6 幽霊屋敷
夜の業務の手伝いも完了し、風呂も浴びてすっきりしたユジュンはスクールで出された宿題の続きを片付けにかかっていた。
最後の問題を解き終わったとき、クーガーが鳴いた。
『そろそろ、寝た方がいいんじゃねぇか』
「あ、ああ……そうだね」
時計の針は午後九時を過ぎた所だ。
明日の朝の業務に支障を来さぬように、少しでも長く出発まで仮眠を取ることにしたのだ。
「じゃあ、十一時になったら、起こしてね、おじさん」
ユジュンは掛け布団をめくってベッドに入ると、クーガーに目覚まし時計代わりを頼んだ。
『おう。安心して寝な』
「ウン……」
ユジュンはすぐに眠りに落ちた。
ユジュンが眠っている間、ベッド脇に伏せたクーガーは、毛繕いをしたり、生あくびをかみ殺したりして過ごしていたが、時間が来ると、ベッドの中で夢の世界に遊んでいる主人の頬を叩いて起こしにかかった。
肉球の独特な感触に、違和感を覚えたユジュンは夢の中から現実に舞い戻った。
「ふああぁぁ」
ベッドに身を起こしたユジュンは、立て続けに三度、欠伸をした。
眠い目を擦る。
「起こしてくれて、ありがとう、おじさん」
時間を寸分たりとも間違わない、優秀な犬である。
ユジュンは用意してあった、濃いコーヒーの入った水筒を取り出して、眠りを阻害するカフェインとかいう物質が入ったコーヒーを、顔をしかめながら一杯あおった。
寝覚めの一杯は効いた。
ブラックコーヒーは思ったよりずっと苦くて不味かった。大人はどうしてこんなものを好き好んでたしなむのか、疑問である。
荷物を詰め込んだリュックを背負って、準備を整えたユジュンは、
「さあ、行こっか、おじさん」
『おう。先に下に行ってるぜ』
階下へ続く階段を軽やかに降りていったクーガーを見送って、階段を収納した。
そして、出窓から垂らしたロープの結び目が緩んでいないことを確かめてから、そっと身を投げ出して、下り始めた。ぽんぽんぽん、と壁を蹴っては下へ進む。消防士の訓練のような身軽さだった。ユジュンはあっという間に地面に着地した。
裏口で待機していたクーガーと合流して、集合場所である噴水広場へと走る。
噴水広場までの道は、人気もなく、ひっそりとしていて街灯の明かりだけが煌々と静かに燃えていた。
この時間は商店も閉まっており、観光客の姿もなく、賑わっているのは夜の歓楽街ぐらいのものだろう。生憎とそんな土地にユジュンは縁がない。
広場には、テンとイリヤの姿が既にあった。イリヤの髪や白い肌は暗闇の中でも仄暗く輝いているようで、その神々しいまでの姿に、ユジュンは目を細めた。
「二人とも、早いね」
「時間を守らないと、また、あの、頭でっかちが、うるさい」
イリヤはワンショルダーの小さな背負い鞄を一つと、手にはランタンを持っていた。対するテンは何泊するつもりなのか、大きなバックパックを背負っていた。同じく、手にはランタンがあった。
「ボクはまぁ、ここで寝泊まりしとるし。みんなが来るのん待つだけやし」
「それもそっか」
あははと笑っていると、ユジュンから遅れること数分、ヒースが脚を絡ませるようにして、息せき切りながら現れた。
見れば、その髪には木の葉がくっついているし、顔や肘や膝には擦り傷を作っている。一体全体何をどうしたら、そんな有様になるのだろうか。
「時間通り、だな!」
髪についた木の葉を打ち払いながら、ヒースは懐中時計を確かめた。
「ヒース、なんか、もう、一仕事終えてきた、みたいな感じだね」
ユジュンが言うと、ヒースは大きく息を吸って、吐いた。
「まぁな、壁を攻略するのに手間取った。門には衛兵がいるからな。それを避けて木よじ登って壁に取り付いて降りたって寸法だ」
どうも、ユジュンと同じような方法をとったようである。
ヒースは肩掛け鞄を提げており、やはり身軽な格好だった。
「衛兵って、なんで家にそんなんおるん」
テンは半ば呆れて疑問をぶつけた。勿論、答えは期待していない。
「いるもんは、いるんだ。家庭の事情だ。それ以上はツッコむな、テンよ」
ヒースはいつもの調子でテンをあしらって、前髪を払う仕草をした。ヒースはちょっとキザというか、かっこつけだ。だから、深夜の探検でも服装に手抜かりはない。きちんとしている。
「うむ。メンツは揃ったな!」
