第8話 二杯目のお茶
朝、畑に出ると、稜線に人影がなかった。
──二日目だ。
博覧会の公開討論が終わった翌日から、レンが来ない。朝も、夕方も。丘の稜線に長い影は見えない。水路は変わらず流れている。石垣は白く朝日を受けている。畑の薬草は何事もなかったように風に揺れている。
何も変わっていない。
何も──。
(……嘘。変わってる)
朝の空気が、薄い。縁台の上に誰も座っていないと、風の通りが良すぎて落ち着かない。
畑仕事を始めた。畝の土壌を確認する。栽培記録をつける。赤蔓花の蔓を整える。博覧会は今日が最終日だけれど、品質審査と公開討論は昨日までで終わった。今日は表彰と総括の式典だけ。私が会場にいなくても構わない時間が、ある。
あるから──畑にいる。
いつも通りに。
◇
昼前に、フィオナから使いが来た。
封蝋を割って、書簡を読んだ。
フィオナの筆跡は相変わらず流れるように美しくて、中身は相変わらず美しくなかった。
『サヤさんへ。博覧会の式典で発表がありましたので、速やかにお知らせします。ゴードン副長が辺境伯府に対し、「辺境伯領における薬草認可制度そのものの見直し」を正式に提案しました。布告第七条を廃止し、ギルドの統一基準に統合すべき、との内容です。』
手が止まった。
布告第七条。
あの布告。レンが条文を暗唱してゴードンを退けた、あの布告。私の薬草栽培を法的に守っている、あの布告。
(──それを、廃止する?)
布告が消えれば、領主認可だけでは薬草を販売できなくなる。ギルドへの加入が必須になる。ゴードンの流通規制が、今度は法的な強制力を持つ。
(……最後の手段、か)
品質で負けた。公開討論で負けた。流通規制も空振りに終わった。だから今度は、法そのものを変えようとしている。
しつこい。──でも、これがゴードンの有能さだ。手段が潰されるたびに、次の手を打ってくる。品質、規約、社交、法制度。使える武器を全部使う。
書簡の続きを読んだ。
『しかし、です。ニコが動きました。ゴードンの利権構造を証する帳簿の写しと取引記録を、ダグラスに提出したのです。辺境への薬供給価格を不当に吊り上げ、ギルド外の薬師を排除することで独占利益を得ていた──その証拠です。』
──ニコが。
あの眼鏡の奥の、実直な目。「この管理手法をギルドの標準に採用させていただきたい」と言ってくれた人。「お気をつけください」と警告してくれた人。
ギルドの中から、帳簿を持ち出した。
(……十年以上ギルドにいた人が、それをやるのは)
覚悟がいる。ギルドの内部資料を上位機関に提出するということは、組織への背信と見なされる可能性がある。ニコはそれを承知で、やった。
書簡は続く。
『ダグラスは即座にゴードンの提案を却下しました。「認可制度の見直し以前に、副長としての利益相反を精査する必要がある」と。ゴードンの副長としての信用は致命的に毀損されました。──もう、あの人はあなたの薬草に手を出せないでしょう。』
書簡を膝の上に置いた。
息を吐いた。
ゴードンの布告廃止の提案が──「利権維持のための提案」と認定された。「規則を守る厳格な管理者」の仮面が剥がれた。規則を盾にしていたのではなく、利権を守るために規則を利用していた。
反論不能。
(──ニコさん。ありがとう)
声には出さなかった。でも、胸の中で確かに思った。
あの査察の日。畑に来て、栽培記録を見て、目を見開いて。「ここまで体系的な管理記録を見たことがありません」と言ってくれた人。あの日の正直さが、今日のこの結果を作った。
畑を始めた日の、最初の一行から。全部が繋がっている。
◇
午後。
フィオナの書簡を机の引き出しにしまって、畑に出た。
春の日差しが暖かい。赤蔓花の蔓が風に揺れて、甘い香りがする。水路のせせらぎ。石垣の白い角。
──稜線に、人影はない。
夕方になった。
小屋に戻って、竈に火を入れた。お湯を沸かす。火根草を刻む。赤蔓花の花弁を量る。温度を確認して──。
器を、二つ並べていた。
手が、止まった。
二つ。
また、二つ。
あの時と同じだ。博覧会の前──レンが三日間来なかった時。夕方にお茶を二杯淹れてしまって、余った一杯を見つめた、あの時と。
(──学習しない手だな)
壺から器に注いだ。紅色の液面に、蝋燭の灯りが映っている。
一杯は自分の分。もう一杯は──。
縁台に持っていった。
外は薄暗くなり始めている。春の夕暮れ。空が紫がかったオレンジに染まっている。丘の稜線が、その色を背景にくっきりと浮かんでいる。
誰もいない。
縁台に座って、自分の分を一口飲んだ。
もう一杯が、隣にある。湯気が立ちのぼって、薬草の甘い香りが広がる。
──あの外套の匂いが、ふと蘇った。
