第三章 「ユメ」 5
「でも、そんな子供の頃から、きちんと自分のやりたいことを見つけられるなんて、凄いわね」
「そんなことないですよ。さっきも言いましたけど、気が付いたらと言うか、物心ついた時にはもうこの本を絵本代わりに読んでいたんです……。全く意味は分かりませんでしたけどね」
「それってもしかして運命?」
この世の中、何かを成し遂げる人間というのは得てしてそういうものなのかもしれない。世界で活躍している学者、スポーツ選手は、幼い頃からその分野に足を踏み入れ、いつの間にか没頭していたと聞く。
「運命かどうか分からないんですが……。ずっと昔、幼すぎて記憶がすごく曖昧で、今から言うことは自分でも自信がないのですが……」
いつも真っすぐな由愛にしては珍しく遠回りな表現と言うか、妙に歯切れが悪い。
「私には、子供の頃に母と遊んだ記憶があるんです」
それって普通なんじゃないのか? なんて思っていると、
「例えば、夕日の公園。近くの図書館。寝苦しい熱帯夜なんか……。母は私を出産してすぐに亡くなったはずなんですけど、なぜか母がすぐ側にいてずっと私の手を握っていてくれた記憶があるんです」
そうか。由愛の母親はすでに他界していたんだったな……。だけど、幼少期に一度でも遊んだ経験があるならともかく、会った事がないのに母親の記憶があるなんて、現実的にそんなことがあるんだろうか?
由愛の表情は笑っていたが、その瞳はひどく真剣で嘘を言っているようには思えなかった。
「子供の頃の記憶……ね」
いないはずの母親――この世に存在しない母と過ごした記憶か……。子供は、自分にしか見えないお友達と遊んだ話をしたり、ときに空想上の何かと会話をすることが稀にあると聞く。そしてそれは、学術的に、『空想の友達』と呼ばれるれっきとした心理現象だ。俗に、幽霊や妖怪、子供の頃にだけ見えるものは、信じがたいが存在すると言われている。
それに、物心つく前の幼き頃は、ある人と経験したことを、自分の大切な人と経験したように錯覚することがあると聞く。ましてや、死別した母親とならそんな風に幼い頃の記憶の改ざんが起きても不思議はない。もしかすると今の話も、そういう類いなのかもしれない。
「もしかしたら、小さい頃に会ったお母さんに似た親戚の人と勘違いしたとかかしら?」
「かもしれませんね。特に幼い頃は母の研究論文を閲覧するために、人の出入りが激しかったように思いますから。色んな人たちの面影を母と混同してしまったのかもしれません。それに徐々に物心がつくにつれ、そんな体験もなくなってしまって、その代りに気が付いたら、母が書いたレポートとこの本たちを眺めるのが習慣になっていたんです」
「そっか……」
優しい笑みを浮かべながら自身の夢を語る由愛をとても綺麗だと思った。と、同時に瞳の奥から覗く憂いを俺は寂しそうだとも感じていた。
「ムツミ先生? どうかしましたか?」
呆けていた俺を由愛が心配そうな目で見ていたので、何でもないよと返す。
「そう言えば、お母さんの研究がどんなものか聞いてもいいかしら?」
「そこを訊きますか」
適当に話題転換のつもりで話を振ったのだが、由愛は照れ笑いを浮かべた。
「駄目……。だったかしら?」
「そんなことはありませんよ。と言いますか、具体的には私にもまだよく分かっていないんです」
大げさなこと言っておいて、まだまだですよねとはにかむ。




