被虐者と加虐者のカルマ
彼女との出会いは初夏だった。
生命力溢れる艷やかな黒髪と、目の下をふちどる色濃いクマの対比が印象的な彼女。
彼女は特別な因果を背負っていた。
極端な因果をもつ者は稀だ。彼女はその中でも数少ない虐殺者の因果を背負っていた。
過去世で彼女は独裁者だったのだ。いくつもの湖を埋め立てられるほどの死者を量産した。
ゆえに現世にて報いを受ける。
彼女は不死身の体で生まれてきた。
奪った命の分、死ななければならない。
そうでなければ彼女は眠ることができない。彼女は因果の神に睡眠を奪われたのだ。
一回死ぬごとに十数秒間の眠りを得ることができる。たった十数秒だけだ。
物心ついたときからそういう状況だったらしい。そのつらさを僕は想像できない。彼女を襲う慢性的な眠気――それもとても強烈な――そう時間はかからず、彼女はどんな痛みも恐怖も感じなくなった。むしろ進んでそれらを求める。その先にあるささやかな眠りのために。
●
僕は自分に課しているルールがある。
些細なことだけど、僕にとってはそれなりに重要なことだ。
それは悪人しか殺さないということ。
僕にはどうしても人を殺さないといけない理由がある。その点は曲げられない。ただ、僕にだって善悪の概念はある。だから、条件を付け加えることにした。
狙うのは悪人だけ。善人には決して危害を加えない。
このルールをずっと徹底している。
そのせいもあって僕はつねに悪人を探しながら歩いている。まず悪人を見つけないことにはなにも始まらないからだ。
今回の人たちはいわゆるヤクザだった。夜、繁華街を歩いているときに道で見かけたのが出会いだった。僕は高校生だし、そんな年頃で夜に街をうろつくのはもちろん褒められたことじゃない。でも、昼間にあてもなくさまよったところで悪人に出会う確率はそんなに高くない。だから、僕はリスクを承知で、ときおり夜の街に繰り出している。
その日もブラブラ歩いていると、どこからか言い争う声が聞こえてきた。僕はトラブルを期待してそちらへ舵を取る。道端で二人の男が一人を殴りつけていた。珍しいことじゃないし、なんとなく事情はわかった。殴られている方は酔っ払いで、なにかしら問題を起こしたんだろうって。で、気に障ったヤクザにボカスカ殴られていると。
周りの人は見て見ないふりをして足早に通り過ぎていく。僕はそんな中でしばらく様子を見守っていた。たぶん酔っぱらいにも非はありそうだ。だけど、ヤクザのふるう暴力はあまりにも度が過ぎていた。あれではただ日頃のうっぷんを晴らしているだけだ。必要以上の暴力だと僕は判断した。
「すみません。そのへんでやめた方がいいんじゃないですか? さすがにやりすぎですよ」
「……あ? なんだ、ガキ」
止めに入った僕もついでに殴られた。
だけど、あんまり子供を殴るのに気が引けたヤクザたちは、間もなく捨て台詞とともに去っていった。
「大丈夫ですか?」
「なんだよ、ガキ。あっちいけよ」
助けたはずの酔っぱらいにもガキ呼ばわりされて、僕は一人その場を離れた。
僕は裏路地でねばついたツバを吐き捨てる。真っ赤なツバにももはや目新しさはない。
「――あいつらにするのか?」
耳元で声がした。
「うん。あとで居場所を教えて」
「なら、なんのためにこっちへ? あいつらは反対方向に行ったぞ」
「あとで、って言ったろ。また今度。明日かあさってにでも」
「あいかわらずだな。判断がとろい」
裏路地に入ったのは、この会話を聞かれないようにするためだった。他人に聞かれたら、なんか独り言を言ってるアブナイ奴だと思われるだろうから。
――これは、僕以外には聞こえない声。
僕を担当する因果の神の声。
初めてこの声が聞こえたのは中学一年生のとき。思春期になりたての頃だった。
●
現在、僕は車に揺られて移動中だった。
外は見えないし、居心地もよくない。
なぜなら、僕は車のトランクに押し込まれているから。
僕は因果の神に場所を教えてもらって、今日ふたたびヤクザ二人のところへやってきた。でも、運悪く彼らはちょうど車で走り出すところだった。だから、僕は全力で近道を走り、先回りしようとした。かなりのスピードで飛ばす彼らのまえに飛び出した結果、僕はそのまま車に撥ねられてしまった。
べつに想定外ではなかった。多少の無茶なら僕はできる。因果の神のおかげで体は丈夫にできているのだ。僕は地面に転がった状態で待ってみた。ヤクザたちの出方をうかがいたかった。……さあ、どうする?
