第1話 水路の音が変わった朝
水路の音が変わった、と思った。
──雪解け水だ。春が、来ている。
しゃがみ込んで畝に顔を近づけると、火根草の新芽が土を押し上げている。冬を越した根が太い。指で土を確かめる──湿り気は十分、温度も悪くない。
ノートを広げて、今朝の記録を書き始めた。
発芽率、九割二分。赤蔓花の蔓の伸長速度、前週比で一・三倍。畝ごとの土壌状態──。ペンを走らせる手が、もう迷わない。半年前、虫食いの紙に震える字で書いた最初の一行が嘘みたいだ。
(……前世の自分が見たら泣くわね。調剤カウンターで腰を痛めてた人間が、毎朝しゃがんで土を触ってるんだから)
アシュフォード領への供給も安定している。レンの領地の村々から、薬草茶の追加依頼が毎週届くようになった。生産量はぎりぎりだけれど、品質を落とさない範囲で回せている。記録があるから、どこまで増やせるか判断できる。
風が丘を渡る。石垣──あの白い石垣を越えて、畑の葉を揺らしていく。
朝が、気持ちいい。
「サヤちゃーん!」
坂の下から、ハンナの声。息を切らしている。この人は毎回走って来るけれど、冷え性が治った足で丘を駆け上がるのだから、薬草茶の効果は本物だ。
「おはようございます、ハンナさん」
「おはよう、じゃないわよ!」
畑の柵に腕をかけて、ハンナがぜえぜえ言いながら口を開いた。
「今朝ね、市場であっちの村の薬師さんに会ったの。──ギルド副長のゴードンが、加盟薬師全員に通達を出したって」
手が止まった。
「……通達」
「サヤちゃんの薬草を取り扱うな、って。ギルドに入ってる薬師は、あんたの畑の薬草を仕入れちゃいけないんだって」
ペンを膝の上に置いた。
ハンナの顔は深刻だ。でも──。
(落ち着いて考えろ)
前世の品質管理会議で、不適合報告を受けた時の手順を思い出す。まず事実の整理。次に影響範囲の特定。それから対策。慌てるのは最後でいい。
「ハンナさん、一つ確認していいですか。その通達は、ギルド加盟の薬師に対するものですよね」
「え? うん、そう。加盟薬師に」
「私はギルドに加盟していません。そして、アシュフォード領への供給はアシュフォード卿の領主認可で行っています。辺境伯府の布告第七条に基づいて」
ハンナが目をぱちくりさせた。
「ギルドの通達は、ギルド加盟薬師の仕入れ先を制限するもの。でも私の薬草は領主認可で直接供給しているので、ギルドの通達の対象外です。今の取引には──影響しません」
言いながら、自分の声が落ち着いているのがわかった。怖くないわけじゃない。ゴードンが動いたということは、まだ諦めていないということだ。でも、今の契約構造は盾になる。あの布告を調べて持ってきてくれた人が、すでに備えを作っていた。
「……なんだ。じゃあ大丈夫なの?」
「今は。ただ、この先アシュフォード領以外に販路を広げようとする時は制限がかかります。将来の話ですけど」
「ふうん……ゴードンってやつ、しつこいわねえ」
ハンナが腰に手を当てて、不満そうに口を尖らせた。
「しつこいのは、それだけ私の薬草が邪魔だってことです。──悪い意味じゃなく」
「あんた、そういうとこ肝が据わってるわよね」
肝が据わっているのではなく、記録があるだけだ。品質の証拠と、法的な根拠。その二つがある限り、感情では負けない。
(──前世の監査対応と同じ。書類があれば怖くない。書類がなければ全部怖い)
ハンナが帰った後、ノートに追記した。「ギルド副長ゴードン、加盟薬師へサヤの薬草取扱い禁止の通達。既存の領主認可契約には影響なし。将来の販路拡大には制約あり」
事実だけを書く。感情は入れない。
記録は、武器だ。
◇
朝の光が少し傾いた頃、丘の稜線に影が見えた。
長い影。背筋の伸びたシルエット。腰に剣──。
(……正確だなあ、この人)
レンが坂を下りてくる。朝と夕方。毎日。あの日、「毎日飲みに来てもいいですか」と言ってから、本当に毎日来ている。一日も欠かさず。律儀を通り越して、もはや水路と同じくらい確実なインフラだ。
お茶を淹れる。二杯分。火根草と赤蔓花のブレンド。温度は八十度。もう体が覚えている。
「おはようございます」
「……ああ」
縁台に並んで座る。器を差し出す。レンが受け取る。指が──今日は触れなかった。少しだけ、残念な気がした。
(……何が残念なの。お茶の受け渡しに毎回指が触れる方がおかしいでしょ)
レンが一口飲んで、畑を見渡した。灰色の目が、畝を一つずつ辿っていく。
「ゴードンの通達のこと、聞きましたか」
「ああ。──影響は」
「今の契約には、ありません。布告第七条がありますから」
レンの顎が、わずかに引かれた。確認の頷き。
間。
「──博覧会の出展規則を確認した」
唐突だった。
「……博覧会?」
「辺境伯領の薬草博覧会。年に一度、辺境伯府が主催する。薬草の品質評価と技術交流が目的だ」
知っている。フィオナが以前、畑を訪ねた時にちらりと話題にしていた。辺境一帯の薬草関係者が集まる催しで、出展すれば品質の公的評価が得られる。
でも──なぜ、レンがそれを。
