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継母に追い出された令嬢は薬草畑でのんびり暮らすことにした  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第9話 サヤ、と呼んだ声


 母さんの手帳が、戻ってくる。


 ──そう聞いた瞬間、指先がしびれた。


 博覧会最終日の壇上。ニコが演台の前に立って、会場に向かって話している。


「本日をもちまして、サヤ殿の栽培管理手法を、薬師ギルドの公式推奨基準として正式に採用いたします」


 拍手が起きた。最初はまばらで、すぐに会場全体に広がった。昨日の公開審査で最高点を見た人たち。公開討論でマリエッタの主張が崩れるのを見た人たち。──あの栽培記録の実物を見て、「半年で十冊?」と目を丸くした隣のブースの栽培者が、一番大きな拍手をしていた。


 ニコが壇上でこちらを向いた。眼鏡の奥の目が、光っている。


「サヤ殿の記録管理体系は、辺境のみならず全薬草栽培拠点の品質向上に寄与するものです。──私が査察官として初めてあの畑を訪ねた日のことを、今でも覚えています」


 壇の袖で、立ったまま聞いていた。


(──あの日。ギルドの紋章入りの馬車が畑の前で止まった日)


 摘発しに来た人が、記録を見て目を見開いた日。「ここまで体系的な管理記録を見たことがありません」と言ってくれた日。


 あれが、ここに繋がった。


 拍手が鳴り止んで、ダグラスが壇上に上がった。


 黒い上着。辺境伯府の紋章。厳しい目。──この人の声は、いつ聞いても「法」の重みがある。


「続きまして、先般より審議を行っておりました調合レシピ帳の帰属に関する裁定を申し渡します」


 会場が、静まった。


 ダグラスが書類を広げた。辺境伯府の印と、教会の印。二つの紋章が、紙の上で並んでいる。


「ヘルツ男爵令嬢の亡母が著した調合レシピ帳は──」


 息を止めた。


「──個人の著作物として、遺族であるサヤ殿に帰属するものと認定します」


 間。


「教会に登録された遺言および辺境伯府の記録に基づき、当該レシピ帳はヘルツ男爵家の家産ではなく、著者個人の著作物であることが確認されました。よって、サヤ殿への返還を命じます」


 会場がざわめいた。


 声が聞こえる。あちこちから。「返還?」「家の財産じゃなかったのか」「著作物って──」


 私は、何も言えなかった。


 壇の袖に立ったまま。両手が膝の横で固まっている。指先がしびれている。呼吸が浅い。


(──戻ってくる)


 母の手帳。あの革の表紙。あのインクの染み。幼い頃、母の膝の上でページをめくった記憶。「これはね、サヤ。おばあちゃんの畑で育てた薬草よ」と教えてくれた、あの声。


 マリエッタに「家の財産」として取り上げられた日。リビングの書棚に移されたあの手帳を、もう二度と手にできないと思った日。


 戻ってくる。


 ダグラスの部下が、壇上に革の手帳を持ってきた。


 母の──手帳。


 差し出された。


 受け取った。


 革の表紙が、手のひらに重い。開いていない。開けない。今ここで開いたら──。


(泣く。絶対に泣く。ここで泣いたらだめだ)


 両手で、胸の前に抱えた。


 会場を見渡す余裕はなかった。でも、視界の端に──動きが見えた。


 広間の奥。窓際の席。


 マリエッタが座っていた。


 裁定が読み上げられている間、マリエッタの顔から表情が消えていくのが──遠目にわかった。微笑みが消えた。目が据わった。唇が一文字に閉じられた。


 社交界の仮面が、公の場で──辺境一帯の人の前で──剥がれた。


 マリエッタの周囲にいた夫人たちが、一人、また一人と距離を取った。椅子を少し引く人。視線を逸らす人。隣に座っていた都の夫人が、反対側の知人に声をかけて席を立った。


 潮が引くように。


 マリエッタが立ち上がった。


 無言だった。


 会場の出口に向かって歩いた。足取りは──崩れていなかった。背筋は伸びていた。最後の最後まで、歩き方だけは「よくできた母親」のままだった。


 振り返らなかった。


 出口の扉が閉まった。


 私は嘲笑わなかった。


 何も言わなかった。


 母の手帳を胸に抱えたまま、壇の袖に立っていた。


  ◇


 式典が終わった。


 会場の外に出た。天幕の裏手。博覧会の初日に、壇から降りた後に壁にもたれた、あの場所。


 春の風が吹いている。薬草の乾いた匂いと、朝露の湿った匂いが混じっている。


 手帳を抱えたまま歩いて──足が止まった。


 天幕の柱の陰に、人がいた。


 長身。背筋の伸びた立ち姿。濃紺の上着に銀のブローチ。


 レンが、壇の袖にいた。


(──いつから)


