第7話 この子は、盗んだのです
「この子は、私たちの家の財産を盗んだのです」
マリエッタの声が、博覧会の会場に響いた。
公開討論の壇上。辺境一帯から集まった人々の前に、マリエッタが立っている。深い紫のドレス。銀の髪飾り。そして右手に──母の調合レシピ帳。
あの革の表紙。あのインクの染み。幼い頃、母の膝の上でページをめくった記憶が、一瞬だけ鮮明に蘇って──消えた。
「このレシピ帳は、ヘルツ男爵家が代々管理してきた家の財産です。サヤは幼い頃にこの帳面を閲覧し、配合を暗記した上で──現在の薬草茶に転用しております」
声は滑らかだった。社交会で鍛えた、よく通る声。会場の隅まで届いている。辺境の栽培者も、都の商人も、ギルドの関係者も──全員が、壇上のマリエッタを見ていた。
盗んだ。
公開の場で、その言葉を使った。
胸の奥が、焼けるように熱い。怒りだ。──でも、怒りだけじゃない。悲しい。母の手帳を掲げて「家の財産」と呼ぶこの人の手が、母の手帳に触れていることが、ただ悲しかった。
(──落ち着け)
壇の袖で立っていた。出番を待つ側の席。手のひらに爪が食い込んでいる。
視線を感じた。
横。壇の反対側の袖に──レンがいた。
灰色の目が、こちらを見ている。表情は動かない。でも体が──半歩、前に出ていた。壇上に出ようとしている。審査員として、あるいは領主として、何かを言おうとしている。
目が、合った。
私は、首を振った。
小さく。一度だけ。
レンの足が、止まった。
「──自分でやります」
声に出していた。壇の袖で、レンにだけ聞こえる声で。
レンの顎が、わずかに引かれた。あの動作。言葉を飲み込む時の、あの動作。
半歩、引いた。
元の位置に戻った。
(──ごめんなさい。でも、これは私の問題だから)
壇上に出た。
◇
マリエッタと向き合う形で、壇の反対側に立った。
会場が静まった。風が天幕を揺らす音だけが、大きく聞こえる。
鞄から栽培記録のノートを出した。それから、母の薬草図鑑。「サヤへ」と書かれた背表紙を、一瞬だけ指でなぞった。
大丈夫。全部、ここにある。
「私の薬草茶の配合は、全て栽培記録に基づいています」
声を出した。震えていないか確認する。──震えていなかった。
「この畑を始めた日から、毎日つけてきた記録です。火根草と赤蔓花の組み合わせは、畑に自生していた植物から独自に開発しました。抽出温度、乾燥条件、魔力含有率の管理方法──全て、この記録の中にあります」
ノートを開いて、壇上の机に並べた。
「レシピ帳と比較してください」
マリエッタの目が、私のノートに向いた。唇が引き結ばれている。
ダグラスがニコを呼んだ。昨日の品質審査と同じ手順。ニコが壇上に上がり、眼鏡の奥の目でレシピ帳と栽培記録を並べた。
会場が固唾を呑んで見ている。
ニコのページをめくる音だけが響く。一行ずつ、配合を照合している。丁寧に。正確に。
沈黙が長い。
マリエッタの指が、膝の上で組み直された。一度。
ニコが顔を上げた。
「サヤ殿の配合は、レシピ帳の内容と完全に異なります」
はっきりとした声だった。
「レシピ帳の配合は都で一般に流通する薬草茶の調合に近く、火根草と赤蔓花を主体とした配合は記載されていません。サヤ殿の薬草茶は独自の開発であることは、栽培記録の実験経過からも明らかです。──査察時にも確認済みです。盗用の痕跡は認められません」
会場がざわりと揺れた。
小さな声があちこちで起きる。「全然違うのか」「記録があるなら……」「査察官がそう言うなら……」。
マリエッタの顔から、色が引いた。
微笑みは、もう保てていなかった。唇が白くなっている。目が──あの慈しみ深い目が、怯えのような何かを宿している。
そして。
「あの図鑑も家の財産だ」
声が、漏れた。
マリエッタの唇から。壇上の空気に、弾かれるように。
私が手に持っている母の薬草図鑑を見て──反射的に出た言葉だった。準備された社交の台詞ではない。動揺の中から零れ落ちた、剥き出しの言葉。
会場が静まり返った。
私は、図鑑を掲げた。
背表紙を、会場に向けた。
