混乱
深夜の召喚の間は、ただならぬ空気に包まれていた。黒い魔力が魔法陣から立ち上り、煙となって部屋の隅々まで広がり始めた。その煙は生き物のようにうねりながら床や壁を這い、接触するもの全てを浸食していく。
「この煙、何なんだ!」
スールが叫び、無意識に数歩後退する。その声に応じるかのように、黒い魔力が蠢き、近づく騎士の一人の身体を捕らえた。
「熱い……!身体が焼けるようだ……!」
呻き声を上げた騎士は地面に崩れ落ち、その場で激しく痙攣した後、動かなくなった。
「全員、魔力に触れるな!距離を取れ!」
ユーハンの命令が響き渡るが、黒い魔力は部屋全体を覆うように広がり、退路を塞ぐ勢いだった。湿気を帯びた空気がさらに重く、鉄が焼けるような臭いが立ち込める。
スールは倒れた騎士を見つめ、拳を握りしめた。
「団長!負傷者を運び出します!」
「だめっ!あなたも死んでしまうわ!」
ベアテがスールに警告をしたが、スールは一歩前に進む。
「このままじゃ見殺しになる……!」
スールの目に覚悟が宿り、黒い魔力の中に足を踏み入れた。しかし、その瞬間、魔力が彼の腕に絡みつき、激痛が襲った。
「うっ……熱い……!」
スールは膝をつき、その場に崩れ落ちた。
「兄貴!」
ラヴァンが駆け寄ろうとするが、ユーハンが鋭い声で制止する。
「ラヴァン、近づくな!」
「兄貴だけは助けないと……!」
制止を振り切り、ラヴァンはスールの肩を掴む。しかし、黒い魔力がラヴァンの腕に触れた瞬間、彼の身体にも熱と痛みが走った。
「熱い……胸が苦しい……!」
苦しげに呻きながら、ラヴァンもその場に倒れ込む。兄弟は共に魔力に飲み込まれ、静かに動かなくなった。
ユーハンは震える手で剣を握りしめながら、スールとラヴァンの亡骸を見つめていた。
「くそっ……!」
次々と倒れる騎士たち。黒い魔力は容赦なく部屋を支配し、残された者たちを恐怖の淵へ追い込む。
「全員、退避!この部屋から出るんだ!」
ユーハンの命令に、わずかに残った騎士たちは慌てて後退を始める。しかし、出口に近づくにつれて黒い魔力はさらに激しく蠢き、出口すら脅かしていた。
ユーハンは剣を握りしめたまま、召喚陣を睨み続けるヴィルホの元へ駆け寄った。
「ヴィルホ様!これ以上は危険です!退避を!」
ユーハンが強く言い放つが、ヴィルホは冷静な声で返した。
「私はまだ見届けなければならない。この計画の成否を」
「計画だと……!」
怒りを堪えきれず、ユーハンはヴィルホの腕を掴む。
「これ以上、誰も犠牲にはさせない!」
ヴィルホは短く息を吐き、低い声で答えた。
「……わかった。だが、この責任は必ず取る」
ユーハンはヴィルホを半ば引きずるように召喚の間から連れ出し、その途中でスールとラヴァンの亡骸に目をやった。彼は静かに目を閉じ、わずかに顔を歪めた。
***
召喚の間を出た瞬間、黒い魔力の脅威が少し遠のいたように感じられた。冷たい夜風が吹き抜け、頬を撫でる。
ユーハンは立ち止まり、振り返ることなく低い声で呟いた。
「……守れなかった……」
その声は風に乗り、誰の耳にも届くことはなかった。
次第に波音が大きくなり、不気味な轟音が夜の静寂を切り裂いていく。それは、さらに大きな災厄の到来を告げる予兆のようだった。
黒い魔力に飲まれたサロ島全体に、不穏な気配が満ち始めていた。