残丘
嵐。日が沈み始めた。木々は轟々とざわめき、私はぬかるんだ地面を駆ける。大粒の雨に打たれ、地面から顔を出した木の根に幾度も躓きそうになりながらも、私は走る。私は生きている。
こんなに全力で走っているにも関わらず、身体は冷たい。降頻る雨のせいかもしれないが、私はこれから自分が目にするであろう、一人の孤独な男の最期を想像して青ざめている。まるで死人のように青ざめている。
それでも、私は確かに生きている。
「君、思人はいるかい?」
「はい、います」
「告白は?」
「それが、情けないことに勇気がなくて・・・」
ひんやりとした空気が心地よい夜だった。真新しいベッドにピンと張られたシーツの上に寝転がる。そんな感覚で、素晴らしい艶出し加工の施された、ブラックウォルナット製の安楽椅子に座り、彼と語り合う。彼は私の命の恩人であり、私が仕える主人であったが、彼は私をほとんど自分と対等に扱ってくれていた。
「君はその女性のどこに惹かれたんだい?」
「強い意思を秘めたような瞳と、透明感のある白い肌です」
「彼女は美しいかい?」
「はい・・・白百合のようにとても美しいです。自分とは住む世界が違います」
彼と私が住む、長閑な田園の邸宅近辺にある小さな手作りのパン屋で働く女の子だ。私は彼女に会いたいがために、パンを買うときは必ずそのパン屋に足を運ぶ。ちょっとした立ち話ならしたことがあった。
自分には不釣合いな女性。
不釣合いな人間。
「君は彼女と付き合えるのなら、まず何をしたい?」
「一緒にいられるのなら何でも。そうですね、私が好きな映画を一緒に見たいと思います」
「では、答えてくれないかい?映画を見たりして・・・互いに心が通い合い、仲良く言葉を交わしたら、手を繋ぎたくなる。手が触れ合えば、やがてキスをしたくなる。口付けを交わしたら・・・わかるだろう?」
「身体を求めるということでしょうか・・・」
残酷な質問に答えながら、私は暖炉の炎に目をやった。火の粉が弾けては宙に消えて行く。まるで宇宙の歴史での人類のように。
私はまだ生き方を摸索していた。
「おそらく、君は彼女とSEXをしたら、そのうち彼女にあきるだろう」
「それはなぜです?」
「君は彼女の美しさに惚れたのだろう。女性の裸体は美しく醜い。SEXは彼女達から美を奪ってしまう。勘違いして欲しくないのだが、私も女性に関心が有り抱いたことがある。そのとき私は、その女性に対して快楽以外の何物も感じなかった。私は本当に美しいと思える女性とはSEXをしたくない」
私は彼の考えについていくことができなかった。彼は随分前から、女性を物としかみることができなかったのかもしれない。
彼が興味を持っていた物。
人生を費やした物。
50㎡の展示室。室温は25℃に、湿度は55~60%に保たれている。
床に僅かな隙間もなく敷詰められた、赤茶色の絨毯。コンクリートの壁面に施された、艶を抑えたブラウンで塗装された木目板が、この空間を粛々と保っている。
壁面には絵画が、床上には彫刻や宝石の類が、まるで試合開始から幾分か時が過ぎたチェス盤のように点点と並べられている。統一性はないが、なにかを意味しているような。彼に仕え半年ばかり過ぎた頃、未だに謎が解けなかった私は、この配置について彼に聞かずにはいられなかった。
「余計なことかもしれません。ですが、どうしてもお聞きしたいことがあるのです」
「なんだね。遠慮せずに聞いてくれ」
「はい、展示室の絵画や彫刻などの配置です。あの飾り方には、なにか意味があるのでしょうか?」
彼は私の質問を聞くと、優しく微笑んだ。いつもどこかしらに見て取れる虚しさが、そのときの彼には微塵もなかった。あのとき、私が崖の上に立っていたとき、私を呼びとめた彼の表情を思い出した。
いままでに二回きりの、純粋な微笑み。
「ありがとう。よく聞いてくれたね」
彼の展示室には多くの訪問客が訪れる。
この日は、専門家にクリーニングを頼んでいたコレクションの、残り五分の一が帰ってきた日であった。
「いつみても素晴らしい」
溜息混じりに言いながら、老紳士はアクリル版の向こうに閉じ込められた、延命された美を見つめる。家庭菜園が生甲斐の紳士の言葉は素人の私にもわかりやすく、彼も、この紳士と話すのを楽しみにしていたようだった。
「ミレー、ダ=ヴィンチ・・・奇跡だ。特にこのミレーの作品は・・・彼女の潤んだ瞳に吸い込まれそうだ。再会できて嬉しいよ」
