流る星に願いを
下界の様子を覗くため、窓を大きく開きます。外はいつもと同じ、暗い暗い宵闇の色。至る所にきらきらと星の輝きが見えます。私の目から見てもこの光景は美しく、思わずほう、と息が漏れました。
不意に白いカーテンが揺れ、私の横から小さな火が外に飛び出しました。それは一条の光となって長く長く尾を引きながら、下界へと落ちていきます。私がこうして窓を開けると外へと零れ落ちることのある小さな火の粉たち。あの子は一体、どんな物語を見るのでしょうか。どんな願いを聞き届けるのでしょうか。
***
「あ、金曜日、晴れ予報に変わってる!」
「金曜?なんかあんの?」
気だるげに聞かれ、スマホからチラッと顔を上げた。思った通り茉由もスマホに視線を落としていた。きっと彼氏とメッセージでも送りあっているのだろう。ここ最近、喧嘩ばかりと言っていたからか楽しくはなさそうだ。
「流星群!この時期はどうしても雨が多いから、心配だったんだよねー」
「あーね。ほんと、好きだねえ。今回はいっぱい流れるの?」
「や、あんまり期待はできないみたい。でも牛飼い座流星群って、たくさん流れることもあるらしいから……」
ふうん、と呟いた茉由は苛立ち交じりにスマホを机に叩きつけた。どうやらまた上手くいかなかったらしい。ぎゅっと眉根を寄せたまま、今まで蓋を開けたまま見向きもしていなかったお弁当をかき込み始めた。
「茉由、あと五分で昼休み終わるからね。がんばれー」
***
「お疲れ様です!」
「あっ坂井さん、ちょっと」
挨拶をして帰ろう着替えに行こうとしたところで、店長に呼び止められる。私、何かしただろうか……。
「ごめんね、今日ラストまで残れないかな?今体調崩して出られないって電話が来てさ。急で悪いんだけど……」
顔の前で手を合わせ、小首を傾げて店長に拝まれる。正直、ひょろっとしたおじさんにやられても可愛いとは思えない。
「うっ……」
よりによって、今日か。流星群があるから、早めに帰って用意したかったんだけどな。思わず顔を歪めると、店長は肩を落として分かりやすくしょげた。
「だめ……?」
「や、んー……。まあ、だいじょぶです、残りますよ」
「わ、救世主!ありがとう!」
ラストって言っても、十時だ。どうせ夜通し空を見るんだし、ピークは夜中。二時間伸びたって構わないだろう。
***
「お疲れ様でーす!」
「ホントにありがとね!助かったよ」
「いいえー、大丈夫です」
挨拶をして、今度こそ店から出る。空を見上げると、薄い雲が広がっていた。これでは流れ星など見られない。だが、これくらいなら晴れることだってあるだろう。バイトの前は天気予報通り、晴れていたんだし。
家に荷物を置き、手早く着替えて天体観測用の荷物を担ぐ。中身はブランケットやら、水筒やら懐中電灯やら、だ。自転車に乗って、いつもの公園に向かう。空にはまだ薄い雲が掛かっているが、さっきよりも隙間ができている。
「よーし、今日こそは!」
自転車を止め、丘を上がっていく。ここの公園は、この辺りでは一番広い。小高い丘があって、その周りは小さな林のようになっているから、随分と暗くなる。しかも大きめのベンチまであるから、人のいないこの時間はベンチを独り占めしてゆったり空を見上げられる。背もたれは緩くカーブしていて、思い切り寄りかかると半ば空を見上げるような形になり、視界いっぱいに夜空が広がる。ここは本当に天体観測にぴったりな、私のお気に入りの場所だ。
「あ……」
そこに今日は、先客がいた。二つあるベンチの一方に座り、側には三脚付きのカメラ。頭の後ろで手を組んで、ゆったりと空を見上げている。きっと目的は同じだろう。気まずく思いながら、静かに隣のベンチに座る。ベンチの人がこっちを見たけれど、特に声を掛けられることもなかった。
荷物を横に置き、空を見上げる。さて、今日こそは。
***
「莉々奈、おは」
「あ、茉由。おはよー」
先に挨拶をしてくれたわりに、今日も茉由はスマホに釘付けだ。いい加減この週末で仲直りしたのだろうか。
「どうだったの、流れ星は」
顔を上げた茉由はばっちりメイクだ。アイシャドウの色はスモークグリーン。リップはマットなローズ。これはダメな奴だ、めちゃめちゃ機嫌悪い。強気メイクで気分上げて誤魔化してる。