「この図鑑には、母が私の名前を書いています」
声は静かだった。自分でも驚くくらい。
「『サヤへ』と。──これは家の財産ではなく、母から私への個人的な贈り物です」
革の背表紙に、母の細い字。幼い頃、何度もなぞった字。「サヤへ」。たった三文字。でもこの三文字は、母が私のために遺してくれた全てだ。
沈黙が、長かった。
会場の誰も動かなかった。マリエッタも動かなかった。壇上の空気が凝固したように、重くて、冷たくて。
マリエッタの目が、図鑑の背表紙を見つめていた。「サヤへ」の三文字を。
唇が動いた。何かを言おうとして──言葉にならなかった。
ダグラスが立ち上がった。
「討論はこれまでとします。本件の事実関係は、査察官の証言と栽培記録によって明らかです」
短い。でも決定的だった。
マリエッタが壇を降りた。足取りが──いつもの、あの隙のない歩き方ではなかった。少しだけ、速い。逃げるように、ではない。崩れる前に去ろうとする人の足取り。
◇
壇を降りた。
膝が震えていた。壇上では平気だったのに、降りた瞬間に全部が来た。手が冷たい。指先が痺れている。
会場の外に出た。天幕の裏手。人のいない場所。
壁にもたれて、息を吐いた。長く。深く。
(──勝った。自分の力で)
記録が、守ってくれた。ニコが、証言してくれた。母の図鑑が、支えてくれた。
でも──。
壇の袖で、レンの足を止めた。「自分でやります」と。
あの灰色の目が、半歩引いた時の──あの動作。
(怒っただろうか)
わからない。レンの表情は読めない。引き下がってくれた。でもそれは尊重なのか、諦めなのか、怒りなのか。あの人は言葉にしない。全部を行動で示して、説明はしない。
……怒っていたら、どうしよう。
(どうしようって──何がどうしようなの。私は正しいことをした。自分の問題を自分で解決した。それだけでしょう)
それだけ、のはずなのに。胸の奥に、小さな痛みがある。石垣を直してくれた時も、布告を調べてくれた時も、辺境伯府にダグラスを連れてきてくれた時も──全部、「ついで」と言って。全部、私のために動いてくれて。
今日、その手を払った。
壁から背を離した。会場に戻ろうとして──天幕の陰から、レンの背中が見えた。
会場の出口に向かっている。オスカーと並んで歩いている。
レンの右手が──ポケットに入っていた。
何かを握っているように見えた。小さな膨らみ。布の小袋のような形。ポケットの中で、一度取り出しかけて──また戻した。
(……何だろう)
距離がある。薄暗い天幕の下。はっきりとは見えなかった。
レンとオスカーの背中が、会場の出口の向こうに消えた。
振り返らなかった。
(──今日は、仕方ない)
自分に言い聞かせた。
会場の中に戻る。ブースの前に、昨日の栽培者が立っていた。「最高点の上にまた壇上で勝ったのか」と目を丸くしている。
笑い返した。笑えたかどうかは、わからない。
ブースの机に座って、ノートを開いた。今日の討論の内容を記録する。事実だけ。マリエッタの主張。ニコの証言。配合の差異。図鑑の「サヤへ」。
ペンを走らせながら、視線の端で審査員席を見た。
ゴードンがいた。
腕を組んで、席に座ったまま。討論の間、一言も発しなかった。でも──机の上に、何か書類を広げていた。公開討論とは関係のない書類。分厚い。表紙にギルドの紋章が見える。
(……何を準備しているんだろう)
目が合いそうになって、視線を逸らした。
ゴードンの顔は読めない。ただ──負けた人の顔ではなかった。まだ何かを考えている人の顔だった。
天幕の外に、夕陽が差し込んでいる。博覧会の二日目が終わる。
勝った。公開の場で、記録と証言で、母の遺産を守った。
でも、帰り道に一人で歩いていると──壇の袖で首を振った瞬間が、何度も蘇る。
レンの足が止まった。半歩引いた。振り返らなかった。
(……明日、お茶を淹れたら──来てくれるだろうか)
わからない。
ノートを閉じて、鞄に入れた。母の図鑑を一番上に重ねた。「サヤへ」の三文字が、蝋燭の灯りに照らされている。
母の字。母の贈り物。
これだけは──誰にも渡さない。




