第10話 ついでじゃない言葉
棚の上に、二冊の本が並んでいる。
母の調合レシピ帳と、薬草図鑑。
ようやく、隣同士だ。
博覧会から戻って一週間。畑の日常が、静かに戻ってきた。朝は土壌を確認し、畝の記録をつけ、赤蔓花の蔓を整え、火根草の新芽を観察する。水路のせせらぎが春の水量を運び、石垣が朝日を白く弾く。
栽培記録の新しいノートを下ろした。十一冊目。表紙に日付を書いて、一行目に──「博覧会後。通常栽培に復帰」。
いつも通りの一行。いつも通りの朝。
でも、棚を見上げるたびに胸が温かくなる。レシピ帳の革の背表紙と、「サヤへ」と書かれた図鑑の背表紙。二冊が並んでいるだけで、小屋の空気が違う。
(──お母さん。ちゃんと、並べたよ)
◇
朝の畑仕事を終えて小屋に戻ると、机の上に手紙が置かれていた。
使いの者が柵に括りつけていったらしい。封蝋にヘルツ男爵家の紋章。
手が、一瞬止まった。
マリエッタではない。この紋章の押し方は──父の書斎の印だ。男爵家の当主が使う、正式な封蝋。
父。
書斎に閉じこもったまま、一度も扉を開けなかった人。マリエッタが私を追い出した日も、離籍の手続きの時も、博覧会の騒動の間も──一度も、声を聞かなかった人。
封を切った。
長い手紙だった。
父の字は、記憶よりも細かった。震えている──のではなく、丁寧すぎるのだ。一文字一文字に時間をかけて書いた跡がある。インクの溜まりが均等で、書き直しの形跡がない。何度も下書きをしてから清書したのだろう。
『サヤへ。
この手紙を書く資格が私にあるとは思っていない。それでも、書かずにいられなくなった。
書斎からお前を見送った日のことを、ずっと後悔していた。
扉の向こうに、お前の足音が聞こえていた。立ち止まったことも、わかっていた。扉を開けるべきだった。開けなかった。マリエッタに何も言えなかった自分が、お前の顔を見ることが怖かった。
博覧会の話を聞いた。お前が壇上で記録を並べて、母さんのレシピ帳が戻ったことを。都にまで噂が届いている。
お前は一人で立った。私が何もしなかった場所で。
謝って済むことではない。わかっている。
ただ、お前が元気でいることだけが──』
そこから先は、文字が少し乱れていた。下書きで整えきれなかった部分だろう。最後の一行は──。
『どうか、体に気をつけて。 父より』
手紙を、膝の上に置いた。
しばらく、動けなかった。
怒りは──ない。不思議なくらい、ない。赦しも、ない。赦すとか赦さないとか、そういう段階をもう通り過ぎている。
あの日、書斎の扉の前で足を止めた。待った。扉は開かなかった。
知っていた。ずっと前から。あの扉は開かない。あの人は出てこない。怖いから。弱いから。
(──可哀想な人だ)
初めて、そう思った。
怒りでも軽蔑でもなく。ただ──可哀想な人。全部が終わってから手紙を書く人。扉の向こうで後悔し続ける人。
便箋を一枚、出した。
ペンを取った。
一行だけ、書いた。
『読みました。お体にお気をつけください。 サヤ』
それ以上の言葉は、出なかった。出す必要もなかった。
怒りでもない。赦しでもない。ただ──もう、あの扉の向こうの人に、感情を注ぐ必要がないのだと、わかった。
卒業。
封をして、使いの者に持たせる分として机の端に置いた。
もう一枚、便箋を出した。
ティナへの返信。
あの震える字で書かれた手紙。「母様が間違っていたと思う。でも私にはどうすることもできない」。
ペンを走らせた。
『ティナへ。手紙をありがとう。あなたが自分で考え始めたなら、それだけで十分です。 サヤ』
短い。でも、これ以上は書けない。書く必要もない。ティナの人生は、ティナのものだ。私が導くものでも、赦すものでも、責めるものでもない。
二通の手紙を封じて、机の端に並べた。
窓の外を見た。春の朝日が、畑に降り注いでいる。
◇
丘の稜線に、影が見えた。
長い影。背筋が伸びて、腰に剣を佩いたシルエット。
──今日は、一人だった。オスカーの姿がない。
心臓が、少しだけ速くなった。
お茶を淹れた。二杯分。火根草と赤蔓花のブレンド。温度は八十度。いつもの通り。いつもの器。
縁台に持っていった。
レンが坂を下りてくる。畑の柵をくぐって、いつもの動線で縁台に向かう。
座った。
器を差し出した。レンが受け取った。指が──触れた。今日は、離れなかった。温かい指。お茶の湯気よりも鮮明な温度。
レンが器を口元に運んだ。一口。間。
畑を見渡した。赤蔓花の蔓が柵を越えて伸びている。火根草の新芽が朝日に光っている。水路のせせらぎ。石垣の白い角。
いつもの風景。いつもの朝。
でも、レンの目がいつもと違った。畑を見ているのではなく、畑を見る振りをして──何かを考えている目。唇が少し開いていて、言葉を探しているような。
レンが、器を膝の上に置いた。
「水路の視察ではない」
声が出た。
──え。
「今日は──水路の視察ではない」
もう一度、言った。初めて。あの人が初めて、「ついで」を否定した。
心臓が跳ねた。
「……知ってました」
声が出た。自分でもびっくりした。──知ってた。ずっと。水路の視察じゃないことくらい。