朝、縁台に畳んで置かれていた紺色の外套。アシュフォード家の紋章。朝露で少しだけ湿っていた生地。ハンナに指摘されるまで「風で飛んできた」と思い込んでいた、あの外套。
(あの夜、丘から灯りを見て、寒くないかと──)
置いたのだろう。夜のうちに、畑まで来て、縁台の上に畳んで。起こさないように。気づかれないように。
風で飛んできた外套なんて、あるわけがなかった。
もう一杯のお茶を見つめた。
湯気が細くなっていく。冷めていく。
「……寂しい、のか。私は」
声に出していた。
前にも同じ言葉を、この小屋の中で呟いた。あの時は認めたくなかった。一人で大丈夫だと思っていた。
今も──一人で大丈夫だ。ゴードンは敗北した。博覧会では最高点を取った。公開討論でマリエッタの嘘を自力で退けた。全部、自分の力で。
自分の力で、できた。
できた。
──のに。
縁台の隣の器に、手を伸ばした。冷めかけた紅色の液面に、指先が触れた。
あの人がいつも座っていた場所。器を両手で持って、畑を見渡して、「悪くない」と言って全部飲み干す人。石垣を直して、布告を調べて、「水路の管理上」と言い訳する人。
声の届く距離にいると言って、本当にそこにいた人。
(来てほしい、なんて──思ったら)
思ったら、認めることになる。一人じゃ足りないと。
冷めたお茶を、飲んだ。自分で淹れた、レンの分のお茶を。
味は同じだ。同じ配合、同じ温度、同じ器。──でも、温度だけが違った。
◇
小屋に戻ると、柵の外に使いの者が立っていた。
辺境伯家の使いではない。ギルドの紋章もない。見覚えのない若い男が、封蝋のない手紙を一通差し出した。
「ヘルツ男爵令嬢より、サヤ殿へ」
ティナ。
使いの者は手紙を渡すとすぐに踵を返し、丘を下りていった。マリエッタに知られないよう、急いでいる様子だった。
小屋の中で、蝋燭の灯りの下で、封を開けた。
ティナの字は──知らなかった。義妹の筆跡を見るのは、初めてだ。丸くて、少し震えていて、インクの擦れが何箇所かある。書き直しながら、迷いながら書いた手紙。
『姉さんへ。
こんな手紙を書く資格が私にあるのか、わかりません。でも書かずにはいられませんでした。
母様が間違っていたと思います。
博覧会のこと、都にも噂が届いています。姉さんが壇上で記録を並べて、査察官が「盗用の痕跡はない」と言ったこと。母様のレシピ帳の配合と、姉さんの薬草茶が全く違うこと。
私は知っていました。姉さんがあの畑で一人で始めたことを。母様が「家の財産だ」と言ったものが、本当は姉さんのお母様の──私にとっては会ったこともない方の──大切なものだったことを。
でも私には何もできませんでした。何もしませんでした。母様の言う通りにしていれば、社交界で居場所がもらえると思っていました。
今、その居場所がなくなりかけています。
自業自得です。わかっています。
でも──姉さんが正しかったことだけは、言いたかったのです。
ごめんなさい。
ティナ』
手紙を、膝の上に置いた。
しばらく動けなかった。
怒りはなかった。赦しも、まだない。ただ──十六歳の女の子が、震える字で書いたこの手紙の重さが、手のひらに残っている。
(「母様が間違っていた」──それを、書くのに、どれだけの勇気がいっただろう)
マリエッタの娘が。マリエッタの指示で「かわいそうな妹」を演じていた子が。社交界の居場所と引き換えに姉を見捨てた子が。
初めて、自分の言葉を書いた。
返事は──今は書けない。何を書けばいいのかわからない。怒ればいいのか、慰めればいいのか、それとも何も言わないのがいいのか。
手紙を机の引き出しにしまった。フィオナの書簡の隣に。
蝋燭の灯りが窓から漏れているだろう。この灯りが、丘から見えるのだと──。
(……今夜は、見ているだろうか)
見ていないかもしれない。怒って──いや、怒ってはいないのかもしれない。あの人は怒らない。ただ引くだけだ。私が「自分でやる」と言ったから、その意思を尊重して、距離を取っている。
あの時もそうだった。離籍の書類を勝手に調べたと怒った私に、「出過ぎた真似をした」と言って三日間来なかった。でも情報はオスカー経由で届けてくれた。
引いただけ。見限ったのではなく。
(──わかっている。わかっているのに)
窓の外を見た。
丘の稜線。暗い空に、星が出始めている。
明日は博覧会の最終日。式典がある。
レンも──いるだろう。領主として。
その時に、何か──何を言えばいいのか。わからない。
ノートを開いた。今日の記録を書く。ゴードンの敗北。ティナの手紙。冷めたお茶。
全部、事実だけを書く。感情は書かない。
──書けないだけだ。
今夜は、記録の行間が少し広い。




