3 気の毒な妖精
母は本当に優しい、穏やかな性格の愛らしい女性だった。
ナユタは毎日、側でひっきりなしに訪れる、客とのやりとりを見つめていたが、母が声を荒げたり、罵ったりした所を見たことがない。誰に対しても静かで、冷静な語り口で接していた。そう、母はその場で誰かを呪い殺す瞬間も、禍々しい呪文などは唱えることなく、静かに実行していたように思う。それはあまりにもあっけなく、依頼者が不審がるほどだった。
だが、遙か遠方で敵対する標的は命を落としていて、後日現れた依頼者は狐につままれたような顔で成功報酬を払っていた。裏の世界で噂は噂を呼び、母の元を訪れる恨みを抱えた人間は後を絶たなかった。世の中は、どれだけの恨みで溢れているのだろうと、幼いながらナユタは空恐ろしい世界が存在するものなのだと、かなり早くから悟っていた。
母の力の実態はよく知らない。しかし、魔女と恐れられるには十分事足りる、異端の能力者であったと言える。
一方で、ナユタには優しかった。ただただ、無償の愛を注いで、大事に大事に育ててくれた。毎食、美味しい食事を作ってくれたし、買い物にも連れて行ってくれた。寝る前にはベッドの枕元で、毎晩絵本を読み聞かせしてくれたし、一緒に眠ってくれた。母の温もりを感じながら眠るのは、至福の時であり、最も安息を得られる時間だった。
突然、それを奪い去った村の住民たちの事は、今でも恨んでいる。いつか、なんらかの形で報復してやると、ふつふつと腹の底で恨みを煮詰めていた。そんな暗い感情はおくびにも出さず、その日もナユタは森へと分け入っていった。
拾った細い木の枝を振り回しながら、母の思い出を巡らして、ただ、森を歩いていたが、今まで遊んでいた所よりも深い場所へと迷い込んでしまったようだ。
そこは人の手が全く入っていない、原生林が広がっていた。辺りは静けさに包まれ、たまに風が吹いて木々の葉を揺らす音だけが響く。
戻るか、冒険心に任せてこのまま突き進むべきか、迷っていると、何か、人の泣き声のようなものが耳に入った。
「なんだろう…」
不思議に思ったナユタは、声の主を探して、近くの茂みを散策して回った。
すると、芽吹いて間もない、幼い木の枝葉の上に、ちょこんと腰を下ろす、小さな人らしきものを見つけた。
しくしくと涙を流しては両手で拭っている。
「君は、誰…?」
ナユタはしゃがみ込むと、その小さな人を眼前にした。
薄青く澄んだ水の色をした髪はほんのり緑がかっていて、涼やかで清々しく清潔感がある。横髪を頭の両端でお団子にしてまとめてあり、余った髪を胸に垂らして、サプライズレッドの髪飾りで縛ってある。残りの髪は腰まで伸びており、さらさらと風にさらされていた。
泣きはらした目は、熟したアメリカンチェリーの実の色をしていて、つぶらだ。
何がそんなに悲しいのだろうか、とナユタが観察するように見つめていると、それに気付いたのか、
「な、なによ! アンタ、あたしが見えるの?」
「うん、はっきり見えてるけど…」
「ああ! やっぱりあたしは出来損ないなんだ! 人間の子供に見つかっちゃうんだから!」
彼女は、そう言うと、また、しくしくと泣き始めた。
お手上げだ。ナユタは困り果てて、目を右往左往させた。
そして、今まで読み貯めてきた書物の知識を引っ張り出した。彼女はおそらく妖精だ。妖精はその羽根から出す鱗粉で身体を覆い、人や獣からその身を隠すと言われているが、彼女にはその発生源である羽根が見当たらない。根元で引きちぎられたように、痛々しい傷が背中に走っていた。
「君は、もしかして、妖精さん?」
「そうよ! そうだけど、仲間からハブられて、里から追い出された、出来損ないよ!」
どうやら、この森の深淵には、妖精の里があるらしかった。
「どうして、追い出されたの?」
「……あたしは、生まれつき、妖精が羽根から分泌する鱗粉を出せない体質なのよ。それで、いじめられて、虐げられて、挙げ句、とうとう里から追放されたのよぉ!」
その欠陥もちの体質から、里を離れて森で遊ぶ際に人間に発見され、里まで案内してしまう恐れがあるために、仲間から厄介者扱いを受けて、縁を切られたらしい。
ナユタはなんだか自分と重なる部分があって、その妖精に同情した。
「羽根はどうしちゃったの? 千切られたような痕があるけど…」
「文字通り、仲間に千切られたのよ! 二度と飛べないように、とっとと獣に食われるか、人間に見つかって標本にされるかしなってね!」