「そうですね。彼女の瞳は、このレッドベリルよりもユージアライトよりも価値がある。この世界に唯一無二だからです」
「写真に収めることができないのが残念だ」
「あなたの心に刻み込めば良いのです」
「ハハハ、では私は心の中で彼女と結ばれよう」
彼は少なくない訪問客について、私にこう言ったことがあった。「彼らは皆、私に会いに来るのではないのだよ。展示室に飾られた芸術に会いに来ているんだ」と。
この言葉について私が思うに、なかにはそのような訪問客がいたかもしれないが、彼自身の心にある壁が、訪れる人全てをそう感じさせていた。証拠というわけではないが、私の前で彼のことを親友と呼ぶ人もいた。
だがもしかすると、例えばさきほどの老紳士との会話の続き。
「芸術は永く人生は短し。我々はやがて死を迎えます。筆舌に尽くしがたい審美をあとに残して、あなたは落ち着いて眠ることができますかな」
「はい・・・私も毎晩のように考えます。いずれ別れの日が来る。でも、/」
「そうだった。なにもこれらのコレクションは私のものではありません。申し訳ない。あなたはまだ若い」
他人がわずかだと感じられる会話のずれが、彼にとって油絵にできたクラックのようなものだとしたら?
「私にとって、この部屋は命そのものなのです」
訪問客が帰る頃、彼は決まってこの台詞を言った。
いつも決まった微笑みと一緒に。
そんな彼が、展示品の配置について語ったことは、当時は真意がわからなかったが、今ならはっきりとわかる。いや、そう思いたい。私が理解することによって、彼が少しでも救われたらと願うからだ。
私の願いは、まさか同情だろうか?傲慢だろうか?
「私の気持ちさ」
「気持ちですか?」
彼は私の疑問に答える代わりに、両手にコットンの白い手袋をはめ、手頃な大きさの、上半身が裸のブロンズ女性を、ショーケースから取り出した。
「もし私が手袋をはめて取り出さなかったら、誰かにとってこの像の価値が下がる。もし、私がこの像を床に落としたら・・・恐らく像には傷がつき、誰かにとってこの像の価値が下がる。けれど誰かにとっては、完璧に近い状態にある今のこの像が、なんの価値も持たないだろう」
「はい・・・」
「では、配置はどうだろうか?」
「・・・わかりません」
「同じことさ。ただ、この配置は私にしかできない」
彼の言葉には矛盾がある気がしたが、私はなにも言うことができなかった。黙ったまま、彼が抱えたブロンズ象に目をやった。
「ありがとう。嬉しかったよ。配置について聞いてくれたのは君が初めてだった」
「いえ・・・」
今ならわかる。数分前に私が見た展示室をみれば、誰だってわかるはずだ。
彼の過去の詮索はしないという約束で、私はこの邸宅に置いてもらっているが、昔からの訪問客の話から、この邸宅と展示室、さらには展示品の約八割は、彼の親の遺産だということがわかった。
「彼の父親は偉大だった。母親もそうだ。これだけ貴重な美術品を集めたんだ。僕には想像できないほどの金と人脈が必要だ」
私がよく話を聞いた相手は、二十代後半まで絵描きを志していたという、還暦を過ぎたばかりの大男だった。彼の父親の好意で、よく晩餐会に招待されたそうだ。遅くまで芸術論を交わしたこともあったという。
だが、しょっちゅう同じ話を繰り返すこの男も、彼と彼の家族についてほとんど何も知らなかった。彼が幼い頃、男と同じで、絵を書くことが好きだったことくらいしか。
「なけなしの金と、溢れるほどの情熱を注いで勉強していた僕に言わせてもらえれば、彼には絵の才能があった。まあ、こんなにも素晴らしいお手本に囲まれていれば、芸術の方が彼をほっとかないだろう」
だが、彼は絵で大成したのだろうか?その様子はない。
邸宅内に、彼の絵だと思われような絵は一枚もない。絵を描く姿をみたこともない。
「しかし、どの世界でも言えることだが、才能と努力だけでは成功しない。ほんの少しでいいから、他人よりも幸運に恵まれる必要があるのだよ。私はこれに恵まれなかった・・・」
男の考えには共感できた。私も夢半ばで挫折した身だ。死を求めるほどの絶望を・・・もう受け入れたつもりであっても、この苦しみは癒えることはないのかもしれない。
彼はなんの仕事もしている様子はない。なにやら執筆する姿をよくみかけるので、初めは作家かと思ったが、出版関係の人物がやってきたことはない。また、何らかの経営者でもなく、投資家でもない。何の肩書きも持たないとすると?