最後に現れたにも関わらず、隊長は隊長らしい権限をもって、残りの三人をぐるりと見渡した。
「では、目的地に向けて出立する」
ヒースは軍隊がよくする、敬礼のポーズをした。ユジュンとテンもそれにならってポーズを取る。イリヤだけがワンテンポ遅れて真似をした。
「目的地、街外れの幽霊屋敷! いざ、ゆかん!」
一行は目的地である街外れの廃墟を目指し、出発した。
廃墟まではおよそ二キロ。子供の足で一時間といったところか。廃墟に近づくにつれ、街の風景は寂れ、街灯もなくなって、辺りは深夜の静けさの帳が降りている。
ユジュンたちはランタンに火を入れ、それぞれの明かりで道を照らして歩いた。
「人っ子一人おらへんなぁ……」
テンが大きな荷物を背負った背中を丸めた。
「草木も、生えてねぇ」
イリヤはかろうじて舗装されている道路の脇道をランタンの明かりで照らした。
「おうおう、いよいよらしくなってきたじゃねぇか!」
ヒースはご機嫌で先頭を歩いている。
「どう? おじさんの動物的直感」
『まだ、なんとも言えねぇな』
クーガーはユジュンの足下をゆったりと歩きながら着いてきている。
「おいおい、盛り下がってんじゃねーぞ、おまえら! 空を見て見ろ、雲一つない快晴だ。星の海が見えるぜ!」
ヒースの言うとおり、夜空は星で一杯だった。満点の星空。だが、
「今晩、満月やから、星の光も霞んでるで」
テンの指摘は正しい。星の光は、強い満月の光に抵抗出来ずに、なりを潜めている。
『坂道だな。山を登んのか』
クーガーが低く鳴いた。
「クーガーは、何だって?」
ヒースはさも当たり前のように、ユジュンに意訳を求めてくる。ヒースはテンの霊感はもとより、スピリチュアルな事象について興味があるので、ユジュンがクーガーの意思を理解出来るという奇っ怪極まりない事も、素直に受け入れて信じ込んでいる。全く疑っていない。
「うん、山を登るのかって」
「いや。山登りというより、坂道を上がるって感じだ。高台にぽつんと立つ屋敷らしいからな」
ぐるぐると、螺旋を描く坂道を登っていると、不意に視界が開けた。坂の頂上まで登り切ったのだ。
前方に、湖と、巨大な丸い月と、逆光で黒く塗りつぶされたような屋敷の影が見えた。まるで、巨大な影絵である。
屋敷は細い崖の上に建っており、湖の上に浮かんでいる風にも見える。
「すっごい……お屋敷が、月の中に建ってるみたい」
ユジュンは率直な感想をつぶやいた。
ヒースは鼻の穴を大きくして興奮しているし、イリヤは無感動な表情で屋敷を見据えるのみだ。テンは、ちょっと様子がおかしくなり始めている。
「目的地はすぐそこだ、行くぜ、皆の者」
ヒースは張り切って屋敷の方へ歩いて行った。それに、イリヤも続く。ちらり、とユジュンのことを気にかけながら。
ユジュンはそんなイリヤの視線と、立ち尽くしたまま動かなくなったテンを見比べた。
「テンちゃん、どうしたの?」
「う、うん……」
「ヒースとイリヤが行っちゃう。おれたちも行こ?」
屋敷の影を見た途端、テンの顔色が優れなくなった。足が棒になったかのように、その場に釘付けになってしまっている。
「わ、わかった」
テンはぴったりとユジュンの背後に取り付きながら、ユジュンと同じ歩幅でゆっくり歩き始めた。
「ここだな、入り口は」
門だった場所に、ヒースを中心に勢揃いして並び、目前の屋敷に目をやる。
門扉らしきものは、とうに雨風に晒されて錆び、鉄くずと化して地面に寝ている。朽ち果てた花壇や、散らかった園芸道具の数々。ぽっかりと口を開けた門から玄関までのアプローチは、障害物だらけで歩きにくそうだった。
「ヒ、ヒース!」
ユジュンの背中で、テンがガタガタと震えだした。
「あ? なんだよ、テン」
「ここ、ヤバいって! 絶対なんかおるって! ビンビン感じんもん」
ユジュンが振り返ってテンの様子を確かめてみると、テンは糸目なのでよく分からないが、両目を忙しく動かしているようだった。視線のターゲットを、目まぐるしく変えている。
「なにか、見えてるの?」
ユジュンが尋ねると、テンは大きく頷いた。
「骸骨の頭みたいなやつが、飛び回ってる……」
「悪い霊?」
「ただの、浮遊霊やと、思う」
「なンだよ」
ヒースがつまらなさそうにテンから目を離したそのとき、ユジュンは屋敷正面右の出窓に、人影を見た気がした。