妖精の言葉は激しかったが、その間にも涙をぼろぼろ流しっぱなしだった。
「…良かったら、僕と一緒に来る?」
そのナユタの科白に、妖精はハタと顔を上げた。
「なに? 標本にして磔る気?」
「そんなことしないよ。僕が、その羽根ももとに戻してあげる」
「え……?」
妖精は泣くのを止めて、ナユタのヘテロクロミアを眺めた。
「僕はナユタ。君は何て言うの?」
ナユタは警戒心を持たさないように、努めて優しく問いかけた。
「……セラフィータ」
妖精はぽつりと呟いた。
「そう。セラフィータ。僕と一緒に行こうよ」
もう一度誘ってみると、
「う、うん……」
セラフィータは頷いた。
「よーし」
ナユタは木の枝から、全長十二センチ程のセラフィータを両手ですくうようにして持ち上げると、左肩に乗っけた。どんな素材で出来ているのだろうか、オーキッドピンクのドレスが手に心地よかった。
「な、ナユタ……どうやって、あたしの羽根をもとに戻すっていうの?」
「うん。魔方陣と言の葉を組み合わせて、治癒の術を施そうかと思って。折しも、今宵は満月だ。呪力の充満する魔術の使い所だよ」
「もとに、戻るかしら……」
「そこは、僕の知識の見せ所さ」
まかせて、とナユタは肩のセラフィータに自信を見せて、来た道を戻っていった。
「あんた、両目の色が違うのね」
「うん。生まれついての僕の特徴だよ」
「とってもキレイだわ」
毒づいてばかりだった、セラフィータがナユタを褒めた。それを自身でも不覚ととったのか、すぐに言い直した。
「両目の色が違うなんて、あんたも異端児ね!」
「それはどうも」
ここは褒め言葉として受け取っておこう。ナユタは道なき道、草をかき分け、沢を渡って屋敷までの道を正確に進んで、迷うことなく到着した。その間も、セラフィータはなんだかんだとうるさく、喋りっぱなしだった。妖精がこんなにも口が軽くて騒がしいとは思わなかった。もっと楚々とした存在かと思っていたのだ。憧れがまた一つ、無残に砕け散った。
しかし、セラフィータほど自己主張の強い妖精も珍しいのではないか。里から追放されるくらいだから、さぞかし煩がられていたのだろう。つまりは、鼻つまみ者だったのだ。
ナユタは屋敷に入ると、夕食をとるために食堂へ向かった。そこには既にユーリが着席していた。ナユタは指定席であるユーリの向かい側について、肩からセラフィータをテーブルの上に降ろしてやった。
「なんだ、それは」
ユーリがセラフィータを目にして、異物を見るかのような視線を送った。
「妖精だよ。森の奥で出会ったんだ」
「妖精? 羽根がないようだが……」
「うん。仲間に剥ぎ取られちゃったんだって」
「おまえが面倒を見るのか?」
「うん。そのつもりだよ」
「管理はしっかりとするんだぞ。世話を怠って、厄介事を起こさないようにな」
ユーリはナユタの上にセラフィータまで乗っかってきて、頭が痛そうだった。そのセラフィータは自由気ままにテーブルの上を歩いて、器に飾りとして盛られているブドウの粒をもぎ取っている。小さなブドウの粒も、セラフィータが持つとドッジボールくらいに見える。大きなそれを抱えて座り込めば、むしゃむしゃとかぶり付いて食べ始めた。
「妖精はやっぱり、木の実を好んで食べるの?」
自らも運ばれて来た食事に手を付けながら、ナユタはセラフィータに尋ねた。
「そうね、木苺とか、さくらんぼなんかが好きだわ。でも、あたしは人間の食べるものなら、何だって好きよ」
クッキーとか、パンケーキとか、とセラフィータは指折り数えた。その口の周りを葡萄の果汁まみれにさせて。
「妖精って雑食なんだね。知らなかった。ねぇ、ユーリ?」
「え。あ、ああ……」
突然話を振られたユーリは、意表を突かれて口ごもった。
「彼女、セラフィータって言うんだ」
「セラフィータ……」
ユーリは妖精の名を口の中で転がした。
「今晩の満月を利用して、羽根を治してあげようと思って」
「そうか。妖精は希少種だから、丁重に扱うように」
「はーい」
ナユタは元気に返事をして、食事を進めた。
夕飯の後はナンシーに手伝ってもらいながら、風呂を浴び、ホカホカになって部屋へと戻った。デスクに座って一冊の本を参考に、紙にマジックで魔方陣を描く。慎重に、正確に、間違いのないように。それを出窓のスペースに敷いて、その上に水晶玉を置くようなクッションを噛まして、セラフィータにその上で休むよう言い渡す。