私が毎回のように彼について尋ねたせいか、ある日男はこういった。
「聞き込みが上手く行かないようだね。でもね、人は自分の過去ばかりを聞いてもらいたくなったら御仕舞いさ。彼は今も新しいコレクションを増やすために、人知れず努力しているのだろう」
その反対に人に話したくなるような過去がなかったとしたら?それはとても悲しいことだろう。過去は人にある部分では未来を与え、ある部分では未来を奪う。
私が彼について知っていることは、何も無いに等しかった。
何度脛を木の根に打ち付けただろう。手のひらを擦り剥いただろう。それなのに、こんな状況なのに、驚くほど冷静だ。風が私を導いているかのようだ。
行く先には、晴れた日には森を見渡せる崖と、濁音渦巻く滝、川の先に広がる青い海が見える。こんな日でなければ、雄大な自然の美を感じられる場所だ。
雨粒が私を呼んでいる。
きっと、私が彼のもとへ辿り着くまで、この嵐は止まないだろう。確かな根拠は無い。けれど、彼は私が来るまで待っていてくれるはずだ。
それにしても、彼はどうやってあんなに重たい彼のヴィーナスを運んだのだろう。
少なくとも私にとって、今日の嵐のように突然のことだった。いつかを境に、彼は自分の部屋に閉じこもるようになり、みるみるうちに痩せ細っていった。
私にできることは、毎日の食事を用意しておくことと、彼が部屋から出てくるのを待つことだけだった。
ただ彼は、展示室への訪問者を拒むことはせず、その時だけは、これまでのように彼が客人をもてなした。
最後に彼と一緒に食事をしたのはいつだっただろう。
部屋から出て、キッチンへトレーに乗った食事を取りにくるとき、彼はいつも「すまない」と言って部屋へ戻っていった。私が何か返事をすると、彼は「すまない」と繰り返すので、いつしか私は彼と口をきけなくなってしまった。そして食事が終わると、『ありがとう』という置手紙と空の食器を乗せたトレーが、部屋のドアの真ん前に置いてあった。
悲しいことに、私はいつしかこの彼とのやり取りに慣れてしまっていた。
柔らかそうな、冷たい石の芸術と唇を重ねる。
どんな感触がするのだろうか!
今思えば、この日が嵐の予兆だった・・・けれど私に何ができた!私に何が。
「私を軽蔑するかい?」
彼の部屋のドアは、なぜか半開きであった。そして、口づけの瞬間を、覗かれることを計算していたかのように落ち着いた口調で、彼は私に尋ねた。
「・・・・・・いいえ」
開いていたドアの前に立ち竦んでいた私は、否定の言葉を搾り出すのがやっとだった。彼の目には、羞恥の色も、喜悦の色も、哀愁の色も感じさせなかった。
単色のローズ・オーロラ大理石で造られた、絶世の女神。まるで命が宿るその姿には、瞳や乳首、へそなど、所々に宝石が埋め込まれている。一枚の布も纏わぬその姿には、美の精髄と、それと相反した妖艶さが漂っていた。
私はふと、完璧だと感じだ。
ワイルドの童話を思い出した。
「私を憐れむかい?」
質問の内容とは異なり、やや窪んだ彼の眼には、私の眼を射貫き焼き尽くすほどの眼精が宿っていた。決まった台詞以外の久しぶりに聞く声には、時の流れまでも凍らせるかのような峻厳が漂っていた。
私は震えていたかもしれない。
私が覗きみたことは、彼の思惑通りだったはずだ。それなのに、私は自分が詰問されているような気がした。
「いいえ。憐れだと思いません」
誓って本当だ。軽蔑も、憐れみも感じなかった。
たとえ一度でも、生きることから目を背けようとした私が、誰を軽蔑できよう。相手が命の恩人だとしたら、なおさらだ。
「では、私を気違いだと思うかい?」
「いいえ・・・ですが、あなたがどうしてそのようなことをしているのか不安がない、といえば嘘になります」
「不安!?」
私が聞いた最初で最後の彼の叫び声。
私は正直過ぎたのかもしれない。
『そのようなこと』がいけなかったのかもしれない。
火に油を注ぐなんてものではない。
燻っていた魂の怒りに、唾を吐いたのかもしれない。
