17 イリヤの身の上1ー鬼の子
イリヤの朝は早い。
早朝五時。まだ、夜も明けきらぬうちから起き出して、共に暮らす仲間を起こして回る。
部屋には二段ベッドが三組、ぎゅうぎゅう詰めで設置されている。
まず、隣のベッドに寝ている、ジュートとヨシュアを起こしに掛かる。二人は赤の他人なのに、まるで双子のように性質や仕草が似通っていて、最近のブームはノリツッコミだったりする。
二人はイリヤより一つ年下の十一歳である。
イリヤはまず、上に寝ているヨシュアから起こした。
「おい、ヨシュア。起きろ」
「う、うーん。もう朝?」
ヨシュアは半身を起こして、欠伸をした。
その次は下に寝ているジュートを起こす。
「おーはよー。今日もいい朝だねぇ」
ジュートはやはり、半身を起こすと、思いっきり伸びをした。
この二人は比較的寝覚めも良く、一度声をかければ素直に目を覚ます。
問題は、最年長、十四歳のギルだ。
ギルは二段ベッドの上下を独り占めしていて、その日の気分で寝る高さを変える。狡賢いし、作業もよくサボるし、飄々としていて掴み所がなく、神父であるヒューゴーの言葉も中々聞こうとしない。いわゆる『反抗期』というやつらしい。
「おい、ギル、起きろ。朝だ」
イリヤは掛布を剥ぎ取り、ギルの胸ぐらを掴んで乱雑に揺さぶった。これでも起きない。イリヤは容赦なく、右手でギルの頬を往復ビンタした。
「いてぇ」
ようやっと、ギルが起きた。
最後は、イリヤの下のベッドで眠っている、最年少のハイネだ。まだ、七歳と幼い。
イリヤはさっきのギルの時とは打って変わって、優しい手つきでハイネの肩を揺すった。
「ハイネ、起きろ。朝だぞ」
「……おはよー、ごさいます、イリヤ」
大人しく、ハイネは目覚めた。このハイネは臆病で、あまり話をしない。ちょうど、イリヤの実の弟と同い年なので、どうしても重ねて見てしまう。だから、イリヤはハイネには特別優しかったし、面倒をよく見てやっていた。
この四人の仲間たちと、イリヤは寝食を共にしていた。
朝一番にやることは、みそぎだった。
神に仕える身として、早朝のみそぎで身体を清めるのだ。白いワンピース状の寝間着のまま、教会裏の井戸までぞろぞろと一塊になって歩く。
ポンプ式の井戸から水を汲み上げて桶に移し、頭から被る。それを各自三回ほど繰り返して、ついでに顔も洗ってしまう。
「ひゃー、だんだん、水が冷たい季節になってきたなぁ」
ヨシュアが震えながら、両腕を組んでいた。
「目がさぁ、冷めてさぁ、スッキリするから、いいじゃん」
そんなジュートの背後から、ギルがイタズラで冷水を頭の天辺にぶっかける。
「ひゃあああ! 何、すんのさぁ、ギル!」
ジュートが抗議するが、ギルは涼しい顔をして、どこ吹く風だ。
「つ、つめたぁい……」
「一気に、被れば、平気、だから」
躊躇しているハイネを見かねて、イリヤは手を貸してやる。汲んだ井戸水を、ハイネの頭から勢いよく掛けてやった。
「うひゃあああ」
ハイネは水の冷たさに、その場でジタバタした。それを三度。最後にはハイネは小さな身体をぶるぶると震わせていた。
「どーしたんだよ、イリヤ。その傷。昨日まではなかったろ。おまえ、昨日帰ってくんの遅かったもんなァ」
ギルはなんにも興味がないフリをして、その実、周りをよく観察している。
化け猫に噛まれた傷は、テンの『じぃちゃん』に看てもらってから、その上で治癒術という不思議な力でもって治してくれた。縫う必要もなく、傷跡が多少残るくらいだ。
寝間着が水で肌に張り付いて、傷跡が透けて見えたのだろう。
「猫に、噛まれた」
嘘はついていない。正確には化け猫に、だが。
「ふーん? 猫、ねぇ」
ギルは納得はしていないようだが、それ以上突っ込む気もないらしかった。
井戸に通じる廊下から、最短の動線で脱衣所がある。
そこでタオルを使って、水気を拭き取り、沈んだ赤紫色が美しいビロードの法衣に着替える。
法衣に着替え終わったイリヤは、最後に逆十字のペンダントを首にかけた。この呪いのアイテムをヒューゴーからもらって以来、いつしかイリヤにとってなくてはならないものになった。今では精神的支柱だ。これを身に付けていると、気持ちが和らぐ。
それから礼拝堂に移動して、朝の祈りを捧げる。
この祈りの言葉が長い。全部で四十五分はかかる。
とてもじゃないが、覚えきれないので、冊子になった経典を見ながら、横一列に並んで聖なる言葉を読み上げる。