彼らの反応は期待通りだった。二人は僕を車のトランクに押し込み、さっさと走り出した。はてさて、行き先は山か海か。僕は窮屈なトランクで横になって、時が来るのを待った。寝返りすら打てない状態での移動は、思ったよりずっとつらかった。
トランクが開く。
強い陽射しが降り注いだ。眩しさで瞼がひくつくことのないよう我慢した。僕は意識のないふりを続ける。
波の音が聞こえていた。どうやら正解は海のようだった。
二人の会話の内容から、おおよその状況は察することができた。死体を処理するのは初めてのことじゃないらしい。兄貴分のヤクザの方、彼が世話になっている漁師がいるのだとか。その人と待ち合わせをしているらしい。彼が船を出してくれる。重りもあいつが用意する。もう昼過ぎだ。漁からは戻っているはずだと。
「酒飲みすぎとんな。寝てるのかもれん。もう一度電話かけてみぃ」
「はい」
これ以上待つ必要もない。子分の返事と同時に僕は起き上がる。
まずは兄貴分の方から片付けることにした。僕はそっとトランクから出て彼の背後に近づく。その首に腕を回し、一気にへし折った。
呆然とした子分の手からスマホが滑り落ちる。動揺しているうちにもう一人も――そう考えたけれど、そこからの彼の行動は意外と素早かった。
すぐさま気を取り直し、僕の方へと駆けてくる。
その突進をかわすことはできない。
僕たちが立っていたのはどっかの波止場。
「――」
僕たちは二人一緒になって海へ落ちた。
絡まりながら水中に沈んでいく。
僕はポケットからナイフを抜いた。
それを子分の腹部に突き刺す。
水の抵抗があったけれど、鋭い刃は無事男の肉を貫いてくれた。愛用のナイフだから僕も手入れは欠かしていない。
血がまるで赤い煙のように水面へ昇っていく。
子分は必死の抵抗を――僕の体にしがみついて同士討ちを狙ってきた。
でも、僕はなにも焦ることはなかった。因果の神のおかで僕は息も長いのだ。
こっちの酸素は余裕で持ち、相手だけが溺れ死んだ。溺れたっていうか、単純に力尽きたのかもしれないけど。
「……?」
沈んでいく彼を眺めていたとき、僕はその奥に異常な光景を見た。
思わず目を見張る。
海の底に制服姿の女の子が沈んでいた。
女の子の黒くて長い髪が藻草のように漂っている。見覚えのあるブレザーを着ていた。確か知っている学校の制服だったと思う。
彼女の体はスクーターの下敷きになっていた。両手を前にまわし、手首には手錠。スクーターを自ら抱くような姿勢だった。
女の子の目は閉じられていた。普通に考えるなら、とっくに死んでいるはずだ。でも、彼女の顔はやけに綺麗な気がした。こうやって沈められてまだ日が浅いのだろうか。
「――」
ふいに手錠の鎖部分が勢いよくはじける。
その音は水を伝って聞こえてきた。
さらにスクーターも水平方向へ吹っ飛ぶ。
なぜか、ひとりでに――どういう力学が働いたのかはさっぱりわからない。
女の子の体が浮き上がる。僕の目の前を通り、まっすぐに水面へと上がっていく。
僕も少し送れて浮上した。
立ち泳ぎをしながら僕は彼女を見た。
青白かった顔にあっという間に血の気が戻ってくる。やがて、彼女はぱちくりと目を開けた。
「あなた誰?」
「誰って……。こっちがききたいよ」
「質問に質問で返さないで」
「うん、まあ……とりあえず上がらない?」
「……」
僕の提案に彼女はうなずいた。
二人で海から出る。
やくざの車が止まっている波止場。彼女はそのそばに転がる死体に気づいた。
「……これ、あなたがやったの?」
彼女は別段驚いた様子もなかった。
「まさか。そんなふうに見える?」
「その棒で私も殺すの?」
「……」
彼女は僕がそれとなく武器を拾っていたことにも気づいていた。