「出展規則は辺境伯府の主催権限に基づく。ギルド加盟の有無は出展要件に含まれていない」
レンの声は淡々としている。いつもの、事実を置いていくだけの口調。
(──領地の医療に関わることだから、調べたのかな。薬草の品質が公的に評価されれば、領民への供給の信頼性が上がる。領主として当然の判断)
「ありがとうございます。博覧会のこと、調べてくださったんですね」
「水路の管理規定を確認している時に、関連規則が目に入った」
水路の管理規定から博覧会の出展規則が目に入る。
(──入らないと思うんだけど)
レンの横顔を見た。表情は動かない。灰色の目が、畑の奥の赤蔓花を見ている。
ふと、視線の端に何かが映った。レンの後ろ──丘の麓でオスカーが待機している。手帳を開いて何か確認しているらしく、ページを指で押さえている。見慣れた革装丁の手帳。
それ以上は気にしなかった。オスカーはいつも何か書いている人だ。
「博覧会。──出てみようかな」
口に出してから、自分の声に少し驚いた。考えていたわけじゃない。でも、レンの言葉を聞いた瞬間に、すとんと腑に落ちたのだ。
品質の記録がある。実績がある。ギルドの査察もクリアしている。あと足りないのは、公の場での評価だ。
レンが器をゆっくりと口元に運んだ。一口。間。
「……悪くない」
お茶の感想なのか、博覧会の話なのか判別できない一言。でも──声が、ほんのわずかに柔らかかった。
お茶の残りを飲み干して、レンが立ち上がった。
「明日も来る」
「知ってます」
言ってから、少し恥ずかしくなった。知ってる、って何。毎日来る人に「知ってます」は当たり前すぎるでしょう。
レンの足が一瞬止まって──何も言わずに歩き出した。
坂を上がっていくレンに、麓でオスカーが合流する。二人が並んで歩き出す時、オスカーが手帳を閉じるのが見えた。
二つの影が稜線の向こうに消えた。
空の器を二つ重ねて、小屋に戻る。
◇
夕方。
畑仕事を終えて小屋の机に向かっていた時、柵の外に馬の蹄の音がした。
出てみると、辺境伯家の紋章をつけた使いの者が一人、手紙を差し出してきた。封蝋にフィオナの個人紋。
「辺境伯夫人より、サヤ殿へ」
受け取って、小屋に戻った。
封を切る。
フィオナの筆跡は流れるように美しい。社交の場で鍛えた文字。中身は──美しくなかった。
『サヤさんへ。お元気でいらっしゃいますか。先日の社交の席で、気になる話を耳にしましたので、取り急ぎお知らせいたします。ヘルツ男爵夫人が、あなたのお母様の調合レシピ帳について「不正使用」を訴える準備をしているようです。詳細はまだ掴めておりませんが、辺境伯府に何らかの申し立てを行う意向があるとのこと。くれぐれもお気をつけて。 ──フィオナ』
手紙を、机の上に置いた。
指先が冷たい。
調合レシピ帳。
母が夜ごと書き溜めていた、あの手帳。マリエッタが「この家の財産」と言って取り上げた、あの手帳。──マリエッタの手元にある、あの手帳。
「不正使用」。
私の薬草茶が、母のレシピ帳を盗み写して作られたものだ、と主張する気だろうか。
(──馬鹿にしないで)
胸の奥に、熱いものが込み上げた。怒り、だと思う。
私の薬草茶は、この畑の土壌と自生植物と、毎日の実験と記録から生まれたものだ。母のレシピ帳は一度も開いていない。開けない。マリエッタが持っているのだから。
母の薬草図鑑はある。「サヤへ」と名前が書かれた、あの図鑑。でもそれは薬草の基礎知識を記したもので、配合のレシピとは全くの別物だ。
立ち上がって、棚から栽培記録のノートを取り出した。
最初の一ページから、今日の記録まで。全ての配合、全ての実験結果、全ての品質検査が、ここにある。
母のレシピ帳と私の薬草茶の配合が異なることは、このノートを見れば一目でわかる。火根草と赤蔓花の組み合わせは私が独自に開発したもの。前世の薬理学と、この畑の植物と、図鑑の基礎知識を組み合わせた──私だけの配合。
(記録がある。大丈夫。記録がある)
ノートを胸に抱えるようにして、深く息を吐いた。
ゴードンは流通から。マリエッタは権利から。二つの方向から、同時に来る。
でも──。
棚に目をやった。ノートが十冊以上、積み上がっている。半年分の記録。一日も欠かさず書き続けた、私の日々そのもの。
これが、私の武器だ。
手紙を畳んで、机の引き出しにしまった。
蝋燭に火を入れる。窓から漏れる灯り。この灯りが丘から見える、とあの人は言っていた。
今夜もたぶん、見えている。
──ゴードンの通達は空振りだった。マリエッタの「不正使用」も、記録が否定してくれる。
怖くないわけじゃない。
でも、記録がある。法的な盾がある。そして──。
夕暮れの丘に目をやった。稜線に、人影はもうない。でも明日の朝、またあの影が坂を下りてくる。毎日。お茶を飲みに。
ノートを開いて、ペンを取った。
フィオナからの手紙の内容を、事実だけ書き留める。「ヘルツ男爵夫人、調合レシピ帳の不正使用を主張する準備あり。フィオナ経由の情報」
感情は書かない。記録は、事実だけでいい。
──感情なら、明日の朝、お茶の湯気の向こうに置いておく。




