第4話 雨と、手と、雷
ギルド副長ゴードンの異議申立書は、辺境伯府の受付印が押されて三日目だった。
ハンナが市場から持ち帰った情報は正確だった。「ギルド非加盟者の博覧会出展は規約違反であり、辺境伯府推薦枠の運用は不当である」。──文面まで商人の間に広まっているあたり、ゴードンは意図的に情報を流したのだろう。出展が認められる前に、外堀を埋めるつもりだ。
(……しつこいけれど、有能なのは認める)
小屋の机の上に、フィオナから届いた書簡の写しが置いてある。ゴードンの異議申立書に対する、辺境伯府の公式回答。
『辺境伯領薬草博覧会は辺境伯府の主催権限に基づき開催されるものであり、出展要件は辺境伯府が定める。辺境伯府推薦枠は主催者の裁量に属し、薬師ギルドの規約の適用外である。よって、本異議申立ては却下する。 辺境伯代官 ダグラス』
短い。事務的。そして、完璧だった。
フィオナの添え書きには、こうあった。『ダグラスは法の正しい適用をする人よ。ゴードンの主張に法的根拠がない以上、結果は最初から決まっていたの。──お茶のお礼に、もう一つ。博覧会まであと三週間よ。準備、間に合うかしら?』
(──間に合わせる)
ノートを開いた。新しい薬草茶の開発記録。トーマスと一緒に始めた竈の余熱を使った乾燥法の実験データが、ページを埋めていく。
魔力含有率の変動係数は、従来の半分以下にまで下がった。あと一歩。温度管理の精度を上げれば、博覧会に出せる品質になる。
火根草を刻む。赤蔓花の花弁を量る。竈に火を入れて、温度計代わりの水を張った鍋を横に置く。水面の揺れ方で、おおよその温度がわかるようになった。前世の恒温乾燥機には遠く及ばないけれど、この世界でできる最善を尽くす。
窓の外は晴れている。春の日差しが畑に降り注いで、赤蔓花の蔓が風に揺れている。
──が。
空の端に、暗い雲が見えた。
◇
雷が鳴ったのは、畑の畝で乾燥用の花弁を広げていた時だった。
ごろ、という低い音が丘の向こうから転がってきて、次の瞬間、空が暗くなった。風が変わる。さっきまでの穏やかな春風ではない。冷たくて、湿っていて、雨の匂いがする。
「──まずい」
広げたばかりの花弁を慌てて集める。雨に濡れたら魔力含有率が変動する。せっかくの実験データが台無しだ。
「入れ」
声が飛んできた。
顔を上げる。レンが柵の向こうに立っていた。朝の定例訪問の時間だ。──空を見上げている。灰色の目が、灰色の雲を映していた。
「花弁を──」
「後でいい。来い」
短い。有無を言わさない声。
最初の雨粒が頬に落ちた。冷たい。次の瞬間、堰を切ったように降り始めた。春の雷雨。辺境の丘は遮るものがなくて、雨がまっすぐ叩きつけてくる。
花弁の籠を抱えて走った。レンが小屋の扉を開けて、私が駆け込む。レンも続く。扉が閉まった。
雨音が、一気に遠くなった。
小屋の中。蝋燭はつけていない。窓から漏れる薄暗い光だけが、室内を照らしている。
狭い。
小屋は、一人で暮らすには十分な広さだった。でも二人で立つと──。
レンがすぐ横にいる。肩と肩の間が、拳一つ分もない。
雨の匂いがする。土の匂い。それから──レンの外套の匂い。あの朝、縁台に畳んで置かれていた外套の匂いと、同じ。
(……近い)
心臓がうるさい。雨音より、自分の心臓の方がうるさい。
レンが一歩引いた。小屋の壁際に移動しようとして──机の角にぶつかった。
「……狭いな」
「すみません、一人暮らし用なので」
「謝ることではない」
短い。でも声が少しだけ──ほんの少しだけ、低い。いつもの「事実を置く声」ではなくて、喉の奥で詰まったような声。
雷が鳴った。近い。小屋の壁が震えるほどの。
レンが窓の外を見た。
「水路の確認に行く」
(──この人は正気だろうか)
「雷が鳴っている中で水路の確認は危険です」
「雷は水路に──」
「落ちます。丘の上の水路は、周囲に高い建物がありません。金属の工具を持っていたら余計に危険です。座ってください」
前世の安全管理の知識が、反射的に出た。雷雨の中で屋外作業をしてはいけない。基本中の基本だ。
レンが口を閉じた。
反論できなかったのか、それとも──反論する気がなかったのか。
竈の前の丸椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。
私は棚の前に立ったまま。小屋の中で、二人が座れる場所は限られている。縁台は外だし、寝台に並んで座るわけにもいかない。
(……立ってるしかないか)
「座れ」
「え?」
「机の椅子がある」
ああ──机の前の椅子。記録を書く時に使っている古い木の椅子。レンの丸椅子との距離は、腕を伸ばせば届くくらい。
