18 イリヤの身の上2ー腹の中に宿す炎
だが、やさぐれていたイリヤは、教会の規律に背いて、お務めもろくに果たさなかった。好きな時間に寝起きし、食事を食らい、勝手に外へ出てケンカ三昧の日々を送った。
ある日、今日はどこを流そうかと思いながら歩いていると、路地の奥から事件の匂いがプンプンした。
覗いてみれば、小さな子供が、年の頃、十七、八歳の男三人に囲まれていた。
「坊主、金持ってるんだろぉ」
「こ、これは、一ヶ月分の宿の食材の代金なんだ! 渡すもんか!」
小さな子供はいたいけに、金の入っているであろう巾着を背に隠して、少年たちに向かって必死に威嚇している。
情が湧いた訳ではない。ただの気まぐれで、イリヤはその子供を助けてやった。
ものの見事に三人の少年を締め上げ、二度と絡めないように腕の一本や二本は頂いた。
少年たちは尻尾を巻いて逃げて行った。
「ありがとう、おにいさん!」
助けてやった子供が、無邪気に抱きついてきた。
デジャヴか、リィヤがよくそうしていたのを思い出して、イリヤの胸の奥がチクリと痛んだ。
なんだ? この痛みは。
子供は濃藍の髪に、左右の目の色が違う、ヘテロクロミアだった。左が忘れな草色で、右が薄浅葱色。大変珍しかったので、イリヤは見とれてしまった。
「おにいさん、名前はなんていうの?」
「イリヤ」
「ふぅん、イリヤっていうんだ。キレイな名前だね。おれは、ユジュン。宿屋の息子なんだ。これから納期のお金を払い込みに行くとこだったんだ」
ユジュンは純粋な目でイリヤを見上げてくる。
「イリヤはどこに住んでるの?」
「そこの、教会」
「教会の人なんだ? エラいね。神さまに仕えてるんでしょ?」
神になんて仕えていない。どっちかいうと自分は背徳者だ。
そう、答えたかったが、その語彙力をイリヤは持ち合わせていなかった。
それが、ユジュンとの出会いだった。
ユジュンは不思議な空気の持ち主だった。一緒にいるだけで、気分がホワホワしてしまう。ともすると、陽だまりの中にいるような錯覚に陥る。かといって、イリヤの破壊衝動を抑えられるわけでもなかったが。
それから、毎日のようにユジュンはイリヤの顔を見に、教会を訪ねてくるようになった。
鬱陶しかったが、不快ではなかった。
「イリヤの髪ってプラチナブロンドで、とってもキレイ。目も、青く澄み切ってて、なんか、シベリアンハスキーみたいだね」
礼拝堂のベンチに座って、ユジュンはやたらとイリヤを褒めた。
それが憧れの眼差しであることに、イリヤはもちろん気付いてはいなかった。
外に出ても、ユジュンがちょろちょろ後を着いてくる。
放って置いたが、ケンカに巻き込むのは気が引けた。
そして気付く、自分が誰かを思いやっている現実に。
ユジュンなんてどうだっていい。どうなったって構わない。自分は人を殴りたい、傷つけたい。ぶちのめしたい。その欲求だけがむくむく膨らんでいった。
結果、ユジュンのいる前で、イリヤはケンカに興じた。
たった十一歳の少年が、一人、修羅が如く大勢に立ち向かって、千切っては投げ、千切っては投げ、を繰り返す。ユジュンは物陰に隠れて、その恐ろしいケンカ絵巻を震えながら見ていた。
だが、イリヤが抵抗出来なくなった、最後の一人にトドメを差す瞬間、ユジュンが飛び出して来た。
「ダメー!」
「?!」
咄嗟のことで、イリヤの判断が遅れた。
ゴツンと骨と骨がぶつかる音がした。イリヤの拳はケンカ相手の少年ではなく、ユジュンのこめかみからまぶたにかけてにヒットしていた。
ユジュンはその場に崩れ落ちた。
「ユジュン!」
イリヤは蒼白になって、ユジュンを抱き起こした。
ユジュンはまぶたの上が切れて流血していた。みるみるうちに紫色に変色して腫れ上がり、満足に右目を開けられなくなった。
「ユジュン! なんで!」
「だって、イリヤ……」
ユジュンは震える手で、イリヤの傷ついた拳を握った。
「人を殴ったら、ダメだよ。殴った、イリヤの拳も痛いでしょう?」
殴った拳が痛むのは、当然のことだ。それが人を殴る代価だ。だが、イリヤのターゲットはユジュンではない。望んでやったことではない。傷つける意図はなかった。
しかし、実際に傷んだユジュンを目にして、自分がやってきたことを、イリヤは唐突に回顧した。これまで、どれだけの人間を痛めつけてきた?