「ダメだったよー。薄い雲がいつまでも晴れなくてさ、すっごい悔しかった」
「あらー。結局まだ一回も流れ星見たことないんでしょ?」
「そー!って言っても、流星群追い出したのなんて、今年に入ってからだけどね」
「ああ、そうだっけ?……なんか願い事でもするの?」
言われて、考える。私の願い事って、なんだろう。
黙り込んだ私を見て、茉由はないんかい、とツッコんだ。
***
「雨、かー」
「流星群?」
今日の茉由は機嫌がいい。今日は彼氏とのデートだからだろう。アイシャドウはラメの入ったゴールド。チークが可愛らしいピンクなのは、相当機嫌がいい時だけだ。
「そ。今度はみずがめ座。あー、だめかなあ」
「ふふ、晴れるといいね」
雲は厚いけど、降りそうってほどではない。明日も学校はあるけど、今回は朝まで粘るつもりだ。
丘を上がると、いつものベンチに座る。正面は白い雲。振り向けば黒っぽい雲。これは長丁場になりそう。
「ふう……」
蒸し暑いと、気が滅入る。相変わらず雲は厚いけれど、風が強くて流れているからまだ希望はある。
ジャリ、と誰かが歩いてきた音がした。目だけ動かして見てみると、来たのは大学生くらいのお兄さん。多分、この前いた人だ。今日も三脚を持ってきている。私と目が合うと、ニコッと笑ってくれた。慌てて、会釈を返す。お兄さんはカメラの準備をして、ベンチに座った。
「あっ」
ぽつりと、鼻先に雫が落ちてきた。雨だ。十二時を回ったころには随分と黒雲が出ていたからもしかして、とは思っていたけど。一先ず折り畳み傘を出してみる。……でも、これはもう帰ろうかな。隣のお兄さんも、帰り支度してるし。
***
「おは。流星群、どうだったの?」
「だめだった……けど、なんかお兄さんと仲良くなっちゃった」
「は?ああ、この前言ってた人ね」
頷いて、昨日の報告をする。昨日はやぎ座流星群だった。天気は良かったし、雲もまあまあ少なかった。けれど月はかなり明るかったし、残念ながら流れ星は見つけられなかった。まあ、それは今まで通り、なんだけど。昨日はお兄さんが話しかけてきたんだ。
「え、なんて?」
「君、高校生?って」
ぼーっと空を見てるときに話しかけられたものだから、思い切り肩が跳ねちゃって恥ずかしかった。今までは全く会話なんてしなかったのに。暗くて見えなかったと信じたい。
「こんな時間に外にいると補導されちゃうよーって」
「ああ、心配してくれたんだ」
「うん。まあ、こんなとこにお巡りさん来ませんよーって返したけど」
公園の奥だ。今までだって一回も会ったことないし。もしもお巡りさんが来たら、走って逃げようと思っている。そんなことを言うと、茉由はケラケラ笑い声をあげた。まあ、実際には声を掛けられたところで軽く注意を受けるくらいで済むのだろうけれど。
「で?」
「ん?えと、そっかー気を付けて帰ってねーって。で、朝までたまーにおしゃべりしてた」
「ゆるいお兄さんだなー」
お兄さんは大学生で、写真サークルに入っているらしい。天体観測は趣味で、いいカメラを買ったから流れ星を撮ってみたいらしい。流星群初心者なのは一緒だ。
「お兄さん、ピークじゃない日も待機してるんだって。だから、もう何度か流れ星の写真は撮れてるって言ってた」
「ピーク?何それ」
「流星群ってね、一日だけじゃないんだよ。何日間か流れてるらしくって、流れる星の数が多いのが、ピーク。私は学校もバイトもあるから、ピークだけ狙って見に行ってるんだけどね」
知らなかった、と呟く茉由は珍しくスマホを机の上に置きっぱなしだ。どうやら随分と星に興味が出てきたらしい。今度、流星群に誘ってみるのもいいかもしれない。
「だからね、今度写真見せてもらう約束したんだー」
「え、連絡先交換したってこと?」
大袈裟に驚かれ、少し身を縮める。やっぱりがっつき過ぎだったかな……。いやでも、お兄さんの方から誘ってくれたし。でも茉由が言っているのは別のことだった。
「気を付けなよ?あんた、ガード緩そうってかなんかチョロそう。コロッと騙されそう」
「ひどい!お兄さんはそんな人じゃないよー。私だって、そんなチョロいだなんてことない!」
