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継母に追い出された令嬢は薬草畑でのんびり暮らすことにした  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第1話 あなたの部屋は妹に必要なの


「あなたの部屋は、妹に必要なの」


 一瞬、意味がわからなかった。


 廊下に立ち尽くす私の前に、継母マリエッタが微笑んでいる。穏やかで、慈しみ深い、社交の場で皆が褒めそやす「よくできた母親」の笑み。──その足元に、私の衣類と本が入った革鞄が二つ、無造作に転がっていた。


 もう、まとめてある。


「ティナも来年には社交界にデビューするでしょう? あの子にはね、日当たりのいいお部屋が必要なの。あなたも姉として、わかってくれるわよね?」


 背後に、義妹のティナが控えているのが見えた。十六歳の彼女は俯いて、私とは目を合わせない。唇を噛んでいるのか、それとも笑いを堪えているのか──この距離ではわからなかった。


 わかったのは、一つだけ。


 これは「部屋の交換」の話じゃない。


「荷物は最低限まとめておいたわ。必要なものがあれば持っていっていいけれど、お母様の調合レシピ帳はリビングの書棚に移したから。あれはこの家の財産ですもの」


 この家の財産。


 母が夜ごと書き溜めていた、あの手帳。インクの染みがついた革の表紙を、幼い私の指がなぞった記憶が一瞬よぎって──消えた。


 代わりに、別のものが頭の中に流れ込んできた。


 白い蛍光灯。消毒液のにおい。処方箋が積み上がったカウンター。「佐山さん、六番の患者さん服薬指導お願いします」という同僚の声。調剤薬局で六年間、立ちっぱなしで棚と処方箋の間を往復し続けた、別の人生。


(……ああ、そうだった)


 三十二歳。過労で倒れて、そのまま目が覚めなかった。


 次に目を開けたら、異国の言葉を喋る赤ん坊になっていた。それが十八年前。前世の記憶は幼い頃からずっとあったけれど、こんなふうに鮮明に蘇ったのは初めてだ。


 蛍光灯の白い光が、目の前のマリエッタの微笑みに上書きされて消える。


 私は、息を吐いた。


「──わかりました」


 マリエッタが、ほんのわずかに目を見開いた。


 泣くと思っていたのだろう。取り乱すと。あるいは父に泣きつくと。でも残念ながら、私には三十年分の記憶がある。一人暮らしは得意だ。前世で六年やった。節約も、自炊も、真夜中に一人でいることも。


「荷物は自分でまとめ直します。少しだけ、時間をいただけますか」


「……ええ、もちろん。好きにしなさい」


 マリエッタの声に、かすかな戸惑いが混じった。台本通りにいかなかった女優のような、微妙な間。


 構わない。


 踵を返して、自分の──もう自分のではない部屋に入った。


  ◇


 部屋は既に半分以上片付けられていた。


 本棚はがらんとして、机の上には何も残っていない。寝台のシーツまで替えられている。念が入っている。昨日今日で思いついたことではないのだろう。


(……いつから準備していたんだろう。一週間? 一ヶ月?)


 壁に掛かっていた母の刺繍も外されていた。代わりに、ティナの好みそうな淡い花柄のカーテンが窓辺に畳んで置かれている。


 用意がよすぎて、逆に清々しい。


 私は廊下に出された革鞄を部屋に引き入れ、中を確かめた。衣類が数着。冬物は入っていない。下着は最低限。──選別が実に的確で、苛立つよりも感心してしまう。マリエッタは家政全般を任されているだけあって、実務能力は本物だ。


 感心している場合じゃなかった。


 本棚の脇に膝をつく。棚の奥の、板と壁の隙間に手を入れた。指先に革の角が触れる。


 あった。


 母の薬草図鑑。


 分厚い革装丁に、母の細い字で「サヤへ」と書かれた背表紙。調合レシピ帳は「家の財産」として取り上げられたけれど、この図鑑は本棚の奥に隠してあった。幼い頃の私が「秘密の場所」と呼んでいた隙間に。マリエッタはこれを見つけられなかったらしい。


(母さん、ありがとう)


 図鑑を鞄に入れる。着替えを数着。それで持ち出せるものは全部だった。


 部屋を出る前に、一度だけ父の書斎の扉を見た。


 閉まっている。


 中に人の気配がある。いつもそうだ。マリエッタが何かを決めるたびに、父は書斎にこもって出てこない。反対もしなければ賛成もしない。ただ、いない。


 ……扉の前で立ち止まりかけた足を、自分で動かした。


 待っても、あの扉は開かない。知っている。ずっと前から。


 玄関を出る時、マリエッタがリビングの入口に立っていた。


「お母様の畑のこと、覚えているかしら。おばあ様が遺したっていう、辺境の。あんな荒れ地、どうしようもないと思うけれど」


「ええ。覚えています」


「そう。──もうあなたは、この家の人間じゃないのよ。わかるわね?」


 感情的な突き放し、だと思った。これ以上この家に未練を持つな、という念押し。


 私は黙って頭を下げた。


 秋の光が差し込む玄関の扉を開けて、ヘルツ男爵邸を出た。


  ◇


 母の形見の髪飾りを、町の装飾品商に売った。


 銀細工に小さな青石が嵌め込まれた、母がいつも身につけていたもの。値は馬車代と少しの食料を買えるぎりぎりの額だった。装飾品商の男は「もう少し出せますが」と言ったけれど、それ以上は交渉する気になれなかった。


