14 ヒースの事情1ー『カイムの冒険』
ヒースは物語の世界に遊ぶのが好きだった。
本はいい。知識と知恵と友を与えてくれる。見ることが出来ない景色を見せてくれるし、自分でない誰かの人生を追体験することも出来る。
ヒースは幼い頃から本の虫だった。
特に、『カイムの冒険』という大昔に、ダムナラヤ・キーラという作家が提唱した物語が好きだった。キーラは著作権を放棄しており、『カイムの冒険』を愛する作家たちが自由に物語を綴れるように、広く門戸を開いていた。いわば、共有財産である。
以来、百年以上に渡って、時代の波によって形を変えながら、数々の名だたる作家たちが様々な『カイムの冒険』を書き綴っている。今では原作者がキーラである事実を知らない読者も多いのが現状だ。
家の書庫には幸運なことに、キーラが最初に書いた、オリジナルの初版本が格納されていた。そのせいもあって、ヒースはオリジナルの『カイムの冒険』をこよなく愛していた。古くさいし、文体も独特で読みがたい面もあるが、原初だけあって主人公のカイムが冒険する様を、いちばん生き生きと描いている気がするのだ。
周囲の友達は、ヒースがいくらそれを訴えても、首を縦には振らなかった。皆、流行作家の最新の物語にばかり目が行って、オリジナルを敬う気持ちがない。けしからんことだ。
だが、最近になって、ヒースと意見を同じくする者が現れた。
テンに紹介された、ユジュンである。
ユジュンもキーラが書いた最初の『カイムの冒険』が最も好きだといい、ヒースの前で熱弁を振るった。
今でも克明に胸の昂ぶりを思い出せる。
あのときのユジュンのキラキラした瞳の輝きと、同志を見つけたときの喜びは今生、忘れることはないだろう。
ユジュンに貴重な初版本を見せてやると、大層珍しがって、まるで壊れ物を扱うようにして恐る恐るページをめくっていた。
挿絵も活版印刷の時代の版画であり、画家はとっくの故人だったので、特に物珍しがっていた節がある。
ユジュンは古いものから近代までの作品を幅広く読んでおり、ヒースがカバーしていなかった時代の面白い作品を勧めてくれた。それは、それで愉快爽快だった。やっぱり『カイムの冒険』は面白い。それが最終的な答えだった。
ユジュンも読書家で、すぐ意気投合した。
ユジュンは年上のヒースにも、物怖じしないし、腹が据わっている。将来は大物になる雰囲気がする。たぶん。
『君が背に乗れば、天国さ。
揺らすよ揺らすよ、ここは天国だ。
君がいればどこだって天国だ。
揺らすよ、揺らす。
どこまでも。』
小説の一節を思い出しながら、夕食を摂っていたヒースは、エビとシャケのキッシュにナイフを入れたまま、意識だけが遠くに飛んでいた。
「ヴィルヘルム、ヴィルヘルム! 聞いているのですか!」
母親が黄色い声を出してがなっている。
また、なにか面倒臭いことをつらつらと並べていたのだろう。眉間に皺を深く刻んで、青筋を額に立てていた。
ヒースはちょっと間、誰が呼ばれているのか分からなかった。
「ヴィルヘルム?」
父親までもが、心配そうな顔をヒースに向けていた。
ヴィルヘルムというのは、ヒースの本名である。もともと、『ヒース』というのは幼い頃に兄が、『カイムの冒険』に出て来る凄腕の魔法使いの名前から取って付けてくれたあだ名だ。
その兄が座るべき場所は、空席だった。夕食の準備もされていない。
「すみません。母上、父上。少し、ぼーっとしておりました」
「食事中に考え事ですか? しっかりしてください。あなたは、この家の跡継ぎなのですよ」
母親が目をつり上げている。
「跡取りは僕ではなく、兄上です」
「やめなさい、あの子のことを口に上らせるのは」
「ヴォルフガングはもういないのだ」
父親はどこか淋しそうな口調だった。
「あなた! その名を口にしないで頂戴ませ」