「セラフィータ、ここに乗って」
セラフィータは出窓の上を歩いて、魔方陣の上に置かれたクッションに俯せになって埋もれた。
「これでいいかしら?」
「うん」
都合良く、今宵は晴れ。月光が窓から白々と差している。
「『アナトゥール・ラナトゥール・クウェノニナ』」
ナユタが呪文を唱えると、魔方陣が青白く光を放って発動した。
更に追い打ちをかけるようにして、
「ひとひらの言の葉を」
合い言葉を呟いて、心の目を開く。
「月の女神アルテミスよ、その穏やかなる光で、かの者の傷を癒やせ。『再生』」
ナユタの身体から薄い緑色の光が放たれ、言の葉を唱えることで、その光がセラフィータにも移った。無残に傷ついたその背の羽根の付け根からも光が線になって宿り、一ミリ、一ミリと少しずつだが、確実に羽根の再生が始まった。紙を火で炙って燃やす情景を巻き戻しにしたかのような感じだ。
「これで、明日の朝には元通りになってると思う」
「仰向けになっちゃいけないの?」
「なるべくなら、再生を阻害しないように、俯せで眠って?」
「わかったわよー」
セラフィータは顔をクッションに埋めて眠りに誘われるようにして寝た。
それを見届けたナユタも、ぬいぐるみたちの待つベッドの上に乗っかって、眠りに落ちた。
翌朝、ナユタはハエにたかられる夢を見て、目の前を手で振り払う動作をした瞬間に目を覚ました。
「きゃあ!」
目の前を飛んでいたのはハエではなく、セラフィータだったようだ。哀れ、セラフィータはナユタの右手のひらに平手打ちをもろに食らって、ぽとりとベッドの上に落下した。
「あっ、ごめん。セラフィータ!」
「なんてことすんのよ! 折角羽根が再生したって、お礼を言おうと思ってたのに!」
その場に立ち上がったセラフィータは両の腰に拳を置いて、ぷりぷりと怒りを露わにした。
背中からは四枚の羽根が四方に向かって生えていた。透き通っていて、それでいて虹色に輝く、美しい妖精の羽根だ。
「もう、お礼なんて言ってやんない!」
セラフィータは羽根を震わせて宙に浮かぶと、ナユタの目前まで上がってきた。ふん、とそっぽを向いて、すっかりご機嫌ななめだ。
「良かった。飛べるようになったんだね」
そもそも、お礼を言ってもらうために治してやったのではないので、それより羽根が無事再生されたことがナユタにとっては収穫だった。
「おかげさまで!」
「もう、怒らないでよ……」
我の強いセラフィータに、ナユタは早くも振り回されて、手こずっていた。女の子ってこんなに面倒臭いものなのかな、と接したことのない異性について考える。
そうこうしているうちに時間が来て、ドアがノックされると、ナンシーがナユタの今日着る衣服を腕に掛けて入室してきた。
「おぼっちゃん、お目覚めですか?」
「うん。おはよう、ナンシー」
ナンシーが尋ねてくる時間は毎日決まっている。ナユタは大体その時間の十分前には目が覚めるというサイクルが出来上がっていた。
ベッドから降りて、ナンシーに手伝われながら、衣服を着替える。はっきり言って、服くらい自分で着られる。でも、ナンシーがそれが自分の仕事だと主張を曲げないので、半ば流される形でナユタは身を任せていた。風呂で背中を流してもらうのも、その後の寝間着を着る際もナンシーに手を貸してもらうのが、ほぼ通例となっている。こんなに甘やかされて、自分がダメになってしまわないかと、ナユタは自分を見失わないように気をつけている。
「着替えくらい、自分で出来ないワケ?」
セラフィータがからかうようにして、ナユタの周りを飛び回る。
「出来るけど……」
「あら、かわいらしいお友達が出来たんですね」
姿を隠す鱗粉を出せないセラフィータは、大人の人間の目にもはっきりと映るようだ。妖精の姿は幼い子供であるほど、見つけられやすいという事情がある。鱗粉で身を覆っていても、純粋無垢な子供の目には映ってしまう事がある、と本にはあった。
「うん。セラフィータって言うんだ。昨日、森で見つけたんだよ」
「へぇ……妖精さんですか? 六十年近く生きてきて、初めて見ましたよ」
ナンシーは軽やかに飛び回るセラフィータを物珍しそうに目で追った。
「はい、出来ましたよ」
ナユタの着せ替えが終わって、ナンシーに背をぽんと叩かれた。ナユタの着る服は毎日違ったデザインの子供服だった。誰の趣味かは分からないが、センスは高く、贅沢な話である。