「あ!」
「今度はユジュンかよ。どうかしたかよ」
「今、あそこの出窓に、女の人の影が見えたような気がする! ね、テンちゃん、見たよね?」
「み、見た!」
テンは完全にユジュンの影に隠れた。
「おまえらだけ、ズリーぞ!」
先を越されたヒースは、勝手に腹を立てている。
「見えないものが、見えるはず、ねぇだろ」
イリヤだけは落ち着き払って、冷め切っている。
「ハウスキーパーの霊だよ! やっぱり、いるんだ!」
ユジュンは興奮した。さっき見た出窓に映る女性の影は見間違いではなかったのだ。
「んじゃま、いっちょ、行きますか!」
ヒースが握った右手拳を左手のひらに打ち付けると、道と敷地を分かつ境界線を越えた。
ユジュンはランタンの光で足下を照らしながら、障害物をよけて慎重に歩いた。ただ、テンだけは荷物の中から発掘したお札を、全員の背中や腕などに貼り付け、『ナウマクサマンダオンアビラウンケンソワカ』などと、ぶつくさ真言を唱えていた。
「なンだよ、テン。こんなの効果あんのかよ」
ヒースは懐疑的である。
「ないよりかは、あった方がマシや」
「うっとおしい」
イリヤは腕に貼られた札を、剥がそうとしてテンに慌てて止められ、踏みとどまっていた。
「イリヤ! 護符なんやから、はがしたら、アカンよ」
「……」
イリヤは軽く舌打ちして、左の方を見た。
ユジュンもつられてそちらを見た。そこには、枯れ木にカラスが何羽も止まっている、という風景があった。うっそうとした森の如く、木はカラスの群れで埋まっていた。
「カラスか……」
イリヤが言うと、何羽かがカァァと鳴いた。
『奴らも、オヤスミの時間だ』
カラスを横目に、クーガーが一声鳴いた。
「護符なんか、なくっても、俺には、これがあるから、いい」
イリヤは胸元から、首飾りを引っ張り出して、テンに見せた。
それは先端の欠けた、逆十字のペンダントだった。
通称『死の欠片』。魔女が火あぶりになる際に身につけていたといわれる、曰く付きの呪われたアイテムだった。生い立ちが不幸なイリヤの悪運の強さなら、呪いに染まることなく逆に多少の害悪は跳ね返してしまうだろうとヒューゴーに与えられたものだ。呪詛返しのようなものである。
「なにそれ。まがまがしい……」
テンはそれを直視出来ずに、目を背けた。よっぽどのものが見えたのだろう。
イリヤはペンダントをまた胸の中に仕舞った。
玄関ポーチまでたどり着き、いよいよ入り口の戸を開けようと、ヒースが手をかけた。
「いいか、開けるぞ」
ギィィィ……乾いた、悲鳴のような音を上げて、両開きの戸は容易に開いた。錠前や鍵は朽ちて用をなさなくなっていたようだ。
中で待ち受けていたのは、闇。月の光がない分、暗さが際立つ。奥に行くほど、深い闇を屋敷は抱え込んでいるように見えた。
「うわー……雰囲気あるなぁ」
心なしか、空気も外より冷たい気がした。ユジュンは踏み込んだ玄関ホールへ突き進んで、辺り一帯をランタンで照らし見た。
「これでこそ、幽霊屋敷! ますます、らしくなってきたな!」
ヒースがランタンで照らした先に、大きなのっぽの古時計があった。振り子はもう動いていない。息の根が止まって久しいようだ。
テンはバックパックから、あと二つランタンを取り出して火を入れ、バックパックの左右に取り付けた。テンの半径一メートルが明かりで満たされる。ユジュンは何となく、ほっとした。
「埃だらけだ。それに、かび臭い」
ユジュンは素直な感想を述べた。横倒しになった家具類には埃が被り、壁はかびて臭いがきつい。
「うち捨てられてかなり経つらしいからな。こんなへんぴな場所だ、肝試しに訪れる好き者もいねぇ」
ヒースを先頭に、イリヤ、ユジュンと続き、しんがりはテンが務めた。まずは一階から順に部屋を回って探検が開始されたが、どこもかしこも家具がそのままで、一夜にして人だけが消え、無人の館となったような印象が強い。人の手が入っていない分余計そう感じるのだろう。
水瓶や包丁、まな板などが残る厨房を後にして、廊下を歩いていたときだった。
背後でぐしゃっと何かが潰れる音がして、
「ギャー!」
テンの絶叫がこだました。
ユジュンが後ろを振り返って、ランタンで照らすが、そこにいたはずのテンの姿がどこにもない。