変声期を経ていない少年たちの澄んだ声が、礼拝堂に響き渡る。昇った太陽の光が差し、正面のステンドグラスが七色に輝いて、床を彩る。
たった一人、声変わりを終えているギルがお祈りをサボるとすぐに分かる。隣に立ったイリヤはギルが声を途切れさせると、すかさず蹴りを入れた。
そうすれば、すぐにギルはお祈りを再開する。イリヤの技とも言える蹴りは効くのだ。
お祈りを済ませば、次は教会内に散らばって、それぞれ担当の場所を清掃して回る。塵一つ落ちていてはいけない。小姑みたいなヒューゴーが確かめて回るので、これもサボれない。
そうして、七時丁度に係の者が鐘楼に登って鐘を鳴らせば、当番表に従って、これも係の者が、朝食の準備に取りかかる。
今朝の当番はイリヤとハイネだった。レシピ通りにピザトーストとアボカドとトマトののサラダとカボチャのスープを調理する。包丁を握るハイネの手つきがあまりに怪しいので、イリヤは後ろからハイネの手に手を添えて、
「左手は、猫の手、だ」
そう教えながら、アボカドを一緒に切った。
「で、出来ました!」
身長が足りずに踏み台に乗ったハイネが、嬉しそうに顔を輝かせるものだから、つい、イリヤは苦笑してしまう。
トマトは切りにくいので、補助なしでは失敗するだろうと思っていたら、案の定、
「トマトが、潰れて、切れません。あっ、いたい!」
指を包丁で切ってしまったようだ。
ハイネは血を見て怖くなったのか、今にも泣き出しそうな面構えになった。
「こんなの、舐めてりゃあ、治る」
イリヤはハイネの手を引っ張ると、切った指を口に持っていった。舌先で傷口を抉ると、鉄の味が口腔内に広がった。
しばらく、ちゅうちゅうと指を吸ってやった。
「ほら、もう、血は出ない」
イリヤが優しい声色を出すと、ハイネは不思議そうに切った指を見つめた。
「ホントだぁ」
ハイネに包丁を持たせるのはまだ早計だった。
カボチャのスープをかき混ぜる役を与えて、後はイリヤが調理を行った。
調理場の隣にある食堂へと朝ご飯を配膳する。そこにはヒューゴーの姿もあった。
「やぁ、おまえたち、朝のお勤めご苦労」
三十も半ばのヒューゴーは嫁ももらわずに、神父職に殉じている。朝の五時から活動しているイリヤたち使徒に比べて、朝七時の鐘で起きてくる神父をどう思うかは、各個人の自由だ。
朝食を美味しく頂いたあとは、皆揃って、
「ラートン」
と両手を組んで、神にお礼を捧げた。
「さあ、一服したら、楽しい、楽しい、勉強の時間だ」
ヒューゴーが手を鳴らして、使徒たちを鼓舞するが、彼らの様子は一様にどんよりしている。もとより、勉強が好きな子供などいない。だが、学校に行けない代わりに、午前中はヒューゴーがみっちり授業を行って、知恵を付けようとするのだ。
イリヤは結構、勉強は好きだった。学べるのは楽しいと少しだけ思う。知らないことを知れるというのは、世界に新しい発見をすることができる。
ヒースやユジュンのように、本好きにはなれなかったが。
ここにいる子供たちは、親の愛に恵まれなかった、不幸な子供が身を寄せ合って生きている場所だった。
イリヤは母に愛されていなかった。いや、憎まれ、疎んじられていた。
乳幼児の間はそれなりに構っていたようだが、赤ん坊が泣いてもあやそうとしない母親だったという。近所から苦情が出るくらいだった。
三歳を過ぎた辺りからは、食事は与えられるものの、世話は焼かなかった。育児放棄に限りなく近い。
それが顕著になったのは、五歳のとき、弟のリィヤが生まれたことだった。母親はリィヤに掛かりっきりになり、イリヤを完全に顧みなくなった。ネグレクトというやつだ。
言葉の暴力も酷かった。
『おまえなんか、生まなきゃよかった』
『生まれてこなければよかったのに』
等というそしりは、耳が腐るほど、繰り返し聞かされた。
暗い屋根裏に隔離されたイリヤは、満足な食事も与えられず、身体は痩せ細り、平均体重の半分ほどしかなかった。それでも、夜中にパントリーに忍び込み、未調理の素材を食って凌いだ。
ある日、それがバレて母親に殴り付けられたイリヤが睨み返し、牙を剥くと、母親は怯えてこう言った。
『おまえは鬼だ、鬼の子だ!』
と、狂ったようにイリヤを殴打し、蹴った。
それでも年月が経ち、リィヤが家庭の事情をうっすら理解し始めると、たった四歳足らずながら気を回して、一日に一回、もしくは二回、イリヤのいる屋根裏まで食事を運んでくれるようになった。イリヤはリィヤの情けで命を食い繋いだ。
