1 遠雷
遠くで雷鳴が轟いている。
その日は朝から嵐で、雨が降り続いていた。よくバケツをひっくり返したようなと天気予報などで報じられるが、まさにそのような降り方だった。
夜半を過ぎてもそれは変わらず、まるで大地の穢れを洗い流さんとするかのように、雨は地上に打ち付けていた。
その嵐の中を駆け抜ける一台の馬車があった。二頭立てで、大きなワゴンを引いている。馬は泥水を跳ね上げながら、目的地である、とある屋敷の前で停車した。
屋敷は大国の植民地であった頃の都にあり、大国から解放された今では旧市街となっている。百年程植民地であったために、大国の建築物が多く、異国の雰囲気を色濃く残している。外観からしても頑丈な造りで、それなりの歴史を有しているのだろうと推測出来た。庭木は手入れが行き届いており、鑑賞するのに十分なレベルに達している。だが、一日雨に打たれた今ではしおれたように枝葉を垂れさせていた。
乗り付けた馬車から、一人の青年がワゴンのドアを開いて、滝のように降る雨の中、傘もささずに降り立った。いや、この雨では傘も用を成さないであろうが。青年は黒いレインコートに身を包み、外に出るなり、フードを目深に被った。打ち付ける雨が、撥水加工のされたレインコートを跳ねて、筋になって流れた。
「ここか…」
雨で視界のコンディションが最悪の中、青年は屋敷を見つめて呟いた。その声は、男性的でもあり、女性的でもあり、どちらとも取れる不思議な響きをしていた。
今日が嵐であることは、前もって週間予報で調べがしてあり、知っていた。決行するな
らこの日しかないと、ナユタは思っていた。
あの女を殺るなら今宵だ、と。
玄関ホールに置かれた振り子時計が、ボーン、ボーンと十二回鳴り響き、午前零時を迎
えた事を知らせていた。そこから伸びた大階段の踊り場で、ナユタと男の妻は対峙してい
た。
雨が窓を打ち付け、際限なく涙の後を残していく。風も酷い。木がしなるように揺れて
いる。稲妻が走り、時折世界を白く染める。何度か稲光がしたが、そのうち、落雷があっ
てどうやら停電を起こしたようだった。
僅かばかり光っていた照明が落ち、辺りは暗闇に包まれる。
「な、なにを…?」
深夜に呼び出しを食らって、訝る女に向かい、ナユタは背後に隠していたペティナイフ
を構えた。厨房から失敬したものだった。
稲光が、カッとホールを照らした。
世界は白黒だった。
「死んでくれる? おばさん」
凜とした澄んだ声がぽつんとホールに響いた。
「僕は自由になりたいんだよ。この腐敗した世界に落とされて、こんなもののために生ま
れたんじゃない」
ナユタは構えていたペティナイフの刃を、寝る準備をしていた無防備な女の腹に、思い
切って突き刺した。肉を抉る感触が、刃から伝わってくる。
「ぎゃあ!」
女は恐怖と苦痛にまみれた声を上げた。自分の腹部をまじまじと見つめる。
まだ、致命傷には足らなかっただろうか。ナユタは機械的な動作でペティナイフを引き
抜くと、二度、三度と更に女の腹や胸を突き刺した。
女は声も出せず、その場をふらついた。ナユタは彼女の腹を蹴って、大階段へと落とし
た。ゴロゴロと女は無様に階段を転げ落ち、階段下で仰向けになって動かなくなった。
今度こそ仕留めたかな、と階段を見下ろした時、奥の廊下から、
「うわああ!」
トイレにでも立ったのだろうか、女の息子が一部始終を目撃して、驚きの声を上げてい
た。ナユタはそちらを振り返った。
「ねぇ。今、君のお母さんを殺したよ。僕が憎い? 疎ましい? 殺してみる?」
ナユタは薄ら笑いを浮かべて、息子に向かってペティナイフの柄を差し出した。
息子は恐怖の余り、正常な思考を失い、その場に尻餅をついて、失禁していた。ぶるぶ
ると顔を横に振っている様は、壊れた人形のようだった。
「せいぜい僕を憎むがいいよ。そして、いつか殺しにおいで」
ナユタはペティナイフをその場の床に突き立てると、階段をゆっくりと降りた。
これまでのいびられ続け、苦汁に満ちた日々が一段降りる毎に昇華されていくようだ。