母親は椅子から立ち上がって、派手にテーブルを両手で打った。
ガシャン、と食器の揺れる音がする。
「兄上は死んだわけではありません。失踪者が死んだと断定されるのは、七年経ったのちです。兄上がいなくなってから、まだ一年と半年しか経っていません」
ヒースはとつとつと答えた。
「二度と、ヴォルフガングの名前は出さないでくださいまし」
母親は再び椅子に腰を下ろすと、忌々しげにナプキンで口もとを拭った。
ヒースの家は、上流階級の、いわゆる王侯貴族だ。
この都市国家アースシアを統治する政府の一翼を担う、由緒ある家柄だった。
だが、その跡取りとして幼い頃から蝶よ花よと英才教育を受けて育った五歳年上の兄、ヴォルフガングは一年半前に突然、姿を消した。
別れは突然だった。
あれは初夏の始まりのことだった。
夜中、ヒースがすやすやと睡眠を貪っているとき、突然、窓が開いて、強風が吹き付け、レースのカーテンが部屋に流れ込んできた。
「ヒース、ヒース」
バルコニーにいるらしい、兄が名前を呼んでいる。
「兄上?」
目を覚ましたヒースが眠い目を擦りながら、窓辺へ行くと、旅の装備を整えた兄、ヴォルフガングがそこにいた。
「俺は、行く。あとはおまえに任せた。おまえを残して旅立つことを許して欲しい」
「え? どこへ行くのですか?」
「やはり、俺は人猫族になりたい。死に縛られず、自由に生きたいのだ」
前々から、兄は常々、口癖のように『カイムの冒険』に登場するだけでなく、伝承として伝わる『不老不死の人猫族になりたい』と、ヒースに語っていた。
「なにか、手がかりが見つかったのですか?」
白いレースのカーテンが、風に揺られてふわふわと室内で揺れていた。
どこか現実離れしていて、これは夢ではないかと思う。
「ああ。突破口を見いだした。渡りを付けてくれる人猫族を見つけたんだ。俺は、人猫族の里へ行って、生まれ変わる」
「兄上、ぼくも連れて行ってください」
このまま、二度と兄に会えなくなるような気がして、ヒースは必死で両手を兄に伸ばしたが、それが届くことはなかった。
「いいや。行くのは俺ひとりだ。どうか、おまえのこの先の人生に幸多からんことを」
再び強風が吹き荒れた。カーテンの波がヒースを飲み込み、それが去ったと思ったら、兄はバルコニーから姿を消していた。
それ以来、兄の消息は知れない。
文の一つも送られてくることはなかったし、生きているのか死んでいるのかさえ分からない。
大好きな兄に置いて行かれたヒースは、一週間泣いて暮らした。
それから一年半、新たなコミュニティを手に入れたヒースは、今日も今日とて屋敷を抜け出す。二階の自室からロープを垂らして地面まで降り、走って門を目指す。運動音痴で体力もないに等しいヒースが、それをやるのは結構大変で、大事だったが、今ではもう、慣れた。
高い塀に囲まれた敷地から出るには、やはり、正面突破しか手がなかった。いつかのように木を登って塀を越えるのは、無謀過ぎた。
門までたどり着くと、鎧を装備した衛兵に声を掛ける。
「いつも悪いが、通してくれ」
「ヴィルヘルム坊ちゃん。今日も下界へお出でですか」
昼下がりのこの時間、担当しているのは大体決まっていた。衛兵が、目隠しを上げて、青い目を覗かせる。
「いつも通り、オレは部屋にいるってことで。よろしくな」
そう言って、衛兵に銀貨一枚を握らせる。
すると、衛兵は破顔して、
「どうぞお通りください」
と、いとも簡単に門を通してくれるのだった。
衛兵の買収なんて、金さえあれば容易なことだった。最初からこうすれば良かったのだ。
金持ちとナントカは高い所に住みたがる。
貴族の屋敷街は、アースシアの高台に位置する。平民と生活エリアがはっきりと分けられており、進んで降りていかない限りは、顔を合わせる機会もない。