座った。
雨音だけが、小屋を満たしている。
沈黙。
薄暗い室内で、窓から入る灰色の光がレンの横顔を照らしていた。濡れた髪が額に張りついている。雨の中を走ったせいだ。いつもは整えられている前髪が乱れて、額が見えている。
(──額、広い。いつも前髪で隠れてるから、知らなかった)
何を見ているんだ、私は。
視線を逸らした。窓の外。雨が窓硝子を叩いている。灰色の空。畑の薬草が雨に打たれて揺れている。赤蔓花の蔓が水を吸って、重そうに垂れ下がっている。
「……花弁、大丈夫か」
レンの声。
「途中まで回収しました。残りは──雨が止んでから確認します」
「そうか」
沈黙。
雷が遠ざかり始めた。でも雨はまだ強い。小屋の屋根を叩く音が、こん、こん、こん、と一定のリズムを刻んでいる。
レンが丸椅子の上で姿勢を正した。背筋が伸びている。膝の上に手を置いている。右手が──。
ふと、その右手が動いた。
膝の上から、少しだけ。こちらの方へ。
私の手は、机の上にある。ノートの横。指が、ペンの軸に触れている。レンの右手との距離は──腕を伸ばせば届くくらい。
レンの指先が、机の端に向かって伸びる。ゆっくりと。無表情のまま。目は窓の外を見ている。でも手だけが──。
雷が、落ちた。
近い。ものすごく近い。小屋の壁が震えて、窓硝子がびりびり鳴った。
レンの手が止まった。
指が、机の端の上で静止している。私の手まで、あと数センチ。
間。
レンが手を引いた。膝の上に戻す。何事もなかったかのように。
(──今、何を)
何か取ろうとした? 机の上に何かあった? ──いや、ない。ノートとペンと、乾燥記録の紙が一枚。取るようなものは何もない。
(花弁? 前みたいに、何か髪についてた?)
手で髪を確かめた。何もついていない。
(……じゃあ、何を?)
雨音が、少しずつ弱くなっていた。
遠くで、雷がもう一度鳴った。今度は遠い。去っていく音。
窓の外が、ほんの少しだけ明るくなった。
「……止んだか」
レンが立ち上がった。声はいつも通り。短くて、平坦で、何の感情もない──ように聞こえる声。
「ええ。──お茶、淹れましょうか」
「いや。戻る。オスカーが待っている」
扉を開けた。雨上がりの空気が、湿った土の匂いを連れて小屋に入ってきた。畑が濡れて光っている。水路の水かさが増して、音が大きくなっている。
レンが一歩、外に出た。
振り返らなかった。いつもは──一度だけ振り返るのに。
坂を上がっていく背中。濡れた外套が肩に張りついている。
(……今の、何だったんだろう)
考えても、わからなかった。
わからないから、考えるのをやめた。やめたことにした。
◇
雨上がりの畑で花弁の被害を確認していたら、ハンナが坂を上がってきた。
「サヤちゃん、雷すごかったわねえ。──あ、それとね」
ハンナが柵に肘をついた。噂話の顔だ。
「市場で聞いたんだけど。男爵夫人が博覧会に来るらしいのよ」
「……マリエッタが」
「しかもね、『特別な証拠』を持ってくるんだって。何かは知らないけど、あんたの薬草に関する決定的な証拠だって、都から来た商人が言ってたわ」
特別な証拠。
辺境伯府での審理は、記録で退けた。レシピ帳の不正使用は否定された。──なのに、まだ来る。今度は「特別な証拠」を持って。
(……何を持ってくるつもりだろう)
考えても、わからない。レシピ帳は審理で否定された。畑の権利も法的に確定している。他に何がある。
「大丈夫なの?」
「……わかりません。でも、準備はします」
小屋に戻って、ノートを開いた。雨で中断していた乾燥実験の続き。花弁の被害状況の記録。博覧会までの作業計画の修正。
やるべきことを、やる。
マリエッタが何を持ってこようと、私の薬草は私の記録から生まれたものだ。それだけは揺るがない。
ペンを走らせる。
窓の外は、雨上がりの夕焼けに染まっていた。水路の水かさがまだ高くて、せせらぎが大きく聞こえる。赤蔓花の蔓が水滴を弾いて、夕陽の中できらきら光っている。
──机の端に、目がいった。
レンの指が伸びてきた場所。あと数センチで、私の手に届いた場所。
何もない。何の痕跡も残っていない。雷が落ちて、手が止まって、それだけ。
でも、あの沈黙の温度が──雨音と、近い距離と、伸びかけた指先の気配が──まだ、この小屋の空気の中に残っている気がした。
(……気のせい)
ノートに向き直る。
特別な証拠。博覧会。ゴードン。マリエッタ。──全部、来る。
でも今は、この薬草茶を仕上げることだけを考える。
机の端に触れた。何もない、冷たい木の表面。
──気のせいだ。たぶん。