軽やかな足取りで階段を降りたナユタは、今や血だまりの海の上に浮かぶ女を見て、悪
魔のような笑顔を浮かべた。
「へぇ…まだ、息があるんだ。しぶといね」
女はぱくぱくと餌を求める金魚のように唇を動かして、必死で呼吸をしていた。この出
血だ。放っておいても絶命するのは時間の問題だろう。
母が死んだのは今から三年前のことだった。ナユタがまだ六歳の頃だった。
「お母さん、ただいま!」
帝都から東へ下った所に位置するアルテイシアの小さな農村スルジェ村。築十年余りの二階建てのアパルトメントの二階、階段を上ってすぐの左手がナユタと母の二人が住処とする部屋だった。バス・トイレ付きの1LDKで、母子二人で暮らすには十分だった。
「おかえりなさい、ナユタ」
キッチンに立って、夕餉の支度をしていた母は、振り返って微笑んだ。
「お母さん、これ、あげる!」
ナユタは後ろ手に持った花を二輪、母に向かって差し出した。
母は目を丸くしてから、そっとそれを受け取った。
「アイギスとセリアの花ね、珍しい」
しゃがみ込んでナユタと視線を合わせた母は、紫と黄色の花を見つめた。そのとき、首にかけた、逆十字のペンダントが揺れて鈍色に光った。
母はピンクのチュニックに、フワフワの白いフレアスカートを身にまとっており、どこか現実離れした、物語に出て来るお姫さま然としていた。年若く、まだ二十五にも達していなかったのではないか。
滅多に感情を荒立てることもなく、温和で優しい彼女が、呪い師を生業としていることは大変なギャップがあった。
「花言葉は、『清廉潔白』と『天使の一滴』って言うんだよ。図鑑で調べたんだ」
泥で表紙が汚れた植物図鑑をナユタは得意げに掲げた。
「そう。よく調べたわね。ありがとう。早速、食卓に飾りましょうね」
「森で見つけたんだ! いっぱい咲いてるところ!」
ナユタは母に褒められてますます得意げになった。
「そういうのはね、群生地って言うのよ。それにしても、ナユタ。また西の森に行ったの?」
母は顔から微笑みをすっと消して、ナユタを見つめた。
「うん」
ナユタは素直に頷いた。
「いい? 西の森の奥には行っちゃだめよ。恐ろしい魔物の主がいるからね」
「はーい」
「よく出来ました」
母はそう言って、ナユタをハグした。
母の長い亜麻色の髪が鼻をくすぐって、ナユタはクスクス笑った。母の体温が、温もりが伝わってきて、確かに自分は愛されているのだと実感するナユタだった。
ナユタは年の割に大人びており、他人に対する警戒心の強い敏感な子供だった。相手が自分に対して敵意を持っていないか、特に愛を持っているか、思いやりを持って接してくるかを慎重に観察して心を開くかどうか判断していた。
翌朝、アパルトメントの玄関を出て、先を急ごうとするナユタに向かって、声を掛ける者が居た。
「ねぇ、ナユタ。あの……一緒に、遊ばない?」
少し距離を取って近寄ってきたのは、同じ年頃の少女だった。近場では十人程の子供の塊が、事の成り行きを遠巻きに見ていた。
少女からは、遠回しな気遣いというか、微かな思いやりが感じられたが。
「シシリー。そんなヤツ、遊びに誘うなよ。マジョの子だぞ!」
「マジョの子と遊んだら、おれたちまで呪われちゃうんだぞ!」
遠方の塊から、少年二人のそんな心ない言葉が飛んできた。
「…………」
ナユタはシシリーを無視して通り過ぎると、さっさと歩き出した。
魔女の子。
母の持つ異能から、村人からは魔女、悪魔などと揶揄され、恐れられていることはナユタも承知していた。
であるから、村の子供とは相容れない。一緒に遊ぶなどということは皆無だ。西の森へ行くか、部屋で母の仕事を眺めやるかの二択だった。
「あ……あ」
シシリーが何か言いたげに口を動かしてはいたが、言葉にならず、ナユタを追おうとする手は空を切っていた。
誰も真実を知ろうとはしない。噂話ばかりを信じる。人間なんて、そんなものだ。母さえいればそれでいい。他人には、特に損得でしか動かない大人には期待しない。それがナユタのスタンスだった。
