召喚
深夜のサロ城は、月明かりも届かぬ曇天の下、不気味な静けさに包まれていた。
召喚の間には蝋燭の揺れる光が満ち、湿気を含んだ空気が重く張り詰めていた。壁に取り付けられた燭台の炎は、かすかな音を立てながら揺れ、床の魔法陣をぼんやりと照らしている。
レズリーが魔法陣の中央で跪き、呪文の冒頭を詠唱し始めると、描かれた幾何学模様が青白い光を帯び始めた。外周の古代文字がまるで生きているかのように揺らめき、その中心部にある鍵穴のモチーフが浮き上がる。
「魔力が安定しています。このまま進めます」
レズリーの冷静な声が部屋全体に響く。
ヴィルホは一歩前に進み、彼に差し出された剣を受け取った。
「ヴィルホ様、これが鍵になります」
レズリーの言葉に、ヴィルホは静かに頷いた。その表情には決意と不安が交錯している。
ユーハンは壁際から光を帯びた魔法陣を見つめながら、拳を握りしめていた。この異様な光景に、護衛としての任務以上の不安が胸中を占める。
「始めろ」
「大いなる門を開く鍵よ その輝きで時を照らせ――」
ヴィルホの短い命令が発せられると、レズリーが呪文のクライマックス部分に移った。
「――封じられし力よ 我が意に応え 世界の扉を解き放て」
詠唱が最高潮に達した瞬間、ヴィルホは剣を両手で握り、魔力が絡みつくように漂う剣先を、迷いなく魔法陣の中心に突き立てた。
剣が突き立てられると同時に、魔法陣は激しく輝き始めた。幾何学模様の線が鋭い光を放ち、部屋全体が白い光で満たされる。
「おお……美しい!」
レズリーが叫び、光の柱が部屋を貫いた。眩しすぎる光に誰も目を開けていられない中、中央の魔法陣に異国の服装をした男が浮かび上がる。
「う……あぁ……!」
その男は苦しそうに呻きながら、魔力の奔流に耐えきれず身体を震わせていた。彼の周囲には黒い煙のような魔力がまとわりつき、不安定な状態を露わにしている。
「これが……召喚された者……」
ヴィルホの声には驚きが混じり、瞳には動揺が浮かんでいた。
召喚された男は膝を突き、そのまま光の中に崩れ落ちた。次の瞬間、彼の身体から黒い煙が勢いよく噴き出し、魔法陣全体を覆い始めた。
「くっ、魔力が……暴走しおった!」
レズリーが叫び、魔法陣を安定させようと術式を試みるが、黒い魔力は止まる気配がない。魔法陣は激しく光を明滅させ、床が震え始める。
部屋の中に鉄が焼けるような、刺すような臭いが立ち込め、窓の外から冷たい風が吹き込む。
「これ以上は危険だ!止めるんだ!」
叫ぶユーハンに対し、ヴィルホは剣を握ったまま動かず、召喚陣を睨み続けている。
レズリーが再び魔法陣の補修を試みようとするが、黒い魔力が逆流し、彼の手を弾いた。ベアテは壁際に後退しながら、怯えた表情で魔法陣を見つめている。
黒い魔力は次第に獣のように蠢き、鋭い音を立てながら空間を侵食していった。一瞬、蝋燭の炎が激しく揺れ、次第に小さくなっていき、光はほとんど魔力に飲み込まれた。
「ヴィルホ様、直ちに中止を!ここを離れるべきです!」
「中止などあり得ん!この機会を逃すわけにはいかない!」
ユーハンが強く言葉を投げかけるが、ヴィルホは剣を握りしめたまま動こうとしない。
部屋の震動が一層激しくなり、壁に取り付けられた燭台が崩れ落ちる。その中でユーハンは部屋を見渡しながら、次第に大きくなる波音を耳にした。
遠くから押し寄せるその音は、サロ島全体の異変を暗示するようだった。
黒い魔力の広がる中、ユーハンは拳を握りしめたまま、瞳に浮かぶ不安を隠しきれなかった。
目の前の光景に言葉を失いながらも、彼は心の中で問うた。この術が本当に成功したとして、何を犠牲にするのか……
その問いに答える者は、誰もいなかった。