「泣かないでよ、イリヤ……」
イリヤは知らず、泣いていた。母親に虐げられても、決して泣かなかった自分が、ユジュンを思って泣いている。
そのときイリヤは初めて知った。人を殴る意味と、他人の為に流す涙の意味を。
「ごめん、すまない、ユジュン、許して、くれ……」
イリヤはユジュンの小さな身体を抱き締めて、滂沱の涙を流した。
その一件以来、イリヤは暴力行為で鬱憤を晴らすことを止めた。
従順に教会の規律を守るようになり、お務めにも励むようになった。
そんなイリヤの変化に目を瞠ったのは、ヨシュアとジュートだった。あのイリヤがどういう風の吹き回しかと。遠巻きに見ているだけだった二人と、親交を温めるようになったのもその頃だった。
そして、ヒューゴーからは、先端の欠けた逆十字のペンダントを渡された。
「イドから預かってな。おまえに持たせて欲しいと。通称、死の欠片と呼ばれる、魔女が火あぶりになる際に身に付けていたという、曰く付きのアイテムだ。おまえの悪運の強さなら、呪いに染まることなく、多少の害悪は跳ね返してしまうだろう、と。ま、呪詛返しみたいなもんだ」
「ふーん」
イリヤにはヒューゴーの言っていることの半分も分からなかったが、その曰く付きのペンダントを首からかけた。
「それからな、おまえは血の気が多いから、別の方向に逃がさにゃならん。でだ。明日っから、街の道場へ通え。そこで、格闘術を習うんだ。いい精神修行にもなるだろうさ」
そうして、イリヤは我流ではなく、正しい型を踏んだ芸術とも言える格闘術を週三で習うことになり、以来、誰かを殴りたいという欲求に駆られることはなくなった。
自分を変えてくれたユジュンは、イリヤにとってトクベツだ。
そして今現在に至る。
今、母親とリィヤがどうしているかは知らないが、彫金師の父親とは定期的に工房で会って、話をしている。イリヤがシルバーのアクセサリを身に付けているのは、父親からプレゼントされるからだ。手に余る分は、ユジュンに譲ったりしている。
でも、今でもイリヤは宝石のような美しい顔をしていながら、腹の中に禍々しい炎を宿している。それは、変えられない。もって生まれた性だ。
昼食は、ヒューゴーお手製の、『ゴーヤーの味噌炒め、旬の野菜うどん』だった。腹を落ち着かせてから、黒いセーラーカラーの上下に着替える。それが外出する際に決められた服装だからだ。噴水広場に向かう手前、イリヤは教会裏の広場に立ち寄った。
「地球の果てまで飛ばすぜぇ!」
と振りかぶって球を投げるジュートと、
「来い、来い~~」
と、バットを構えて腰を振るヨシュアがたった二人で、法衣のままの格好をして野球ごっこをしていた。
「あ、イリヤ!」
ゴムボールをまさに投げようとしていたジュートが、イリヤの存在に気付いて、モーションを途中で止めた。
「イリヤ、キャッチャーやってよ」
金属バットを握りしめていたヨシュアが、左打席から振り返った。
「俺は、これから、噴水広場に、行く。ギルにでも、頼め」
「だってぇ、ギルっていけずなんだもーん」
ジュートが、遠くから叫ぶ。
「じゃあな」
イリヤは二人に背を向けると、広場を後にした。
噴水広場にはいつもの面子が顔を揃えていた。
「あ、イリヤ!」
イリヤの姿を一番に見つけたユジュンが、手を振っている。
イリヤはそれに答えて、手を振りながら、噴水に近寄った。
「昨日は、大変やったなぁ。イリヤ、教会のお務めに支障なかった?」
ユジュンの隣に座っていたテンが、気を利かせて隣に退き、イリヤに場所を譲った。
「なかった。おまえの、じいさんに、傷も治して、もらったからな」
テンが開けた場所にイリヤは腰を下ろした。
ヒースだけがイリヤには無頓着で、何やら広げた紙を見つめて、ウンウン唸っている。
