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夜明けの静寂と密談

夜明け前のストメリ湾は、穏やかな眠りに包まれていた。海面は黒い鏡のように澄んでおり、月の光が波間に揺れている。遠くから聞こえる潮騒の音が、漁村オウルの静寂を心地よく彩っていた。


村は海岸沿いに広がり、湾を取り囲むようにして建てられた木造の家々が規則的に並んでいる。家々の間を縫うように敷かれた砂利道は、夜露でしっとりと濡れていた。漁村の朝は早いとはいえ、この時間帯はまだ人々が布団の中で夢を見ている時間だった。


だが、その中で一人だけ、目を覚まし、静かに動き出した男がいた。


オーラは家の前で息を吸い込み、夜明け前のひんやりとした空気を胸いっぱいに取り込んだ。身体が目覚める感覚が心地よい。


「さて……今日も手伝うか」


彼は口元に微笑みを浮かべながら、足元に置いたランタンを手に取った。


義父が病床についてから、オーラはしばらく漁村に滞在している。義父の世話をする合間、彼はこの村の生活を支えるため、漁の手伝いを買って出ていた。


彼の足には革製のサンダルが履かれており、長年使い込まれた様子がうかがえる。足の裏には砂が貼りつき、それが彼にとっては日常の一部だった。


海岸に続く砂利道を進むと、潮の香りが強くなった。彼がランタンの揺れる光を頼りにたどり着いたのは、村人たちが船を引き上げている砂浜だった。砂の上には数隻の小さな漁船が整然と並び、その周りで漁師たちが準備を始めていた。


「おい、オーラ!」


一人の漁師が手を振りながら声をかけてきた。顔は日焼けしていて、目尻には笑い皺が刻まれている。


「お前が来ると、なんだか調子がいいんだよな」

「ただの偶然さ」


オーラは笑いながら答えた。


漁師たちは軽口を交わしながらも、手は休めない。網を整えたり、道具を船に積み込んだりする姿には、この村の生活がどれだけ海と密接に結びついているかが見て取れる。


「今日は天気も良さそうだ。いい魚が取れるだろう」


そう言った漁師の声に、他の者たちが「そうだな」と同意する。


夜が白み始め、漁師たちが徐々に動き出した。自然のリズムに従うように準備を整え、それぞれの船に向かって歩いていく。


オーラは義父から譲り受けた漁師用のナイフを腰に差し、船を押し出しながら乗り込んだ。砂浜を離れ、海に浮かぶ瞬間の感覚が好きだった。


「行くぞ!」


漁師たちの掛け声が重なり、船が一斉に波を切って進み始める。オーラの船もまた、静かに沖へと向かっていった。


船の上から振り返った彼の目に、漁村の家々が見えた。窓から漏れるかすかな明かりと、遠くで立ち上る煙は、どこか懐かしく、そして愛おしいものだった。


「また無事に戻って来られるように」


オーラは誰にともなく呟き、視線を前方に戻した。


***


エリアス城の一角にある執務室は、頑丈な石造りの壁に囲まれていた。厚い扉が外界の音を遮断し、部屋には静寂が広がっている。蝋燭の炎が机上の古文書を揺らめく光で照らし、その明滅が石壁に影を作り出していた。


執務机にはヴィルホが座っていた。薄い眉をひそめ、書物に描かれた古い魔法陣を指でなぞる。その指先には、彼の焦燥が伝わるかのような微かな震えがあった。


机の向かいには、執事であり術士でもあるレズリーが立っている。蝋燭の炎を受けた彼の顔には、冷静さと確信が宿っていた。


「……この記述が本当に正しいのか?」


ヴィルホが問いかける。その声には疑念と焦燥が混ざり合っていた。


「正確です。この術式を成功させた記録は、歴史に数例残されています。ですが、その全てが、この地を救う手段となったことは確かです」


レズリーは冷静な口調で答えた。その目には揺るぎない信念が宿っている。


ヴィルホは深く息をつき、苛立ちを隠すように机に肘をついた。


「私はこんなガド地区を立て直すために、この地を任された。だが、もともと衰退していたこの土地に、私にできることなど限られている」


彼の声には、自分自身への苛立ちと、任務に対する不満が透けていた。


「だからこそ、召喚術が必要なのです。資源や兵力を生み出し、ガド地区を復興させる手立てはこれ以外にありません」


レズリーの声には冷静さの中に熱意が込められていた。


執務室の外の廊下を、レズリーの助手であるベアテが歩いていた。彼女はレズリーに呼び出されていたが、扉の前で足を止めた。


「……召喚術……力……核を制御する……」


扉越しに漏れ聞こえる声に、彼女は足を止めた。その言葉の意味が、彼女の胸をざわつかせる。


「そんな危険な術式が、本当に行われるなんて……」


心の中で呟いた彼女は、迷いを感じながらも、扉に耳を傾ける。扉越しの議論は、より切迫した様子を帯びていた。


「だが、成功の保証もなく、犠牲を伴うような術式に頼るのは、領主として軽率ではないか?」


ヴィルホが低く呟くように問いかける。


「軽率ではありません」


レズリーは静かに言葉を続けた。


「メルツィ派の教義をご存知でしょう。知識を得る者こそが歴史を変える鍵を持つ、と」


その一言は、まるでヴィルホの胸の奥を突くような力強さを持っていた。


ヴィルホは再び古文書に目を落とすと、小さく呟いた。


「『核を制御せし者は新たな秩序を築く』……」


彼の目には、渇望と迷いが交錯する色が浮かんでいた。


「よかろう」


しばらくの沈黙の後、ヴィルホは口を開いた。


「だが、準備を徹底させる。二度とこの地に泥を塗るわけにはいかないからな」


「お任せください。すべてを計画し、安全を確保いたします」


レズリーの声には、冷たい確信が込められていた。


彼が部屋を去った後、ヴィルホは蝋燭の炎を見つめながら小さく呟いた。


「知識を得る者が歴史を変える、か……」


その声は微かに震えていたが、その瞳には迷いの影がほとんど残っていなかった。

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