僕は気まずさを隠すためにその棒をもてあそぶ。
「君次第かな。僕のことを黙っててくれるなら、なにもしないけど」
「じゃあ、警察に電話するわ」彼女はポケットからスマホを取り出す。
しかし、当然というべきか、彼女のスマホは水没して壊れていた。
彼女は鼻を鳴らし、壊れたスマホをあっさりと放り捨てる。つぎに彼女は落ちていたヤクザのスマホを拾い上げた。
「やめた方がいいよ。それ以上は冗談にならない」
僕は静かな声で凄んでみせた。
「あっそう」
だけど、彼女は他人事のように応える。
僕は一気に距離を詰めて彼女の頭を殴りつけた。
硬い木の棒を何度もふりおろす。彼女の頭蓋骨は砕け、鮮血が散った。
「……うっ」
ふいにこみ上げてきた快感に僕は膝をつく。
思わず息が漏れた。
……だって、仕方ない。それも当然だった。
さっきの二人と合わせて一気に三発分の射精だったから。
「一応、捨てておこうかな」
遠からず発見されるだろうけど、さすがにこのままでは目立ちすぎる。僕は兄貴分の死体を海へ捨てる。次いで彼女の方へ取り掛かった。
襟首を掴んで引きずる。
途中、彼女の体がピクリと動いた。
……まさか、まだ生きてた?
僕はまた棒を拾い直して、立ち上がろうとした彼女をさらに殴った。
頭部は変形し、脳漿が飛び出る。僕はまた絶頂に達した。
海水と精液でもうパンツはぐしゃぐしゃだった。早く帰ってシャワーを浴びたい。そう思いながらも、僕はそのまましばらく待つことにした。
この僕が力の加減を間違えるとは思えなかった。確かに殺したという手応えはあった。
なにより、因果が働いた際に伴う射精があった。それが殺人の証明にほかならない。
三十秒と経たないうちに変化があった。僕が見守っている目の前で、血と脳漿が彼女の頭へ吸い込まれていったのだ。
と同時に頭部の変形も治ってしまう。
あっという間だった。まるでフィルムの逆再生を見ているみたいに。
傷のふさがった彼女は平然と立ち上がってみせた。
「もう終わり? もう、してくれないの?」
「きみはなんなんだ? 一体何者?」
「質問に質問を返さないで」
「……そうか。きみも因果を背負っているんだね」
「……」
彼女は黙って僕の目を見た。
その沈黙は肯定を意味していた。
「……ん? なに、このニオイ? ……まさか、あなた? なんで精子臭いの?」
「そりゃあ出したからだよ」
「なんで出したの?」
「そりゃあ、気持ちよかったら出るからね。普通のことだよ」
僕たち二人は海から離れ、道路に出た。
海岸沿いに続く、長い長い一本道。
真っ昼間だというのに、走っている車はまったく見当たらない。波の音と風の音が聞こえるばかりだった。
「で、ここってどこだろ? 知ってる?」
僕は彼女をふりかえる。
彼女は首を横にふった。
「知らない」
「どこかにバス停でもないかな。タクシーが通りかかってくれるのが一番だけど」
「お金あるの?」
「あるよ」
僕はポケットから二つの財布を出して見せた。さっきのヤクザたちから失敬したものだ。
とはいえ、お金だけあってもこの状況では役に立たない。とりあえず僕たちは歩きだしてみることにした。しばらく行けばコンビニくらいはあるだろう。そこからタクシーを呼べばいい。
海を左手に僕たちは並んで歩く。雲が大きい。遠くをカモメが飛んでいた。
「きみの家はどこ?」
「田沼町」
「まじ? 近くじゃん」
「あなたは?」
「鳥淵」
「ふぅん」
「きみはどうやってこんなとこまで来たの?」
「トラックに乗せてもらった」
「トラック? なんの? ひとを乗せてくれるものなの?」
「代わりにヤラせてあげたから」
「……」
臆面もなくそんなことをいう彼女。僕は思わず顔をしかめてしまった。