「えー?どうだか」
***
「えっすごい!写真だとこんな風に写るんですね」
「綺麗でしょ?こっちはね、もっとよく撮れたんだ」
「うわあ、二つも流れ星が!素敵ですね。私も流れ星、見てみたいなあ」
思わず溜息を吐くと、お兄さん改め城田さんがうーん、と眉根を寄せた。
「じゃあさ、僕が連絡しようか」
「えっ?」
「ほら、せっかく連絡先も交換したことだし。ピークじゃなくてもいいんでしょ?僕はしょっちゅう来てるからね。流れ星が見られそうなときは、連絡する。それなら時間も無駄にならないんじゃないかな」
確かに、私にとっていつものように見に来ることは負担だ。勉強はあるし、バイトもある。今までのようにやきもきしながら晴れるのを待たなくていいなんて、願ったり叶ったりだ。
「……お願いしても、いいですか?」
「うん、もちろん。僕だって、莉々奈ちゃんには流れ星を見てもらいたいからね」
「ありがとうございます!助かります!」
***
ふーっと息を吐きながら、アパートの階段を上る。古い建物だから、バイト終わりのこの時間に通ると薄暗闇に気が滅入る。何といっても不気味なのだ。ただでさえ虫が苦手なのに、夜は活発になっているし。
と、その時女性の甲高い怒鳴り声が聞こえてきた。どきっとして、慌てて玄関に駆け寄り、鍵を開ける。思った通り、母の声だった。
「はあ?ふざけないでよね!」
「ふざけてんのは、お前の方だろうが!」
父が母と鉢合わせると、いつもこうだ。それにしても運が悪い、私も父も。よりによって母が休みの日に来るだなんて。とにかく、放っておくと近所迷惑だ。気は進まないが、二人を止めなくては。
「大体、あの子をどうしようがアタシの勝手じゃない!」
「!」
今回の喧嘩の原因は私のことだったのか。止めなきゃいけないのに、割って入りづらくて足を止める。わざとらしく玄関の音をたててみようか。
「お前は、あいつを手元に置いて俺から養育費をむしり取りたいだけだろうが!」
「はあっ?人聞き悪いわね、親としての責任を全うしてるだけじゃない!あんたなんて親切ぶってるけど、あの子のことなんてただの道具としてしか見てないじゃない!知ってんのよ、あんたがアタシのこと探ってるのなんて!」
ゆっくりと、踵を返した。二人が私のことをどう思っているのかは、知っていた。母にとっては自分の恋愛の妨げになる邪魔者……父から養育費がもらえるから一緒に暮らしているだけ。父にとっては無駄にお金を取られる存在。だからせめて、養育費を払わなくてもよくなるように母のあらさがしに利用している。
気付いてはいたけれど、はっきりと口に出されるとなかなかキツイものがあった。思った以上に動揺している自分がいる。身体が動くままに、外に出て走り出した。
バシャバシャと水が跳ねる音でようやく、雨が降っていることに気が付いた。かなりの土砂降りで、すでに全身が濡れていた。荒い息を吐きながら倒れ込むようにベンチに座った。意識していなかったのに、通いなれた公園に向かっていたのだ。
「はー……」
深く息を吐いて、両手で顔を覆う。いつものように空を見上げているのに、何も見ないだなんて変な感じだ。とにかくどうしようもなく、胸が苦しかった。あの人たちのように、私もあの人たちのことなんてどうだっていいと思っていたけれど。
「愛して、ほしかったなあ」
言葉にすれば、途端に涙が溢れてきた。バイトをして、生活費を払って、返済不要の奨学金がもらえるように勉強だって必死に頑張ってきた。自分ではとっくに、一人前のつもりだったのに。まだまだ、子供じゃないか。愛に飢えて。せめて振り向いてほしくて。情けない。
こんなの、ひな鳥と一緒だ。何もできずにさえずって。だから親にだって余計に見捨てられる。私が、私が悪いんだ。一人で立てないから。……ああ、駄目だ。こんなことばかり考えても虚しいだけだ。
それでも、くだらない考えはぐるぐると頭を回る。
「もう、いやだー」
……呟いて、また溜息を吐いた。わざとらしい声を上げてみても、全然気分は晴れなかった。負のスパイラル。
「お願い。誰か、愛して……」
小さな小さな、私の願い。でもそんなこと、あるわけない。こんな身勝手な私を、愛してくれる人なんているわけがないのに。ふっと心に浮かんだのは、あの柔らかい笑顔だった。