生命の嵐。彼が立ち上がると同時に、部屋にあった、年代物だろう肘掛椅子が宙を駆けた。壁に仕付けられた書棚からは、読書人でない私にとっては厳しいくらいの蔵書が、次から次へと床へ飛び落ちていった。
おそらく、このとき私は泣きそうになっていた。
「君は私に対して不安を感じるのか!」
あとはなにも覚えていない。
私は殴られたのかもしれない。
もしくは頭部に置時計が飛んできたのかもしれない。
この邸宅が平静を取り戻したとき、私は自分のベッドの中にいた。机の上の『昨日は本当にすまなかった。忘れてほしい』という置手紙に気がついて、私はとりあえず胸を撫で下ろしてしまったのだった。
買い物から帰ってきたとき、玄関の鍵が開いていた。彼が閉じこもっている日々に慣れていた私は、嫌な予感がした。彼の靴を全て確認するより、部屋へ行った方が早い。私は走り出していた。
今だから言えることだが、もし窃盗団でもいたら、私のこの行動は愚かの限りだった。
「・・・・・・」
彼の部屋のドアも開いていた。私が掃除することができなかった彼の部屋は、意外にも塵一つなく綺麗に片付けられていた。
まず私が思ったことは、ただ単に彼が戸締りを忘れて外出した、ということ。「人生に失望したくなければ、常に最悪の事態を想像しておくことだ」という誰かの言葉に従って、私は、彼が誘拐されたということも考えた。
すぐに、目立つはずのローズ・オーロラの女神がいないと知ったが、私は盗難だとは思わなかった。彼女はいつも彼と一緒のはずだ。
部屋を見回っていると、光沢仕上げのマホガニー製書斎机の上に置いてある、クシャクシャになった一枚の紙が目に留まった。
『芸術は完成した瞬間からゴミになる。本を読むと私は欠けていく。宝石と石、私は石だ。私は!言葉を話せば話すほど、愚かになる。そんな気がする。かといって、沈黙も愚かだ。沈黙は孤独にする。いや、孤独しかない 幸せだ 不幸だ 幸福とは?なにがいけなかったのだ なにが!これは悪いのか?わるい?運命いきる しぬ あいと金 美しい こわしたい こわす こわす こわさなくては!』
紙の下敷きになった机には、たくさんの傷。マホガニー机は価値を失っていた。
ただでさえボロボロの紙はあまりの筆圧に所々破れ破れ、上品なはずの彼の筆跡は、理性を失っていた。
私の想像力は甘かったのだ。ただ文面には、爆発しそうな感情を抑えている跡が残っていた。微かな望みを胸に、私は急いで展示室へ向かった。
展示室に、泣きながら蹲っている彼がいた・・・だとしたら、どれだけ私は希望を感じられただろうか!やはり彼はいなかった。
展示室は死んでしまった。
彼に言わせれば、なにも変わっていないのかもしれない。けれど、心の中で崩壊していくことと、現実に破壊されることとは大きな違いがある。彼以外の人にとっての話だが。
ハンマーで粉々にしてくれ!自由になりたいんだ。
斧で切り裂いてくれ!魂を救い出してくれ。
壁に、床に、天井に投げつけてくれ!心に焼き付けた姿を、忘れないで欲しい。
まさか粉々になった彼等がそう叫んだのだろうか。上等な安らぎと、感嘆、己の存在のちっぽけさを感じられたこの部屋で、今や確かなものは私だけである。
なぜだろう、愛着がなかったわけではないが、私はこの展示室を受け入れることができた。頭の中は、彼のことで一杯だった。
やがていつかは訪れる終わりがきたのだと、彼に倣って私は彼等を抱きしめた。
気づかなかったとしたら、余りにも鈍感だ。あの崖の上で私の自殺を止められる人は、私と同じことをしようと思った人だけだ。今まで気づかない振りをしていた。
月夜のあの崖で、登山の休憩を?天体観測を?まさか。
「・・・家にこないか?何も心配することはない。好きなことだけすればいいし、何もしなくたっていい。一日中寝ていても。とにかく、私は君に生きて欲しい・・・」
「・・・話をしないかい。君の話が聞きたい。私は君と会えて良かった・・・」
彼の精一杯の優しさは、私に生きる希望を与えてくれた。いいや、希望だけでは言葉に余るほどだった。
