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第四章 「夢集いし刻(とき)」 5

「そう……。そうだったわね……」

 天を仰ぎ見ると、何十年もの間、ここで学園の生徒たちを見続けてきた天井のシミが目に入った。毎年生徒たちを見守っては見送る。こいつらにも感情があったなら、そんな想いをしてしまうのかなと妄想してしまう。

「なら、あなたの方が忘れているのかしら? 由愛さんは、母親の記憶と混同しているみたいだったけど、小さな頃、あなたと過ごした記憶があるって言っていたわ。その時のことを話せば分かってくれるはずよ」

「あの子が今も私のことを、覚えている……?」

 うつむいていた首をかしげる。

「最近はもうそんなことを言っていなかったはずなのに……」

 ほんの少し柔らかになる表情。だが、それはすぐに苦悶のそれになる。喜び悲しみ。自分の中にある色んな想いがないまぜになっているかに見えた。

「だから、会いに行こう」

「だけど、私は本当の母親でもないのに……」

「誰かを大切に想うのに親とか子とか、自分が何者かなんて関係ないはずでしょ!」

 いまだ尻込みをしている真夜花を思わず一喝する。

「ごめんなさい……。でも、どうして、そんなに自分を卑下するの?」

「言ったでしょ。私は誰でもないのよ」

「誰でもないって、そんなこと言ったら、今のあなたは一体誰なの?」

「私はあなたが望んだからここにいるんです。あの日、教育実習に一緒に出てくれる人をあなた願ったから、私はそれにひかれただけ。他の人には私はただの誰かで、そこにいないのと同じなのよ。そうやって、私は誰かに紛れることであの子の側に居続けた。だから、私は誰でもない。もう私自身にも、本当の姿を思い出すことが出来ないわ」

 左の手のひらで顔を覆い隠す真夜花。

「あなたには私が何に見えるの?」

 指の隙間から覗く眼光が妖しく光る。

「私にはあなたが、由愛さんの母親――麻耶さんに見えるわ。だから、あなたの不審に気付くことが出来た」

「そう。あなたには母親がいないって言ってたわね……。だから、私のイメージがオリジナルのものになったのね」

「オリジナル?」

「そうよ。。本来、私は心の隙間を埋めるように、もう会うことが出来ない誰かの姿に見えるはずなのに、あなたにはそういう人がいないのね。だから、オリジナル――あの子の父親がイメージした母親がもとになって生まれ出でた。まがい物の母としての役目を受け、私はそれをやり終えた。だから、これからは、あの子が自分の足だけで歩く番……。私は、もう必要なんてないのよ」

「どうして、そういうこと言うの? あなたはあなたじゃない。ちゃんとここにいて、誰かのじゃない、自分の言葉でしゃべっているじゃない……。それは、あなた自身の想いなんでしょ?」

「想いなんて、ないわ」

「想いはあるわ。あなたはから――ゆめから生まれたって、自分で言ってたじゃない。だから、あなたにもあるはずよ。他の誰かのなんかじゃない、あなただけの願いが……。夢が……」

「違うわ。ゆめじゃない、何もないのよ……無。私には何もないもの……。ましてや、夢なんて、あるはずないじゃない……」

「嘘ね」

「何を根拠に……」

「何の願いも持たない人が、他人の夢を奪う危険をおかしてまで、誰かを傷つけたと悲しんでまで、由愛さんの側にいようとするかしら?」

「それは、ただあの子が心配だったから。だから……」

 机を抱えるようにして寝息を立てている彩音に視線を向けると、真夜花は顔を伏せた。その拍子にひと房の髪がはらりと落ちる。

「だけど、それはもういいのよ。最後に彼女の夢を垣間見て分かったもの。由愛は私なんかよりもずっと上手に支えてくれる人がいるってことに……」

 彩音の肩にそっと手を置く真夜花。

「私は役目を果たせた……。もしも今も夢というものが私の中にあるのなら、穏やかにこのまま消えてなくなることを願うわ……」

 そう言って顔を上げた真夜花の言葉が真実だと証明するように、その横顔は実に慈愛に満ちていた。

 それが、真夜花の夢?

 大切に想う人とその友のために、自らは人知れず身を引くことが望み。それも一つの愛の形だと思う……。それは、子を想う、母の愛なのかもしれない。

 俺にはよく分からないが、本当の家族でしかたどり着けない境地なのだろう。なら、これ以上何も言うことはない。

「そう……。あなたの想いはよく分かったわ」

 真夜花を説き伏せるのは無理だと、そう思った瞬間――。


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