第一章 「運命の女(ファム・ファタール)」 1
六月末。梅雨特有の、多分に湿気をはらんだ風が俺の股の間を吹き抜けていく。
「これがスカートというやつか……」
無防備に晒された股間がスースーして、初めての経験に武者震いをする。女ってのはいつもこんなものを履いているのに、よく風邪をひかないなと感心する。
それにしても任務のためとは言え、この俺――近藤武蔵が女装をして女子高前に立つだなんて夢にも思わなかった。
それに、立つだけならまだいい。今なら只の変態野郎ですむ。が、俺はあまつさえ女装という変態行為に加え、今まさに男子禁制の薔薇の園、いや百合の園とでも言った方がいいのか? とにかく俺は、その禁断の園へと足を踏み入れようとしている。
回れ右したいのを何とかこらえて、俺は改めて校門に掲げられた『私立白百合女学園』の校名を仰ぎ見る。
レトロな雰囲気をかもし出している門構え。その鉄格子の向こうには、レンガ造りの校舎が見える。色褪せてはいるが、どっしりと重厚感溢れる意匠をしている。
この古き良き伝統を現代に伝える名門お嬢様学校が、コンビニ探偵である俺の今回の任務の舞台だ。
依頼者の話によれば、何でもこの学園の生徒が何の前触れもなく意識を失い、そのまま眠りに落ちるという原因不明の事件が発生した。そこで、学園はその原因究明のため、俺の所属する探偵事務所へと調査依頼を行なったのだ。
そこで今回の事件を解決するためにはまずは現地調査が必要だと、探偵事務所の所長であるオヤジが、俺に学園潜入任務を課した。そして、丁度いいことに――俺にとっては悪いことに――今日から教育実習期間が始まるらしく、俺は今こうしてロングヘアーのカツラを被り、スカートスーツに身を包んで教育実習生に紛れようとしているのだった。
「全く、正気の沙汰じゃないぜ」
登校ギリギリまで登校をごねていたせいで辺りに他の実習生らしき姿はない。一緒に校舎まで行ってくれる人がいれば少しは気も紛れるのだが、それは叶わぬ夢ということか……。
任務だと割り切ればいいのだが、女装をして女子高に潜入するのはかなりの勇気が必要だ。男子禁制だとか、生徒たちに不信感を与えないためとか、もしもこの事件に犯人がいるなら気付かれてはいけないとか、女装するに足る理由は色々あるけれど、どうにも校門をくぐる踏ん切りがつかない。
左腕にした可愛らしいデザインの腕時計を見る。短針がもう少しで8の数字に差し掛かろうとしていた。事前に渡された資料には午前8時に会議室に集合の旨記述されていた。今なら走ればギリギリ間に合うといった所だ。
ため息を吐き出しつつ、俺は覚悟を決めて校門に一歩踏み込む。と、梅雨雲の隙間から差しこんだ光に思わず目がくらんだ。あまりに不意打ちだったので、足元がふらついて体勢を崩す。慣れないシューズでうまく踏ん張りがきかないせいもあり、大きく右へとスライドしていく体。そのまますっ転んでしまうかとも思ったが、顔面が何かにぶつかって俺の体を押しとどめ、転倒には至らなかった。
石造りの壁にでも激突したかと思ったが、俺がぶつかったそれはかなり柔らかかった。流石は名門校。生徒が怪我しないように壁にエアバッグでも仕込んでいるらしい。何と言うか天国にでもいるような心持ちだ。丁度天日で干したばかりのふかふかの布団に包まれているような感覚。このままこの物体に沈み込んでひとつになりたいとさえ思う。しかし、無情にもかすかに聞こえるチャイムの音が俺を現実へと引き戻す。
仕方なく顔を上げて姿勢を正すと、目の前には一人の女性が不思議そうにこちらを見つめていた。
年の頃は俺と同じくらい、二十歳前後といったところだろうか。漆黒のスーツ姿に長い髪。ややたれ目がちで何となく優しそうな印象を受ける。いやそんなことよりも、上着と白いシャツに隠しきれないほど自己主張しているバストが強烈なイメージとして俺の目に焼きついた。
なるほどあの胸が天然のクッションになって俺を救ってくれたというわけか……。
「あの……。支えてもらったみたいで助かりました」
男っぽい言葉づかいにならないように注意しながらお礼を言って、軽くお辞儀をする。
目の前の女性はなぜがキョトンとした顔でこちらを見ていた。まるで変なものでも目にしたような顔をしている。
俺はハッとする。
――まさか男だとばれた?