私は本当に何もしなかった。どのくらいの間だったかは覚えていない。栄養バランスのとれた食事と温かいスープ、甘いデザートが私の前に並ばない日はなかった。
初めて自分のためではない涙を流した日から、私は部屋の掃除を始め、そのうち私は邸宅の掃除をするようになった。
本と睨めっこし、悪戦苦闘の末に料理を覚え、庭木の剪定も身につけた。いっぱしの技術を身につけるまでに、どれだけ彼の寛容さに助けられただろう。初めてビーフシチューが上手につくれたとき、「こんなに美味しいシチューを食べたのは久しぶりだ」と彼が言い、私は目に涙を浮かべた。
あの時初めて、私は生きることに喜びを感じた。
大地に終末の杭を打ちつけるように降っていた雨が止み、全てを消し去ろうとするかのごとく狂風が、薄闇に飲み込まれていく。
泣きっ面の大地を踏みしめる度に足元が揺らぎ、私の心もぐらついた。
細長いキャンパスのような空が見えた。突然、足が鉛のように重くなる。疲れがどっとでたわけではない。
空が綺麗に背景に収まったとき、その中央に彼がいた。大理石と宝石から生まれた美女と二人。私がこれまでに見たどの絵よりも見事な美しさ。
「やっぱり来てくれたね」
あのとき、「待ってください」と私を呼びとめたときの彼の微笑。同じだ。顔が青ざめ、心臓が凍りつきそうな私とは対照的に、彼は落ち着いた様子で笑みを浮かべている。
「君には色々と世話になった」
なぜ?なぜこんなときに私に礼を!
震えている。雨でずぶ濡れの身体が震えている。
死の匂いを感じ取っている心が震えている。
「君も私と話すのは久々だから、仕方ないだろう。私も正直なところ、考えてきた台本以外の言葉は喋れないかもしれない」
言葉が出ない。
彼に言いたいことは山ほどあるのに言葉が出ない。
今は、言葉がいらない瞬間ではない。言葉が、私の熱で伝えることが必要な瞬間だ。
それなのに声が出ない。
「私の家、土地、財産は君の好きなようにするといい。展示室は・・・君は知っていると思うが・・・あれは、あれはああするより他なかったんだ。ただ、他にも地下の金庫に宝石などがある・・・違う。こんなことじゃなくて・・・」
「私は、私はあなたがいないと生きる意味がありません!」
さきほどと一転して静寂漂う森の中に、私の精一杯の叫びが木霊した。彼の表情が険しくなった。
「・・・死ぬことは怖い。死は人間にとって恐ろしいものだ。だが・・・私にとっては死しか未来がない」
「そんなものは未来とは呼べません!」
「私にとって、死は幸福だ!死は全てを平等にしてくれる。喜びも、悲しみも、慈しみも、憎しみも。美に、愛に呪われた私を解放してくれる。囚われた価値観に縛りつけられた私を救ってくれる!」
「そんな、そんな馬鹿なこと・・・」
彼を助けてください!
彼を救ってください!
私の目から溢れる涙の滝は、彼を救えない。そして、きっと未だに轟然と咆えるあの滝が、彼の尊い命を奪い去る。私の方こそ気が動転しそうだ。
「私を許してくれ。私は君に出会えて幸せだった。ありがとう」
「どうして、どうして・・・」
許す?自殺を許せるはずがない!けれど、私にできることは・・・あの時と同じだ。
「私はこれから彼女と完全になる。最後に笑顔を見せて欲しい」
地面に膝をついて俯いていた私は顔をあげ、世界で一番悲しい笑顔をみせるしかなかった。
私は彼に生きて欲しかった。
強くなくてもいい、生きて欲しかった。
「ありがとう。そうだ、君に一つ言っておきたいことがある」
「はい・・・」
「あのパン屋の娘さんは、君に気があるよ」
「・・・・・・」
「本当にありがとう。さようなら」
「・・・あなたのことは、決して忘れません」
私の別れの挨拶は間が抜けていたかもしれない。私が彼について知っていたことは、何も無いに等しかったが、最期に、彼の険しい柵に囲まれていた心に触れることができた気がした。
彼は彼女を抱きしめて、永遠になった。
私は限りある命を、精一杯生きていくと誓った。
終わり