「テンちゃん……?!」
ユジュンがランタンの光を闇雲に背後へ照らしていると、すっとやって来たイリヤがランタンの明かりを床に向けてしゃがみ込んだ。
「テン、大丈夫か」
テンはお尻からすっぽり、両手足を上げて床下に埋まっていた。どうやら床板が抜けて落ちてしまったらしい。
「う、うん……」
イリヤは右手に持っていたランタンを左手に持ち替えて、テンに向かって手を差し伸べた。テンはそれをがっしり掴んで、無事、引き上げられた。
「床が、腐って抜けてしもたんや」
「おまえ、運悪ぃな、テン!」
子供三人分の体重には耐えられても、四人の体重は受け止めきれなかった床板を、ヒースがあざ笑った。
「ヒース、ちょっとはボクの心配してぇや」
「してるって」
「ウソばっかり」
ぶーたれながら、テンはリュックの左右のランタンの火が消えていないか確かめていた。
「テンちゃん、ケガしてない? だいじょぶ?」
ユジュンはテンを心配したが、
「うん。ちょっとお尻打ったぐらい。いけるで」
意外と平気そうだった。
テンはチャイナ服に付いた木くずや埃を払っている。
「助けてくれてありがとうな、イリヤ」
「別に、いい」
テンとイリヤが和んでいると、そこにヒースが鋭くメスを入れた。
「テン、なんも感じねぇのか?」
「うん、いまんところは。浮遊霊がたまに見えるくらいで」
ヒースの問いに、テンはへっちゃらそうに答えていた。相変わらず、ユジュンの背にぴたりとくっついて歩いているものの、屋敷の外で見せた狼狽っぷりは今はない。はらはらとはしているが、怯えている様子はない。
これは空振りに終わるのかな、とユジュンが油断した後の事だった。事態は急変する。
「一階は、こんなとこだな。よし、二階へと捜索を広げんぞ」
玄関ホールへ戻って、二階に上がる階段を上る。一階は生活感がまだあったが、二階の部屋からはそれが消えた。
ユジュンの背後で、テンの息が乱れ始める。震え出す。
「どうかした? テンちゃん」
「う、うん……なんか、嫌な感じが、どんどんしてくるねん……」
ウゥーー。
クーガーも低く唸って、体勢を落としている。まるで危険を察知したかのように。
「おじさん?」
『ユジュン。俺は夜目がきく。気配も察っせられるぜ。この先に、何か、いる』
犬の視力は人間より悪く、近視だと言われているが、その視野角と動体視力には優れているという。また、暗闇でも光を感知する機能が働いて、僅かな光でもキャッチし、人間の八倍ほど感じているのだそうだ。
なので、夜目が利き、一行の中でも最も屋敷内の探索を楽に行えているのだ。
「なにかって、なに……」
ユジュンが言い終わる前に、不意に、ボーン、ボーン、ボーンと、時計の音がどこからともなく響いてきたのだ。
時計は全部で十二回鳴って、収まった。
「ヒース、今、何時?」
ユジュンはヒースにランタンの明かりを向けた。
ヒースはポケットからお気に入りの懐中時計を取り出して、時刻を確認した。
「二時前だ……」
「あれって、あれって、玄関ホールにあった、古時計の音やんなぁ? あれ、確かに壊れとったよなぁ?」
テンはユジュンの腕にしがみついた。
「落ち着け、テン」
イリヤが肩に手を置いていさめるが、テンの暴走が始まった。
「なんで壊れてるもんが鳴るん? ヒースにも、ユッちゃんにも、イリヤにも聞こえたやろ? ボクだけと違うやろ?」
「まぁ、聞こえはしたが……」
ヒースはうぅむと空いた方の手で口元に手をやり、何かを思案した。
「俺にも、聞こえた」
イリヤの答えは簡潔だ。
「壊れたのが、いきなり復活したとか?」
この場合、ユジュンのおちゃらけは逆効果だった。
「何十年もうち捨てられた廃墟の時計に、そんな奇跡あるわけないやん!」
恐慌状態のテンの怒りに火を付けてしまった。
「ともかく、先に進むぞ。ここで足踏みしてても、仕方ねぇ」
「アカンて、ヒース!」
悲鳴にも似たテンの声をよそに、取っ手のついた両開きのドアを、ヒースは一気に開けた。
お疲れ様でした。幽霊屋敷の探索はまだ続きます。
ブクマ、評価してもらえると嬉しいです。よろしくお願いします。
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