「なにその顔? セックスに快楽以外の価値を求めるタイプ?」
「多少の倫理観は必要だと思うけどな。なにより、自分自身を守るためにも」
僕は肩をすくめてみせた。
「自分だけは平気だと思っていても、意外とストレスになるものだよ。自由奔放に生きるのは一見強そうに見えて、一方で芯がない。割り切ってみせるには、きみはまだ若くて未熟だ」
「……あなた、私とタメくらいだよね? なのに、説教? ウザいんだけど。あなたこそ人殺しのくせに」
「僕は自分で決めたルールを遵守してる。僕は悪人しか殺さないって決めてるんだ」
「へぇ。あの人たちはなにをしたの?」
「僕を車で撥ねたあと、救急車も呼ばずに車のトランクへと押し込んだのさ。まあ、僕がその車の前に飛び出したのはわざとなんだけど」
「……」
彼女は唇をへの字に曲げた。さっき僕がしていた表情のように。
「だって、悪人かどうかを試すにはテストが必要だろ? きっかけもなしに人の性質は計れない」
「あぁ、うん。そうだね」
「それと、僕はセックスに興味はないから。きみの行動を特別咎めようって気はないよ」
「ふぅん?」
「因果の質さ。過去世では数え切れないほど殺されてきた――まあ、いまはではあんまり覚えていないんだけど――とにかく、その因果を現世でまとめて清算しようとしている。その欲求は、女の子に対するものよりずっと強い。人殺しによって僕が得られるのは性的な快楽に違いはないんだけど、女の子の肉体へ向けられるものじゃないし」
僕は彼女のほうを見た。
「きみも似たようなものなんだろ? 僕の因果とは真逆みたいだけど」
「……そう。ずっと昔、私は虐殺者だった」
彼女は遠い目をした。その目の下には濃いクマがある。
「あなたと同じで、あまり実感ないけどね。結果、私は不死身の体を与えられたうえで睡眠を奪われた。死んでから蘇るまでの十数秒だけが、私にとっての睡眠時間なの。それ以外では絶対に眠れない。あなたに想像できる? この苦しみが」
僕は肩をすくめる。「……まあ、できないね」
「そっちは? ひとを殺さないとどうなるの?」
「べつにどうなるとかじゃないかな。ただ、殺しでしか快感が得られないんだ。だから、セックスの代わりに人を殺してる」
「ふぅん。私よりは遥かにマシじゃない?」
「それはそう思うよ。でも、仕方ない。だって因果だし。……ねえ、きみはいままでに何回くらい死んだの?」
「いちいち数えてない。そんなの」
「ずっと死に続けることもできないんだね。さっきも不自然に鎖が切れてたし」
彼女は深い溜息とともにうなずいた。
「運命の力が働くから……。楽な方法は許されないの。自分に火をつけても、一回死んだあとは勝手に消えちゃうし。燃え続けることはできない。同じように、溺れ続けることもできないみたいね。クソったれなことに平穏な時間は続かない。眠りはすぐに邪魔される――」
「……ねえ、もしかしたら。いや、うん……」
「わかってる。あなたがいいたいことは」
彼女は僕をさえぎってうなずいた。満面の笑みを向けてくる。
「私たち、いいパートナーになれそうじゃない?」
●
地元に戻っあと、僕たちは連絡先を交換して頻繁に会うようになった。
会うのはほとんど彼女の家でだった。彼女の家庭は裕福で、かつ両親が不在のときが多かったから。バスルームも大きくて、派手に汚しても掃除がしやすかった。やっぱり刃物で殺すのが一番手軽だ。彼女の苦痛は短くて済むし、僕にしても不必要にいたぶる趣味はないし。そう――僕の加害は趣味なんかじゃなく、あくまで因果によるものだ。
そうやって半年ほど過ぎた頃だった。
突然、彼女が姿を消した。
●
少女はベッドに縛り付けられていた。
