第3話 風じゃないでしょ
「博覧会に、出てみない?」
辺境伯夫人は、お茶を片手にさらりと言った。
フィオナが畑を訪ねてきたのは、辺境伯府での審理から五日後の朝だった。前触れなく。馬車から降りて、侍女を連れて、まるで散歩のついでのように柵をくぐって──縁台に腰を下ろした。
「薬草博覧会よ。辺境伯領の。年に一度、うちの領で開催していてね。薬草の品質評価と技術交流が目的なの」
「……存じています。でも、あれはギルド加盟の薬師が出展するものでは」
「普通はそうね。でも、辺境伯府推薦枠というのがあるの」
フィオナがお茶を一口含んで、目を細めた。
「辺境伯府の主催権限に基づく推薦よ。ギルドの加盟は出展要件に含まれない。──先日、ニコの正式な査察報告書を辺境伯府で確認したわ。あなたの品質管理は、ギルドの基準を上回っている。推薦の根拠としては十分」
フィオナの声は軽い。お茶の感想を言うのと同じトーンで、博覧会出展の話をしている。でも目は笑っていなかった。社交の場で情報を操る人の目だ。
(──この人は、私のためだけに動いているわけじゃない)
わかっている。辺境伯夫人としての思惑がある。ギルド外の優秀な薬草栽培者を博覧会に送り込むことで、ゴードンの独占に風穴を開けたいのだろう。利害の一致。それでいい。
「ありがとうございます。──出ます」
即答していた。
フィオナの眉が、ほんのわずかに上がった。
「あら。考える時間はいらないの?」
「品質の記録はあります。実績もあります。足りないのは、公の場での評価だけです」
言いながら、自分の声が腹の底から出ているのを感じた。辺境伯府の審理で、記録が嘘を退けた。あの日から──守るだけでは足りないと、思い始めていた。
守るのではなく、見せる。この薬草が何者であるかを、自分の足で立って証明する。
「……いい顔をするわね。ニコが興奮した理由がまた一つ増えたわ」
フィオナが笑って、お茶を飲み干した。
◇
フィオナが帰って一刻もしないうちに、別の来客があった。
「サヤ殿! お久しぶりです!」
坂を駆け上がってきたのは、亜麻色の髪を後ろで束ねた青年。革の鞄を肩から提げて、息を切らしている。──トーマスだ。辺境伯家の薬師。以前、栽培記録を見に来た時のきらきらした目が、今日はさらに輝いている。
「ニコさんから聞きました、博覧会に出展されると! ──あの、もしよろしければ、新しい薬草茶の開発にご協力させていただけませんか」
(……もう届いてるの、その話。早い)
辺境の情報伝達速度を、私はまだ甘く見ているらしい。
「ニコさんから? フィオナ様が帰られたのは、ほんの──」
「辺境伯夫人が出発される前に、ニコさんに書簡を出されたそうで。ニコさんが朝一番で僕に……あの、迷惑でしたか」
「いいえ。助かります」
助かる、は本心だった。博覧会に出すなら、今の薬草茶をさらに磨く必要がある。特に──赤蔓花の魔力含有率の安定化。これが課題だった。
畑の畝にしゃがみ込んで、トーマスに赤蔓花の乾燥サンプルを見せた。
「日陰で三日干しが基本ですが、天候で魔力含有率がばらつくんです。雨天が続くと低下して、晴天が続きすぎると今度は過剰になる。品質が安定しない」
「なるほど……乾燥の初期段階で温度を一定にできれば、魔力の散逸を抑えられるかもしれません。小屋の中で竈の余熱を使うとか」
「竈の余熱──」
(──それ、前世の恒温乾燥機の簡易版だ)
頭の中で、前世の製薬工場の設備と、目の前の竈が重なった。温度を一定に保つことで品質を安定させる。原理は同じだ。
「やりましょう。竈の温度を記録しながら、乾燥日数と魔力含有率の相関を──」
夢中だった。
畝の端にしゃがみ込んで、二人で赤蔓花の葉をめくりながら議論する。トーマスの質問が的確で、答えていると前世の勉強会のテンションが出てしまう。早口になる。手振りが増える。ノートに図を描いて説明して──。
「この温度帯で六時間を維持できれば、魔力含有率の変動係数を半分以下に──」
「サヤ殿、それは画期的です! 従来の乾燥法では考えもしなかった──」
「──失礼」
声が、後ろから来た。
反射で振り返る。
レンが柵の手前に立っていた。
いつもの灰色の目。いつもの無表情。──なのに、空気がほんの少し硬い。
「……客か」
短い。硬い。前にも一度、同じ声を聞いた。トーマスが初めて畑を訪ねた日。あの時も、レンは同じ二文字を言って、すぐに帰ろうとした。
「アシュフォード卿。トーマスさんと博覧会に向けた新しい乾燥法の研究を──」
「トーマスです。お久しぶりです、アシュフォード卿」
トーマスが立ち上がって頭を下げた。レンは「ああ」とだけ答えた。視線がトーマスからサヤの畑に移る。いつものパターン。──でも今日は、視線の移り方が速い。トーマスの顔をほとんど見ていない。
間。
「水路の確認は済んだ。失礼する」
(──来て三十秒で帰ろうとしている)
水路の確認なんて、していない。柵の手前から一歩も中に入っていない。
「あの──お茶、淹れますけど」
レンの足が止まった。
背中が見えている。肩の線が、少しだけ硬い。
「……時間がある」
振り返った。
三人分のお茶を淹れた。火根草と赤蔓花のブレンド。温度は八十度。器を三つ、縁台に並べる。