イリヤは言葉が遅かった。早期にネグレクトされた為、言葉を母親から学ぶことが出来なかったからだ。九歳になっても単語を連発するのみで、ろくに話せないままだった。
リィヤは何故、母親がイリヤを忌み嫌うのか、まるで理解できないようだった。何しろ、自身は母の愛を一身に受けて育てられたのだ。リィヤにとっては優しく母性に溢れた母親だったのだろう。
肝心の父親だが、人気の彫金師で、家を空けることが多かった。工房に籠もりっきりになり、家に帰ってくるのは週末のみ、ということが常だった。
父親が帰る日だけはきちんと子育てをしている、という体で、イリヤの扱いも変わった。父親がいれば、食卓に席を設けてもらい、暖かな食事を囲むことが出来た。
父親はイリヤの成長が遅いことを大層心配していたが、母親の行っている所業には気付かなかった。毎週、自作のシルバーアクセサリーの指輪やネックレス、ピアスなどをせめてもの償いとして置いて帰った。溜まっていく装飾品を身に付けたり、眺めたりして、イリヤは微かに父親の愛を感じ取ろうとしていた。それだけが支えだった。
しかし、限界というものは必ず来る。
九歳を過ぎた頃、たまらず家を飛び出した。
街を彷徨うこと三日。
ある雨の日に、力尽きてイリヤは舗装もされていない、スラム街に近い路上で倒れた。
「なんやぁ、ぼん。行き倒れかいな」
「う……」
泥水をすすっていると、頭上から降ってきた声に、イリヤは僅かに目を開けた。
「おお、生きとる」
イリヤは視認出来なかったが、イリヤを拾ったのは、人猫族の青年だった。色素の抜けた淡い色の髪は長く、瞳の色はしたたる血のように赤かった。簡素な服装をしており、とても羽振りが良さそうには見えなかった。
イリヤが次に目を覚ましたのは、暖かで、ふわふわのベッドの上だった。
「あ、起きた?」
「おまえ、俺、違う……」
青年の頭には、猫耳が乗っかっていた。スラリとした痩身の尻の上からは尾が生えて、ゆらゆら揺れていた。
「えー、もしかして、自分とわいの種族が違うって言いたいん?」
「……?」
イリヤには青年の喋っている言葉が理解出来なかった。
「わい、イドゆうねん。ぼんは?」
「?」
「わい、イド」
青年は自分の名を言いながら、胸を指して叩いた。
どうやら、イドというのがこいつの名前らしいことは推測出来た。
「おまいの、名前は?」
「……イリヤ」
「イリヤゆうんや。磨いたら、偉いべっぴんな顔しとるから、びっくりしたで」
「腹、痛い」
空っぽになった胃が、きゅうきゅう絞られて、ついにはぐーと鳴った。
「あ、腹減ったん? ほな、これ食いーや」
イドは幕の内弁当をイリヤの前に置いた。イドが箸を渡す前に、イリヤは手づかみでガツガツと弁当を食べ始めていた。
「うわあ、えらい、ワイルドな食いっぷり」
弁当は三個あったが、どれも賞味期限切れのセール品だったことは、イリヤには関係なかった。ただ、ある分だけ腹に収めた。
空腹が満足に満たされたのは、いつぶりだろうか。
食べ終わったイリヤは、号泣した。意味が分からなかったが、ただ、涙が勝手に流れて落ちた。
イドに拾われたイリヤは、これも何かの縁だと、イドの世話になることになった。言葉と読み書きはイドから習った。半年も経つと、言葉には困らなくなった。体格も体重も標準値まで回復し、そうなると力を持て余すようになった。
母親への強い恨みと憎悪が、怒りと化してイリヤを暴走させた。スラム街に出向いては、売られるケンカは全て買って、相手を、例え年上でも、大人数でも、必ず叩き伏せた。
「また、ケガかいな。一体、外で何しとんねん」
夜は、イドにケンカの際に負った傷を、消毒してもらい、手当を受けるのが日課だった。
イリヤの荒れた生活を不安視したのか、イドに面倒を見てもらうようになり、一年が過ぎた頃。イリヤは教会に入れられることになった。
知り合いの神父に預けると、イドに言われたのだ。
「こいつ、別嬪さんな顔してんねんけど、性格ねじ曲がってんねん。矯正したってくれへん?」
「そうか。いいぜ、引き受けた」
ヒューゴーがイドと玄関先で話し込んでいるのを、遠巻きに、先住民のヨシュアとジュートが覗いていた。
イリヤがギロリと鋭い眼光を向けると、ひゃあ、と声を上げて奥へ散っていった。
この世界はキリスト教じゃないから、「アーメン」じゃないし、と考えていたら、いいのがあった。「ラートン」。これだと思い、「炎炎ノ消防隊」から頂きました。いいよね、「ラートン」。