閉め切ったカーテンの隙間からわずかに陽の光が差し込んでくる。
ここに来てから何度目の朝だろう。少女はもう数えるのもやめていた。
衣服は剥ぎ取られ、彼女は全裸だった。唯一身につけている布は、汚いタオルで作られたさるぐつわのみ。こんなものが口内に入っているのは我慢ならなかったが、自分ではずすこともできない。少女は後ろ手に縛られていた。
少女は自分の全身から異臭が漂ってくるのを実感していた。もうずっとお風呂には入っていなかったし、体のいたるところには乾いた精液がこびりついている。この一ヶ月、少女の体で精液を浴びていない箇所は存在しなかった。
二階への階段がきしむ音。あの男が戻ってくる。
その巨漢は部屋に入ってくるのも一苦労というさまだった。頭をかがめて、出っ張った腹をこすりながらドアをくぐってくる。手には、皿いっぱいに乗ったたこ焼きを持っていた。ただ冷凍食品を解凍したものだ。それにたっぷりのソースとマヨネーズをぶっかけている。
「きみはすごいよねー。食べなくても死なないんだから。だから、世話が楽ちんで助かってるよ。ありがとう」
男の笑った歯には、いつのものかわからないくらいの食べかすがびっしりと挟まっていた。眼鏡のレンズにも油汚れが浮いている。床屋にも行っていないであろう髪の毛は、肩に触れるところまで伸びていた。
男は少女の横に腰を下ろした。あまりの体重にベッドが大きく傾く。
「最初の一週間くらいしかオシッコやウンコもしなかったねー。まあ、そこはちょっと物足りなくもあるかな。ぼく、女の子から出るものはなんでも好きなんだ」
たこ焼きをモグモグと口に入れながら男は少女に話しかける。
「ほんと、きみと出会えてよかったよ。きみに出会うまでは、とても注意しないといけなかったんだ。女の子には長持ちしてほしいのに、なかなかそうもいかない。ちょっと無理して使おうとするとすぐ壊れちゃうし。で、壊れたから捨てようと思っても、そのままゴミ袋に入れるわけにもいかないしさ。すぐに次のを探さなきゃいけなくなる。あまり近場でばかりさらっても警察の目が厳しくなるし、けっこう面倒くさいんだ。女子高生なんてそこら辺をいくらでも歩いてるっていうのにさ。好き勝手に手を出しちゃいけないだなんて。どうかしてるよ、この世の中」
男はそうボヤきながら口をすぼめた。
その表情はちっとも可愛くはなく、ただただ邪悪だった。
「僕はシンプルに女の子とエッチしたいだけなんだ。でも、きみもそれで終わりにしてくれないでしょ? きっと、あとで大人のひとに話しちゃうでしょ? だったら、解放するわけにもいかないじゃないか。誰にも告げ口しないなら、殺さずに帰してあげてもいいんだけどさ。……まあ仕方ないよね、これは」
男はたこ焼きを咀嚼しながらトランクスを脱ぎ捨てる。
すでにその陰茎はいきり立っていた。
少女はうんざりしたように目を閉じた。
●
男が外出し、少女はまた一人部屋に取り残された。
ベッドに縛り付けられたままの少女が顔を横に向けると、そちらには大きな鏡があった。男は自分がやっているところを鏡で見るのも大好きなため、その位置に鏡がセットしてあるのだ。
鏡の中の少女が見返してくる。その口元にさるぐつわはなかった。
「――これは面倒なことになったわね。このままじゃあ、いつまで経っても死ねないじゃない。あの男、進んで人を殺すほどの加虐趣味はないみたいだし」
「……」
鏡の中の少女だけが口を開く。
因果を支配する神が話しかけてくるのは初めてではなかった。……彼? 彼女? とにかくそれは鏡の中で自分の姿を借りて接触してくる。
「彼、強姦被害者の因果を負っているのよ。だから、現世ではひたすら犯して回っている。現世ではあんなナリだけど、過去世ではどれも美女の姿で生まれていたわ」