「あれ、莉々奈ちゃん?」
掛けられた声に、振り向く。辺りは真っ暗だから、始めは誰が立っているのか分からなかった。それが城田さんだと気が付いたとき、自分がどんな顔をしているのかに思い至って思わず息をのんだ。
今まで、泣いていた。周りがいくら暗いとはいえ、何も見えないほどではない。声だって鼻声になっているのではないだろうか。
「莉々奈ちゃんも来てたんだね。ざっと降った後だから、よく晴れてるし……」
話しながら近づいてきた城田さんは、ぷつりと言葉を途切れさせた。それから素早く、駆け寄ってくる。
「どうしたの、びちょびちょで!いつからここにいた?一時間は前に、雨は止んだのに!」
いつもは穏やかな城田さんが、すごい剣幕だった。羽織っていた上着を荒っぽく脱いで、私に掛けようとする。
「あっ、駄目です、濡れちゃいます」
返そうとすると意外なほど強い力で押し戻される。
「泣いてたの」
質問調だけど、断定されている。こんなぐしゃぐしゃな顔、見られたくないのに城田さんは屈みこんでまで、視線を合わせようとする。いつの間にか晴れていたらしい空から届く月明かりが、真剣な顔の城田さんの瞳で強く反射していた。
「言いたくないなら何も言わなくてもいいけど……心配ぐらいは、させて。いくら夏でも、こんなに濡れたまま外にいたら、風邪ひいちゃうよ」
「……すみません」
小さく謝ると、優しく頭を叩かれた。僕はねー、と普段通りの口調で話し始めながら、鞄の中からタオルを取り出して頭を拭いてくれた。城田さんの声が、仕草が優しくて私はぼんやりとされるがままになる。
「莉々奈ちゃんのことが大事なんだよねえ。少しずつ話すようになって、仲良くなって……。気付いたら、莉々奈ちゃんと会えるのをいつも楽しみにしてたよ」
ニコニコと笑う城田さんのことを見ていると、なぜだか鼻の奥がツンと傷んだ。子供みたいな自分が惨めに思えるはずなのに、すごく安心して。
……もしかしたら、私は。
「……僕はね」
呟いて、城田さんは私の頬を両手で優しく持ち上げた。濡れた前髪が鼻先に当たってくすぐったい。それに気が付いたのだろう、城田さんがふっと笑みを漏らした。
……そんな、そんな優しい表情も素敵で。きっと私は、城田さんが好きなんだ。
「好きだよ」
「……え」
頭に浮かんだばかりの言葉をそのまま言われて、何を言われたのか理解が追い付かなかった。目を見開いて、じっと目の前の瞳を覗き込む。ふにゃり、と優しく細められて呼吸が止まった。
「莉々奈ちゃんのことが、好きだよ。……なんて、まだ初めて会ってからそんなに時間も経ってない相手から言われたって、気持ち悪いかもしれないけれど」
自信なさそうに垂れ下がった眉を見て、慌てて首を振る。カッと頬が熱くなったのを感じて、それがますます恥ずかしい。まさか、まさか気持ちを自覚した直後に相手から告白してもらえるだなんて。
「私!……私も、好きです。城田さんのことが。好き、です」
気恥ずかしくて、言葉と共に顔を伏せる。きっと、耳まで真っ赤だ。
「良かった……!」
「あっ」
ぎゅっと抱きしめられた。心地の良い圧迫感と熱いほどの体温に、爆発的に心拍数が跳ねあがる。
「僕さ、ここまで歩きながら流れ星に願ってたんだよね。どうか莉々奈ちゃんも同じ想いでいてくれますようにって」
「流れ星?」
「うん。あれ、見なかったか。ほら、ピークは明日だけどもうペルセウス座流星群は始まってるからね」
そういえば、と城田さんと一緒に夜空を見上げる。さっきまでの土砂降りから一転、びっくりするほどきれいな星空が広がっていた。思わず息を吐いたとき、視界の端を小さな光が横切ったのを確かに捉えた。
「あっ」
小さく声を上げると、また一つ。それは確かに、流れ星だった。あんなにも切望していたものがあっけなく見られて、なんだか呆然としてしまう。
「きっと、流れ星が僕の願いを叶えてくれたんだね」
そう言われて、改めて空を見上げる。まるで祝福のように降り注ぐ星たち。あの星たちが、私の願いを叶えてくれたのかもしれない。私の胸は、温かさに満ちていた。
それは愛を知らない少女が、愛を知り、愛されるお話。