 手のひらから銀の重みが消えた時、初めて目の奥がじわりと熱くなった。


(──泣かない。ここでは、泣かない)


 乗り合いの馬車に揺られて、辺境に向かう。母から何度か聞いた、祖母の薬草畑。母方の祖母が私に直接遺してくれた場所。男爵家の所有ではなく、祖母の個人的な──はずだった。少なくとも母はそう言っていた。


 馬車の御者は愛想のいい中年の男で、辺境の話を色々と聞かせてくれた。


「お嬢さん、この先はアシュフォード卿の領地に近いですよ。若い領主ですがね、領民思いで評判がいい。先代が亡くなって、十九で家督を継いだとか」


「そうですか」


「この辺りは薬師もいなくてね。病人が出ると、都から高い薬を買うか、治癒魔法が使える者に頼むかしかない。治癒魔法なんて辺境じゃ滅多に頼めませんから。若い領主さん、苦労してるらしいですよ」


 薬師がいない。


 その言葉が、妙に引っかかった。


 馬車が止まったのは、辺境の村からさらに半刻ほど歩いた丘の麓だった。


  ◇


 荒れ果てていた。


 聞いていたよりも、想像していたよりも。


 石垣は半分以上崩れ、畝の跡すら雑草に呑まれている。隅に建つ小屋は壁板が二枚外れて、屋根に苔が這っている。風が吹くたびに、どこかの蝶番がぎいぎいと鳴いた。


 祖母が亡くなってから、もう五年以上経つ。その間、誰も手を入れなかったのだろう。


 鞄を下ろして、畑の端にしゃがみ込んだ。


 土を、掬い上げる。


 指の間からさらさらとこぼれ落ちる。色は暗すぎず、粘土質でもない。匂いは……悪くない。腐葉土の層が残っている。


(──酸性寄り。水はけは悪くない。日当たりは良好。南向きの緩斜面。風通しも、石垣を直せば調整できる)


 前世の知識が、勝手に頭の中で動き始めた。


 土壌のpH。輪作の計画。種子の管理。品質を維持するための記録方法。調剤薬局で叩き込まれたGMP──製造品質管理基準の考え方。薬の品質を保つための、あの徹底した管理体系。


 鞄から薬草図鑑を取り出した。


 開く。母の筆跡が、黄ばんだ紙の上に並んでいる。この世界の薬草の名前、特性、そして──「魔力含有率」という、前世にはなかった項目。


 魔力。


 この世界の薬草には、魔力が含まれている。前世の薬理学だけでは扱いきれない未知の変数。母の図鑑には、その魔力特性が細かく記されていた。


 前世の知識と、母の図鑑。


 二つを組み合わせれば。


 風が丘を渡って、荒れた畑の雑草を揺らした。夕暮れの光が、崩れた石垣の向こうに沈んでいく。


 立ち上がって、畑を見渡した。


「……前世の経験が、こんな形で役に立つとは」


 ぽつりと声に出していた。


 笑えてくる。過労で死んだ薬剤師の知識が、異世界の荒れた薬草畑で息を吹き返そうとしている。


(まず、土壌の改良。それから雑草の除去。排水路の確認。種子は──周辺に自生しているものから集めるしかない。図鑑と照合して、安全なものから試す)


 頭の中で計画が組み上がっていく。前世の六年間が、無駄じゃなかったと思えた。三十二年で終わった人生の、最後の六年間が。


 ただ、魔力のことはわからない。図鑑に書いてあることを、自分の手で一つずつ確かめるしかない。


 小屋の扉を押し開けた。軋んだ蝶番が悲鳴を上げて、埃が舞う。


 中は思ったよりも広かった。竈と、小さな棚と、寝台。祖母が使っていた道具がそのまま残っている。壁に乾燥した薬草の束が何本か吊り下がっていて、かすかに──ほんのかすかに、薬草の香りがした。


 祖母の匂いだ、と思った。会ったことはほとんどないのに、なぜかそう感じた。


 鞄から図鑑を取り出して、棚の上に置いた。


 それから、竈に火を入れるために薪を探しに外に出た。


 暗くなるまでに、やることはいくらでもある。

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