「……いたんですか」


 声が出た。少しかすれていた。


「……ああ」


 短い。いつもの。


「声の届く距離に?」


 レンの灰色の目が、私を見た。


「……ああ」


 同じ返事。同じ一音。──でも、声の温度が違った。


 二日間。畑に来なかった二日間。朝も夕方も、稜線に影はなかった。縁台に誰も座っていなかった。お茶を二杯淹れてしまって、冷めた一杯を飲んだ。


 でも──ここにいた。


 壇の袖に。声の届く距離に。式典の間、ずっと。壇上で私が手帳を受け取る瞬間を、ここから見ていた。


 出なかった。出ようとしなかった。公開討論の日、私が「自分でやります」と言ったから。あの言葉を、守ってくれていた。


(──この人は、ずっとそうだった)


 石垣を直した。布告を調べた。書類を揃えた。ダグラスを連れてきた。外套を畳んで縁台に置いた。全部「ついで」と言って。全部、手を出しすぎないように。私が自分の足で立てるように。


 でも、いなくなりはしなかった。声の届く距離から、消えなかった。


「あなたがいてくれたから」


 口を開いていた。考えるより先に、言葉が出ていた。


「──一人で、立てました」


 レンの目が、見開かれた。灰色の瞳の中に、春の光が映っている。あの目が、こんなに大きく開くのを見たのは初めてだった。


「頼ることは、依存じゃない」


 声が震えた。──私の声が。


「あなたが教えてくれた。布告を調べて、書類を置いて、でも使うかどうかは私に任せて。──全部、そうだった。自分で立つことと、誰かがそばにいることは、矛盾しないんだって」


 レンの唇が、かすかに開いた。何かを言おうとして──言葉が見つからないような顔。


 あの不器用な人が、言葉を探している。


 掠れた声が、出た。


「……ああ」


 間。


 長い間。


 春の風が、天幕の布を揺らした。薬草の匂いが運ばれてくる。赤蔓花の甘い香り。火根草の辛い匂い。私の畑の匂いだ。


 レンが、口を開いた。


「サヤ」


 名前だけだった。


 「殿」がつかなかった。「水路の管理上」も「領地のため」もつかなかった。


 ただ──サヤ、と。


 声が、震えていた。


 あの低い声。いつも短くて、平坦で、何の感情もないように聞こえる声。その声が、たった二文字で震えていた。


 心臓が鳴っている。耳の奥で。うるさい。うるさいのに──温かい。胸の中心から、指先まで、じんわりと広がっていく温度。


 レンの灰色の目が、私を見ている。見開かれたまま。何か言おうとして──「サヤ」で止まった。その先の言葉が、まだ出てこない。


 出てこなくて、いい。


 今は、名前だけで十分だった。


「……はい」


 返事をした。


 笑っていた。泣きそうなのに、笑っていた。


  ◇


 フィオナが用意してくれた宿の部屋に戻った。


 小さな部屋。蝋燭が一本。窓の外に、辺境の夜空。星が、多い。


 机の上に、母の手帳を置いた。


 しばらく見つめていた。


 革の表紙。角が擦れている。使い込まれた跡。母の指が、何度も開いて閉じた手帳。


 開いた。


 最初のページ。母の筆跡。細くて、丁寧で、ところどころインクが滲んでいる。


 『火根草──根茎部。辛味成分あり。温性。胃腸を温め、血行を促す。採取時期は秋が最適。乾燥は日陰で──』


 母の声が聞こえる気がした。幼い頃、膝の上で読み聞かせてくれた声。「これはね、サヤ」と始まる、あの声。


 ページをめくった。母が描いた薬草のスケッチ。丁寧な線。葉脈の一本一本まで描いてある。その横に、覚え書きが小さな字で。


 もう一ページ。


 もう一ページ。


 涙が、一滴、紙の上に落ちた。


 ──あ。


 慌てて手で拭った。インクが滲んだら大変だ。母の字が。


 でも、止まらなかった。


 一滴。もう一滴。


 笑っている。泣いているのに、笑っている。


(──お母さん。戻ってきたよ。あなたの手帳)


 手帳を閉じて、胸に抱えた。革の匂い。古いインクの匂い。母の──匂いでは、もうないかもしれない。何年もマリエッタの書棚にあったのだから。


 でも、ここにある。私の手の中に。


 棚の上に置いた。薬草図鑑の隣に。


 「サヤへ」と書かれた図鑑と、母の調合レシピ帳。


 ようやく──隣同士だ。


 蝋燭の灯りが、二冊の本の背表紙を照らしている。


 窓の外に、星が瞬いている。


 ──明日、畑に帰ろう。


 帰ったら、お茶を淹れよう。二杯分。


 今度は──冷める前に、二杯とも温かいうちに飲めるといい。

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