トーマスが嬉しそうに器を受け取って、赤蔓花の香りについて語り始めた。「この花弁の甘い香気成分は、乾燥温度が六十度を超えると──」
私が答える。「ええ、だから低温で長時間──」
レンは、黙っていた。
器を両手で持って、お茶をゆっくりと飲んでいる。いつもなら一口ごとに畑を見るのに、今日は器の中ばかり見ている。
トーマスが話を振った。「アシュフォード卿は、薬草にご関心がおありですか?」
「……領地の医療に必要な範囲で」
短い。必要最小限。それ以上の言葉が出てこない──というより、出す気がないような声。
(忙しいのかな。領主の仕事が立て込んでるのかもしれない)
お茶を飲み終えたレンが立ち上がった。トーマスに一言「失礼する」と言って、柵に向かう。
その時だった。
「あ──サヤ殿、髪に」
トーマスが指さした。私の髪に、赤蔓花の花弁がひとひら、ついている。さっき畝にしゃがみ込んでいた時に落ちたのだろう。手を伸ばして取ろうとした──。
指が、先に来た。
レンの指だった。
いつ戻ってきたのかわからない。柵に向かっていたはずの人が、いつの間にか私の真横にいて──花弁を、無言でつまんだ。
指が、耳に触れた。
花弁は耳の上あたりの髪についていたらしい。レンの指先が髪を掠めて、耳の縁をなぞるように、花弁を取った。
──動けなかった。
心臓が、一拍飛んだ。いや、三拍くらい飛んだかもしれない。耳の先から首筋まで、触れた場所を中心に熱が広がっていく。指先の温度。硬い指。かすかな力加減。
レンも、止まっていた。
花弁をつまんだ指が、空中で静止している。灰色の目が、近い。こんなに近くでこの目を見たのは──。
「風で……」
レンの声が、掠れた。
(風じゃないでしょ)
心の中で叫んだ。
(……いや、風かも。風で花弁が髪についたっていう意味? それとも、取ったのが風みたいに自然だったっていう? いやどっちでもいいから耳に触らないで心臓がうるさい)
「……ありがとうございます」
かろうじて声を出した。たぶん、裏返っていた。
レンが一歩引いた。花弁を指先で弾いて、風に飛ばした。赤い花弁が春の空に舞い上がって、石垣の向こうに消えていく。
「……失礼する」
今度こそ、柵を越えて帰っていった。速い。いつもより明らかに速い。背中が硬い。耳が──。
(……耳、赤くない? いや、逆光で見えない。見えないならいい。見えたら困る。何が困るのかわからないけど困る)
トーマスが、ぽかんとした顔でレンの背中を見送っていた。
「……あの、アシュフォード卿は、いつもああいう──」
「ええと。忙しい方なので」
「はあ……」
トーマスは釈然としない顔だったけれど、それ以上は聞かなかった。
私も聞かないことにした。何を聞けばいいのかもわからないし、聞いたら何かが変わってしまいそうで怖かった。
(──乾燥法の研究。集中しなさい、私)
トーマスと作業に戻った。赤蔓花の花弁を量って、竈の温度を記録して。ノートにペンを走らせながら、耳の奥にまだ指の感触が残っていることに気づかないふりをした。
◇
トーマスが帰った後、小屋の机に向かっていたら、柵の外に使いの者が来た。ギルドの紋章入りの封筒。──ニコからだ。
封を切る。
『サヤ殿。博覧会への出展、心よりお喜び申し上げます。一点、お知らせがございます。博覧会の審査員にギルド代表としてゴードン副長が参加することが決定いたしました。審査は辺境伯代官、ギルド代表、領主代表の三者合議です。品質に自信をお持ちであれば問題はありませんが、念のためお伝えいたします。 ──ニコ』
手紙を置いた。
ゴードン。
あの恰幅のいい男。「加入か廃業か」と言い放った声。ギルドの紋章が金糸で光る外套。流通規制も空振りに終わり、辺境伯府の布告で退けられ──それでもまだ、舞台を変えて立ちはだかろうとしている。
(──しつこい人だ)
でも、ゴードンが審査員にいるということは、品質で文句のつけようのないものを出さなければならないということだ。曖昧な出来では、規則を盾に潰される。
窓の外を見た。
畑の畝に、赤蔓花が風に揺れている。トーマスと議論した新しい乾燥法。竈の余熱で温度を一定に保つ方法。あれがうまくいけば、魔力含有率を安定させた新しい薬草茶が作れる。
ゴードンが何人いようと、品質の事実は覆せない。
ノートを開いた。
今日の実験結果を記録する。乾燥温度と魔力含有率の相関データ。トーマスの提案した初期段階の温度管理。まだ仮説の段階だけれど、手応えはある。
(──博覧会まで、あと何日だろう。間に合わせる。間に合わせなきゃ)
ペンが走る。記録が増えていく。
ふと、ノートの端に赤蔓花の花弁が一枚、挟まっていた。さっき畝で作業していた時に紛れ込んだのだろう。
──指の感触が、蘇った。耳の縁をなぞるように、花弁を取ったあの動作。「風で……」。
(……風じゃない。絶対に風じゃない)
花弁をノートに挟んだまま、ページを閉じた。
手紙の最後の一行が、机の上で蝋燭の灯りに照らされている。
『ゴードン副長が参加することが決定いたしました。』
不安は、ある。
でも──新しい薬草茶が、もう芽を出し始めている。