「……」
因果の神が溜息をつきながら話を続ける。少女本人は口をふさがれて相槌も打てない。
「あなたを助けたいけれど、どちらか一方をあからさまにひいきするわけにはいかないの。だから、腕の縄だけは解いてあげる。あとはあなた自身でなんとかしなさい」
「……」
少女がまばたきをすると、鏡の中の自分はおしゃべりをやめていた。さるぐつわをはめた現実が映し出される。
少女は腕を動かす。
頑丈なはずの縄が勝手にちぎれた。……いや、ちぎれるというより腐敗するかのようにボロボロと崩れた。
すぐさま自由になった手で足の拘束も解き、少女はベッドから立ち上がる。
運良く男の母親も出かけていた。
男は母親と二人暮らしだった。たまに階下から気配が伝わってくる。
彼女も息子がよからぬことをしているのはとっくの昔に承知しているだろう。だけど、べつにそれを攻める気はない。誰だって面倒事は避けたがるものだ。見て見ぬ振りをして現状維持に努めるのが一番楽な生き方といえる。
男の母親はほぼ毎日決まった時間に車で出かけていく。いまもそうだった。
運よくというか、このタイミングを狙って因果の神も動いたということだろう。
少女は一階に下りた。
玄関。自分の靴はない。
鍵を開けて出ようとしたが、なぜか開かない。立て付けが悪いとかではないようだ。
体をぶつけてみる。少女の体重では簡単に跳ね返された。
まさか、と少女は考える。この感触、かんぬきが掛かっているのに間違いない。……でも、鍵は全部開けたのにどうして?
そこで気づいた。ドアの上部と下部にさらに鍵があった。家人が追加で取り付けたのだろう。しかも、それらは鍵穴がこちらを向いていた。
内側を、家の中へ向かってだ。つまり、これは家人以外の人間を閉じ込めるためのもの。
少女は舌打ちし、べつの場所へ向かった。ほかにも出られるところはあるはずだった。
リビングに行き、カーテンを開ける。しかし庭は見えない。真っ暗なまま。
ガラス戸の奥、雨戸が閉められていた。開かない。これにも鍵が取り付けられていた。
ほかのところも同じ。風呂場やトイレの窓には格子が取り付けてあった。
大声で助けを呼ぼうとも思ったが、声もろくに出せない。不死身の体ではあったが、飲まず食わずのせいで少女は確実に衰弱していた。
少女は考える。もちろん時間をかければ壊せるかもしれない。しかし、母親はともかく男の方は出かけているといっても近所のコンビニかスーパーといったところだ。いつも買い物を終えたらすぐに帰ってくる。残された時間はあまりなかった。
少女は洗面所の鏡のまえに立った。
「教えて。私の核はどこにあるの?」
喉の奥から必死に声を絞り出した。
鏡の中の少女が応える。
「……核? なぜ、そういうものがあると? いえ、問答をしている場合ではないわね。いいわ、教えてあげましょう。確かに核はある――あなたの頭の中に。ちょうど額の真ん中の位置よ」
少女はそれだけ聞くと、すぐさまトイレに駆け込んだ。
悪臭のこもったトイレ。吐き気がこみあげてくる。でも、吐いている場合ではない。
少女は己の右目に指を突き刺した。そのまま右目をえぐり取る。それで終わりではない。
空いた眼窩にさらに指を突っ込み、奥の方を探る。まだ奥、もうちょっと――。
額の裏側にまで指を伸ばす。指の先がなにかに触れた。
指の角度を試行錯誤し、なんとかそれに指をひっかける。そして一気に外へ引っ張り出した。
黒くて丸い玉が床に転がる。まるでビー玉みたいな。人体の中にあるにしては不自然な代物だ。
少女はそれを便器に放り込み、水を流した。
勢いのある水流ですぐに玉は流れていった。
少女は膝をつく。全身の力が抜けた。視界が真っ暗になる。少女は意識を失った。