レンの灰色の目が、私を見た。
「……石垣も」
間。
「布告も。書類も。査察の日に隣の畑にいたことも。外套も。博覧会の壇の袖も」
一つずつ。言葉を置いていくように。短い文を、一つずつ。
「全部──ついでではなかった」
春の風が、畑を渡った。赤蔓花の蔓が揺れて、甘い香りがふわりと広がった。
レンの声が、低い。いつもの低さではない。選んだ言葉を手渡すような、慎重な低さ。博覧会の壇上で「サヤ」と呼んだ時と、同じ声。
「この畑に、ずっと通いたい」
間。
「水路の管理ではなく」
間。
「──あなたの隣に」
風が止んだ。
いや、止まっていない。赤蔓花は揺れているし、水路は流れている。世界は何も変わっていない。変わったのは──私の心臓が、うるさすぎて他の音が聞こえなくなっただけ。
レンの目が、まっすぐこちらを見ている。灰色の瞳。いつもは何の感情もないように見える目。でも今──今だけは、全部が見えている。怖さも、不器用さも、言葉にできなかった時間の長さも。
(──ああ、この人は。ずっとこれを、言いたかったんだ)
石垣を直しながら。布告を調べながら。お茶を全部飲み干しながら。「ついで」と言いながら。
目の奥が熱い。泣きそうだ。でも──笑っている。自分の顔が笑っているのがわかる。
「……お茶は、三杯分になりますね」
口を突いて出たのは、そんな言葉だった。
レンの目が──見開かれた。
「……三杯?」
「いつか、もう一人分、増えるかもしれないので」
言ってから、自分の顔が熱くなった。何を言っているんだ私は。求婚の返事がそれか。もっと何かあるでしょう。「はい」とか「嬉しいです」とか。
(──でも、これが正直な気持ちなんだから仕方ない)
レンの耳が、赤くなった。
──見たことがない。この人の耳が赤くなるのを、初めて見た。
あの灰色の目も、短い声も、動かない表情も、全部知っている。でも耳が赤くなるのは知らなかった。感情が体に出る瞬間を、この人は今まで一度も見せなかった。
赤い。耳の先から、首筋まで。
レンが──視線を逸らした。器を持ち上げて、お茶を飲もうとした。一口。もう一口。──器が空だった。空の器を口元に当てて、飲む振りをしている。
(──からっぽですよ、それ)
指摘しなかった。代わりに、もう一杯淹れに小屋に入った。
竈の前で、お湯が沸くのを待つ。手が震えている。嬉しいのか緊張しているのか、自分でもわからない。
(三杯分、って言っちゃった。将来の話まで。気が早いにもほどがある)
でも──悪くない。悪くない、なんてあの人みたいな感想だ。
お茶を持って縁台に戻った。
レンの手に器を渡す。指が触れた。今度は──レンの指が、私の手を包むように、一瞬だけ止まった。
温かい。
「……ありがとう」
レンの声が、掠れていた。お茶の礼なのか、返事の礼なのか、それとも全部まとめてなのか。
「どういたしまして」
笑った。今日は上手く笑えた気がする。
レンがポケットに手を入れた。
取り出したのは──小さな布の袋。くすんだ茶色の、手のひらに収まるくらいの小袋。
「これは……ずっと前に渡そうと思っていた」
差し出された。
受け取って、紐を解いた。中に入っていたのは──種だった。小さくて黒い、粒の揃った種。
「赤蔓花の──新しい品種の種だ。辺境伯領の北側にしか自生しない。耐寒性が高い」
種を、指の腹で転がした。
(──いつから持っていたんだろう)
いつから。博覧会の前? もっと前? 渡そうとして──渡せなかった?
「……いつから」
「……だいぶ前だ」
それ以上は言わなかった。レンは説明しない。いつも。
でも、種の表面が少しだけ擦れていた。ポケットの中で、何度も指に触れていた跡。
「蒔きましょう」
言った。
「一緒に」
レンの耳が、また赤くなった。
◇
畑の端に、二人で穴を掘った。
レンが膝をついて土を掘る姿は初めて見た。外套の袖が汚れている。気にしていない。
種を一粒ずつ、穴に落とした。交互に。私が一粒、レンが一粒。
土をかぶせた。水をやった。
「芽が出るのは、いつ頃でしょう」
「……わからない。北方の品種だから、少し時間がかかるかもしれない」
「じゃあ、毎日見に来ないといけませんね」
「……毎日来ている」
「知ってます」
笑った。レンの唇の端が──ほんの少しだけ、上がった。
縁台に戻って、お茶を飲んだ。二杯。
春の朝日が畑に降り注いでいる。水路のせせらぎ。石垣の白い角。赤蔓花の蔓が柵を越えて、空に向かって伸びている。
追い出された先に、こんな朝が待っているなんて、知らなかった。
棚の上に、母のレシピ帳と図鑑が並んでいる。栽培記録のノートが、その隣に積み上がっている。そして今日から、畑の端に新しい種が眠っている。
器の中で、お茶の湯気が白く立ちのぼっている。
二杯分。──いつか、三杯分になる。
隣に座っている人の横顔を、ちらりと見た。灰色の目が、畑を見ている。朝日を受けて、少しだけ明るく見える。耳はまだ──ほんの少しだけ、赤い。
(……悪くない)
心の中で呟いて、お茶を一口飲んだ。
春の畑。朝の光。お茶の温かさ。
赤蔓花が、柵を越えて空に伸びている。




