アシュフォード卿、お忙しい方なんですね」
トーマスが少し申し訳なさそうに言った。
「ええ。いつもはもう少しゆっくりされるんですけど……今日は何かあったのかもしれません」
「いつもはゆっくり? ……領主が、薬草畑で?」
トーマスが不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は聞かなかった。
◇
トーマスが帰った後、小屋に戻った。
棚から栽培記録のノートを取り出して、今日の来客を書き留める。フィオナの訪問。トーマスの質問内容。レンの──。
レンのことは「水路確認、短時間で帰還」とだけ書いた。
ペンを置いて、窓の外を見た。
フィオナの言葉が、頭の中で繰り返される。
「あの畑はうちの家の財産のはず」。
継母の声が、言葉の向こうに透けて見えた。あの穏やかで、慈しみ深い──社交の場で皆が褒めそやす「よくできた母親」の声。
この畑は、祖母が私に遺してくれたものだ。母がそう言っていた。男爵家の所有ではなく、祖母個人の──。
……でも、法的な書類はどこにあるのだろう。
祖母の遺言状。この畑が私のものだと証明する書類。小屋のどこかにあるのか、それとも──。
ノートを閉じて、小屋の中を見回した。祖母の道具がそのまま残っている棚。古い竈。床板。
(──探さないと)
ゴードンの時は、栽培記録があった。品質管理という武器があった。
でも、継母が来るとしたら、今度は「品質」の戦いではない。「権利」の戦いだ。
私の武器は、どこにある。
窓の外が暗くなっていく。蝋燭に火を入れた。
小さな灯りが、小屋の中を橙色に染める。
──あの灯りが、丘から見えるのだと、あの人は言っていた。
今夜も見えているだろうか。
……いや、今日は急ぎの書類があると言っていた。丘になんか立っている暇はないだろう。
(なんで私、そんなこと気にしてるの)
ペンを取り直して、明日の作業計画を書き始めた。
継母が何を言ってこようと、この畑は渡さない。そのためにできることを、一つずつ。
──まず、床下を調べよう。祖母が何かを遺しているなら、きっとこの小屋のどこかに。