だとすれば、有無を言わさず通報ものだ。
もしかして、首に下げたネックレス型変声機がうまく機能していないのか? 今朝きちんとテストしたはずだが、万が一ということも無きにしも非ずだ。いや、そもそもこの格好がおかしいのではないだろうか? 男には分からなくても、女には一目で女性ではないと分かる何かがあるのかもしれない。いや、もしかすると――。無数の可能性が頭の中を駆け巡る。
ここで下手に行動を起こすのは事態を悪化させかねない。結果、俺は一歩も身動きが出来なくなる。背中に緊張が走り、ゴクリと喉が鳴る。ここは大人しく相手の出方を待とう。
と、女性はキョロキョロと辺りを見回すと、ぷっくりと膨らんだピンクの唇をかすかに動かし、
「私……ですか?」
小鳥がさえずるが如き美声で、首をかしげる。
俺は、無言でうなずいた。どうやら不審者だと認定されたわけではく、俺の彼女への発言を、自分へのお礼だと認識していなかったようだ。
変態疑惑から解放されホッと胸を撫で下ろす。にしても、ここには俺たち二人しかいないはずなのに、何だか変な反応だなと戸惑ってしまう。
改めて目の前の女性を観察する。
率直な感想だが、綺麗な人だ。生まれて十八年。美人と接する機会は少なからずあったが、彼女の美貌は今まで見てきたそれとは明らかに違うものだった。腰まで伸びた長い髪が背中越しに風に揺れてたなびき、それが朝日を受けて輝いている。その光景は神秘的で、まるで後光の差した女神のようだった。
それにしても、ついさっきおろしたようなパリッとしたスーツだ。アイロンのかかった清涼感のあるまっさらなシャツ。化粧なんかも全然していないように見える。このまま就職活動の面接に行っても違和感ないだろう。
と言うか、この時間にこんな格好でこんな場所にいるということは……。
「もしかして、あなたも教育実習で?」
「教育……実習……?」
「はい。この学園、今日から教育実習で、もしかしたら、あなたもと思ったんですが」
俺の問いかけに、女性は一瞬硬直したかと思うと自身の体を動かしてみたり、ペタペタと両手で全身の感触を確かめ始めた。しばらくして、唐突に動きを止めると自分の中で何か納得がいったのだろうか、校舎の方を見上げてボソボソと何かを呟いた。
何だろうか。もしかするとこれが不思議ちゃんとか電波系とかいうやつなのか?
「あ、いや、違うならいいんです。それじゃあ、私はそろそろ行きますね」
早々にここを立ち去ろうと校門へと向き直ると、
「いえ、そうです。私も教育実習で来ました」
予想に反して、満面の笑みが返ってくる。ようやくの普通の反応に少し安心する。これでどうにか話が出来そうだ。実習初日で色々と緊張していたんだろう。俺自身もさっきまで変にテンパっていたので、はたから見ればこんな感じだったかもしれないと思い苦笑する。
「ああ、やっぱり。そうじゃないかと思いました。私は、近藤ムツミって言います。同じ実習生同士、今日からよろしくお願いしますね。ちなみに担当は保健体育です」
首をかしげて、「コンドームツミ? さん?」と俺の偽名を反すうするように口にする女性。いや、コンドームにツミはないんだけどねと、心の中で突っ込みを入れる。
「あ、えっと、私の方は、赤糸真夜花です。担当は、生物です。こちらこそよろしくお願いしますね」
そう言って微笑む真夜花は、初めて会ったはずなのに、どこか懐かしい感じがした。