十数秒後、少女は復活する。
少女がつぎに目を覚ましたとき、そこは下水道の中だった。
作戦がうまくいったことを知る――。
少女には復活の際に中心となる核が埋め込まれていた。それを取り出した場合、つぎ復活するときにはそれの位置に従うのだ。少女自身は目にしていないが、あのあと右目のない体も便器に吸い込まれ、核のところへと到達した。合流した少女の体は間を空けずに復活を果たしたのだ。
少女は近くのマンホールから外に出た。ひさしぶりに見る青空に目がくらんだ。
汚水だらけの体。でも、気にしている暇はない。電柱の標識を見て現在の場所を確認する。詳しくはないけれど、少女が知らないエリアでもない。
当然だった。少女は普段の生活の中で男にさらわれた。あの男も遠出をするようなタイプではないし、二人の生活圏はすぐ近く、隣り合っていたのだ。
少女は鍵のついていない放置自転車を見つけ、それにまたがった。
目指すは、あの少年の家。
たった数回ではあるけれど、彼の家でもことに及んだ。だから、家の場所は覚えていたのだ。
彼は不在だった。玄関先でその帰りを待つ。
一時間後、少年は帰ってきた。約二ヶ月ぶりの再会だった。
少女はふらつきながらもすぐに立ち上がり、少年のもとへ駆け寄る。
「早く殺して」
それが少女の第一声だった。
●
僕は彼女を立て続けに五回殺したあと、彼女の案内で歩き出した。
歩きながらこれまでの事情を聞いた。今日までの約二ヶ月間、彼女はずっと監禁されていたらしい。そんな事情をきくと、勝手にいなくなった彼女に対する怒りも一瞬で霧散した。代わりに犯人への怒りが燃え上がる。
犯人の家まではそう遠くない。僕たちはそいつの家を目指した。
彼女は汚水まみれで信じられないくらいの悪臭を放っていた。でも、僕たちは手をつないで歩く。
いつの間にこんな気持ちにまで育っていたのだろう。自分でもわからない。彼女のことが好きなのだろうか。……たぶん、違う。彼女にしてもそうだろう。ただ、お互いにとってかけがえない存在なのは間違いなかった。
僕の手を握る彼女の力が強くなる。……緊張しているようだ。犯人の家が近づいてきていることがわかった。
ドタドタという足音が角の向こうから近づいてくる。
そちらから姿を現したのは、四十代と思われる巨漢の男だった。彼は息を切らし、肩を大きく上下させていた。
僕のとなりの彼女に気づいて足を止める。
その狂気じみた目で彼女をまっすぐに見ていた。彼女が逃げ出したことに気づいてからずっと探し回っていたようだ。
僕は彼女の手を一旦離し、ポケットに手を入れた。
愛用のナイフは一瞬で抜ける。
巨漢の男は鬼のような形相で距離を詰めてきた。
「大丈夫」
僕は彼女にささやいた。
「気をつけて。あいつも因果を背負ってるから」
彼女にしてはめずらしく心配そうな声だった。……ほんとにめずらしい。彼女が僕のことを心配してくれるなんて。
「大丈夫だよ」
僕はもう一度繰り返した。
「こっちには因果以上のものがあるから」
●
それから三年が過ぎた。
あの一件からも僕たちの関係は途切れることはなかった。僕は彼女を殺し続け、彼女は僕に殺され続けた。
やがて彼女は虐殺者の因果を清算し、正常な眠りを手に入れた。
僕は被害者の因果を清算し、健全な性欲を手に入れた。
本来なら、そこで僕たちの関係は終わってもよかった。
でも、終わらなかった。僕たちの新たな関係はそこから始まった。
ベッドの上。彼女の安らかな寝顔を僕は眺めている。
彼女の目の下のクマは消えた。僕は愛用のナイフを捨てた。
一方で残ったものもある。
それは僕の心のなかに。
彼女の感情の中心に。
そして、二人のあいだに流れる空気のゆらぎの内に。