「なに、唸ってんだ、おまえ」
「ん、あ、ああ……残りの都市伝説だよ。六個の場所と言い伝えはほぼ掴んでるんだが、この、最後の一つ、『夜な夜な試合をふっかけて回る女の霊』の場所がどうしても割れねーんだ」
ヒースは赤いボールペンで、その一文が書かれた下に、繰り返しアンダーラインを引いた。線が重なって、何重にもなっている。今にも紙が破れそうだ。
「そういうの、詳しそうな、ヤツを知ってる」
イリヤがそう無感情に言うと、ヒースが掴みかからんばかりの勢いで、
「マジか!」
と、身を乗り出してイリヤに顔を寄せて来た。
「近ぇ……」
イリヤは迷惑そうに片手でヒースの顔をどかした。
「話、聞くなら、今から、行くか?」
「行く! 行くぜ! なぁ、おまえら!」
ヒースが鼻息も荒く、ユジュンとテンの顔を見やった。
「う、うん。おれは別にどこに行くのもいいけど」
「イリヤが進んで事を運んでくれるのは、珍しいねぇ」
ユジュンとテンは、イリヤがヒースに助け船を出したことに驚いている。
まぁ、実際、ギャーギャーうるさいヒースのことは、イリヤは半ば無視を決め込んで相手をしなかったし。珍しい事象であることは違いない。
「じゃあ、行くか」
善は急げとイリヤは立ち上がった。
「これから、会いに行くヤツは、ただの人間じゃ、ない」
「はぁ? 人間じゃなかったら、何なんだよ?」
ヒースが、イリヤの前に出た。
道案内役のイリヤを先頭に、歩き出した一行は、隊列を組んだりはしない。それぞれ好きなペースで歩いている。
「それは、会ってみれば、分かる」
別に、イリヤはもったい付ける気はない。ただ、説明するのがめんどかった。
大通りを抜け、繁華街から遠ざかり、観光客も寄りつかない、さもしい通りに差し掛かった。
「おい、この先ってスラム街じゃねーのか?」
ヒースはいつの間にやら、テンに取りすがって歩いていた。腰が引けている。
「そうだ」
イリヤは勝手知ったる区画を、迷わず歩いて行く。
「怖いのか?」
「ばばばバカ言え! オレみたいなお歴々なんかは、すぐに目ぇつけられて襲われんのがオチなんだよ!」
「心配すんな。目的地はスラム街の手前だ」
そう答えてから、ふとイリヤは隣に歩いているユジュンを見て、柔和な笑みを浮かべた。
「おじさんも、不埒な輩が襲ってきたら、追っ払ってやるって言ってるよ」
ユジュンの足下で悠々と歩を進めているクーガーが、一声鳴いた。
イリヤがやって来たのは、街の再開発の果て、うち捨てられた旧市街地だった。かつて、美容院だったと思われる建物の前で足を止める。
正面に飾られた看板は、『バーバー何とか』と、屋号が抜け落ちて傾いていた。
「こんなとこに、誰か住んでるの?」
そう、ユジュンが疑問に思うのも無理はない。それは、ここにいる三人の総意だろう。
イリヤが扉を押すと、施錠もされておらず、いとも簡単に開いた。
「おい、イド!」
イリヤは声を張り上げた。
店の中に足を踏み入れる。
だが、あとの三人はそれを踏みとどまっている。何故なら、店の中は家具や用具が横倒しになって荒れ、不要品やゴミなどで足の踏み場もなかったからだ。
それを、人はゴミ屋敷と呼ぶ。
イリヤは手慣れたもので、ゴミとゴミの隙間に足を下ろして、一歩ずつ確実に歩みを進めていく。イリヤの歩いた後を、ぎこちない足つきで、三人も着いて来る。
「おい、イド、いねーのか!」
再度、イリヤは声を張ったが、返答はない。
「ちっ、留守か」
イリヤは舌打ちした。
やがて、不要品の海を越えて、二階に続く階段までたどり着く。
階段を上りきった二階には、清潔に保たれた、人が住んでいるらしい気配のある部屋が広がっていた。