そのまま、ナンシーの案内で朝ご飯を食べるべく、食堂へ向かう。たどり着いたそこには、やはりユーリの姿があった。
「おはよう、ユーリ」
「ああ。おはよう」
朝の挨拶を交わすのも、最早通過儀礼である。
ナユタが席に着いたと同時に、鳩時計が午前七時を示して七度鳴いた。朝食が運ばれてきて、ユーリとナユタはそれに手を付けた。
「セラフィータは何を食べる?」
「そうねぇ。フレンチトーストと、その苺をちょうだい」
食卓を眺めて、セラフィータは遠慮も思慮もなくそう所望した。
ナユタは言われた通りにフレンチトーストの柔らかい部分をナイフとフォークで切り取って、セラフィータに与えた。白い器に盛られた苺も目前に置いてやる。
「苺は尖った方が糖度が高いから、先っぽから食べるといいよ」
そう、アドバイスまで付けてやると、
「そうなの? ナユタって物知りなのね」
セラフィータは感心しつつ、フレンチトーストにかぶり付いた。
「無事、羽根は再生されたんだな」
一心不乱に食事をしている妖精の姿を見て、その羽根が元通りになったことをユーリは察したようだった。
「ええ、ナユタが治してくれたの」
「美しい、七色に光る羽根だな」
ユーリにそう賛辞を贈られても、天邪鬼なセラフィータは口の周りをフレンチトーストまみれにしながら、後ずさった。
「どうせ、あたしは鱗粉を出せない、欠陥品よ」
「褒めているのに、随分と卑屈な妖精なんだな」
「ずっとこんな調子だよ」
ナユタは如何にも困っています、という風に、大仰に溜息を吐いた。
「里には帰らないのか」
「追い出されたのよ!」
ユーリにセラフィータは食ってかかった。今はまだ、それは禁句だ。
「妖精が人間の世界で生きていくのは苦労が多いのではないのか」
「しょうがないじゃない、おん出されたんだし、他に行く当てもないし! あたしははぐれ妖精なのよ!」
セラフィータは最後の一口を口に収めて、今度は苺に挑みかかった。
「ちょっと、僕と身の上が似てるでしょ」
「そういえば、そうだな」
ユーリは嘲笑めいた笑みを口の端に浮かべた。
「妖精が雑食だとは思わなかったが」
「セラフィータはどこで人間の食べ物の味を覚えたの?」
「友達に、鱗粉をかけてもらって、貴族のお茶会にお邪魔しては、色んなおやつをつまみ食いしてたの。それが元で、おまえの行いのせいでいつか里の存在がバレるかも知れないって、追い出されることになったのよ」
「身から出た錆だね」
「実際、子供に見つかって、里まで追っかけられそうになったこともあったしね」
「ふぅん。反省はしてないの?」
「あたしは悪くないわよ! ただ、長老が心配性過ぎただけで!」
「そんなだから、里を追い出されるんじゃないの」
ナユタはクスクスと笑った。
それにしても、再生されたセラフィータの羽根は見事だ。朝の光を浴びて、その影が白いテーブルクロスの上にステンドグラスのように落ちている。鱗粉は出せないかも知れないが、それでも十分七色に輝いて美しい。羽根自体が、うっすら発光しているようでもある。これは薄暗い廊下を歩いている時に、ナユタが発見した特徴だった。
昼下がり、ナユタはセラフィータにせがまれて、花園を歩いていた。整備された鑑賞用の庭は色とりどりの花が咲き乱れ、艶やかだった。微かに、甘い匂いも漂ってくる。
「妖精の里ってどんな所?」
ふと、ナユタはそんな質問をセラフィータにぶつけていた。
「そうね、ちょうど、この花園みたいな感じかしら。一言で言うなら、楽園、ね」
「そっか。帰りたくはない?」
「あ、あんな場所、こっちから願い下げよ! 頼まれたって戻ってやるもんですか!」
強がりを言って、セラフィータはナユタから離れると、薔薇園の方に羽根をはためかせ、飛んで行った。
生まれ故郷を捨てて、ひとりぼっちになってしまった、セラフィータ。帰りたくないわけがない。叶うなら帰りたいだろう。だが、それは彼女の高いプライドが許さない。まだ、郷愁より同胞への怒りや憎しみが勝つのだ。飛び出してすぐだから、本人の中でもまだ整理がついていないに違いない。
そういえば、あの嵐の夜に自分が犯した罪の行方はどうなっただろう。あの女は死んだだろうか。それとも、しぶとく命を取り留めただろうか。どっちにしても、もう過去のこと。ナユタには気にも留めることもない、些末なことだった。
どうでもいい。
それが現在の心境だった。