ヒースは坂を下り、境界線を越えて、路面電車に飛び乗る。
下って下って、平民街にやっとこさたどり着く。
触れられない、触れないものが一番大事。
兄がよく口にしていた言葉だ。
ヒースは今、それを実感している。
「ヒース!」
「ヒース、おっそーい」
噴水広場のいつものたまり場で、テンとユジュンがこっちに向かって手を振っている。イリヤもいるが、背を向けたまま、ぴくりとも動かない。
新しく手に入れた仲間は、ぽっかり空いた兄の跡を埋めてくれた。
しかも、新しい遊びを見つけ、今、実践している。
このアースシア全土に散らばった、都市伝説を実証実験しているのだ。ヒースの調べでは現存する都市伝説は全部で十個。そのうち三つは潰した。
残るはあと、七つ。
今回はその中の一つを検証しに行こうと計画している。
「今日の、なんやったっけ」
テンがおやつのあんぱんにかぶりついて、食べながら喋ってくる。行儀が悪い。
「『怪異・化け猫の館』! だ」
ヒースは張り切って答えた。
事前に、近辺を調査して、住民から情報を集めており、館の場所は当たりをつけてある。それもこれも仲間あっての成果だ。
「ご主人が、化け猫に取り憑かれてるっていう?」
ユジュンがあんぱんを半分に割って、ヒースに渡してくる。それを受け取ったヒースは、生肉をかじる野獣のような荒々しい動作で、噛み千切った。
「そーだ」
ヒースはあんぱんを一気に食べきった。
「………」
その様子を、一番遠くに腰を下ろしているイリヤが、冷ややかな目で見ていた。
「なンだよ、イリヤ。なんか文句あんのかよ」
適わないと分かっていて、尚も突っかかるヒース。
「別に……」
それを柳の木のようなしなやかさでかわすイリヤ。
一個年上なだけで、この落ち着きっぷりは、どうにも羨ましいというか、妬ましくもある。
「いいじゃん、いいじゃん。イリヤ。これまでみたいに、楽しくやろーよ、ね?」
すかさず、イリヤの隣に座ったユジュンがフォローを入れる。
「ユジュンが、行きたいっていうなら、俺も、行く」
それだけだ、とイリヤはヒースから目線を外した。
「あーそうですか! ユジュン、ユジュンっておまえ、どんだけだよ!」
イリヤの行動原理はユジュン次第なのだ。ユジュンが望むなら、どんなことでもするのだろう。ユジュンがヒースを殴れと言えば殴るし、テンを蹴れと言ったら蹴るのだろう。そんな奴なのだ、イリヤは。
ただ、腕っ節が強く、肝がやけに据わっている。
何をするか分からない。そこがイリヤの怖い所だ。
「じゃ、そろそろ行くか、者ども!」
ヒースはジャンプして噴水の淵から地面に降り立った。
一行はのびのびしながら、噴水広場を後にして、問題の館へと歩みを進めた。
兄に勧められて読んだ、初めての『カイムの冒険』が、その作者との出会いだった。
驚いたことに、物語の舞台はここ、アースシアで、魔導師と人猫族の二人の青年が、十のセフィラに魔人アザゼルの封印を仕掛け、魂をモノリスに封じたのだという。
実際、下界に降りて中央公園にそびえ立つ、漆黒のモノリスを見上げたときの感動と高揚感は忘れられない。フィクションだとは分かっていても。
そして、ある日ある時、ヒースは気付く。彼の著書にとある仕掛けがあることに。それは複雑で難解で、でも規則性のあるアナグラムだった。魔術、科学、化学、農学、軍事、錬金術と幅広く執筆されており、多岐に渡るジャンルの著書をこの五十年の間に三百冊ほど出版していた。
ヒースはそれらを読み耽って、全部で十個のアナグラムの手がかりを得た。そこから導き出されたのが、今、潰して回っている都市伝説の元ネタだった。
「どっから、そんなネタ仕入れてくるん?」
テンはしきりに知りたがったが、ヒースは、
「内緒」
と、堅く口をつぐんだ。
その著者の名を、ルキフェン・リンドウという。