西の森は、母の言っていた通り、魔物の主が出るというので、村人は寄りつかず、ひっそりとしていた。
発見した花の群生地にたどり着いたナユタは、腰を下ろすと、次々とアイギスとセリアの花を摘んで編み始めた。紫と黄色をバランス良く取り入れて、花冠を作ろうと言うのだ。ナユタは喜ぶ母の笑顔を思い浮かべながら、せっせと手を動かした。
「出来た!」
ようやく編み上がった花冠を太陽に掲げ、ナユタは達成感に酔いしれた。早く母を笑顔にしたい。そんな思いでいつもよりずっと早い時間に帰途に就いたのだった。
帰り道、主婦の井戸端会議の集団を幾つか通り過ぎたが、どうにも不穏な噂話が多く聞かれた。
そのどれもが流行病についてだった。
「あそこの旦那さんが……」
「奥さんが……」
「一家もろとも……」
至る所で人が死んでいるのだという噂話だった。
そんなの知ったことじゃない、とナユタは水たまりをピョンピョン跳ねてよけて通ると、アパルトメントまで帰った。
「ただいまー」
そっとドアを開けると、空気がピリピリしている。
部屋に滑り込んだナユタは、来客中なのだと察した。
「おかえりなさい、ナユタ。お客さんだから、リビングで待っててくれるかしら」
「う、うん」
ナユタはダイニングを通り過ぎて、リビングのソファに身体を落ち着かせると、大事な花冠を横に置いた。
ナユタはソファの背から顔半分を出すと、ダイニングの方を見やった。
母の元には、毎日、四、五人の来訪者がある。老若男女、近い、遠方を問わず、様々な人間が母の異能をあてにして訪れるのだ。母は写真と名前だけあれば念じるだけで人を呪い殺す事が出来るという異能力を備えていた。その死の詳細を述べると、対象は例外なく心臓発作を起こして絶命する。つまりは証拠が、痕跡が残らず、自然死として処理されるのだ。あくまで突然死を装える訳だ。それだけに母を訪ねる客は後を絶たず、裏の世界では有名な能力者だった。
誰しもの願いを聞き届ける訳ではない。数回面談を重ね、それが呪殺に値する案件かどうか見極め、必要と思われたときのみ聞き受ける。
陰謀、人間関係のもつれ、怨恨、商売敵など、依頼は様々だ。
「本当に、よろしいんですね?」
商談がまとまったのだろう、母が客に対して最終確認をしている。
「ええ、ええ。早くやって下さい」
客は組んだ手に力を込めながら、ダイニングテーブルの上に身を乗り出した。
「では……」
母は写真を手に、目を閉じると、その名前を読んだ。
母が術を行使するとき、部屋の空気がひんやりと凍てついた気がした。
「成りました」
母が目を開け、そう言うと、
「は……?」
あまりの円滑さに客はぽかんと間抜け面を晒していた。
「確認が取れましたら、また、おいで下さい。残りの報酬を頂きます」
母は前金として、始めにかなりの額を取っておく。後金は微々たるものだ。それでもほぼ全員が報告がてら後金を納めに戻ってくることになる。
自分の手を汚さずして、憎い仇を殺せるのだから、そんな美味しい話はないのだろう。
嬉々として舞い戻って来る客をナユタも何人も見ている。
「では、また」
客を見送った母は玄関のドアを閉めて、ため息を一つついた。
そして、顔を上げると、微笑を浮かべて、ナユタの元までやって来るのだった。
「今日はなあに?」
母はナユタの隣に腰を下ろした。
「うん、これ、作ったんだ」
ナユタは丹精込めて作った花冠を、母に手渡した。
「まあ。今度は花冠を作ってくれたのね。ありがとう。きれいだわ」
母は微笑むと、花冠を頭に被って、ナユタを見た。
「どう? 似合ってるかしら」
「うん。お姫さまみたい」
「ほんとう?」
具合を確かめようと、母は部屋の隅に置かれた姿見まで歩いて行った。
「あのね、こんな噂話を聞いたんだ。ポートマンさんのところの家畜が、全滅しちゃったんだって。それから、一階の角部屋に住んでる家族の旦那さんも死んじゃったんだって。悪い風邪が流行ってるのかなぁ」
ナユタはほんの軽い気持ちで、考えなしに今日耳にした村人の噂話をした。
「そう……」
花冠を被ったまま、母は表情を曇らせた。
花冠はあんまりキレイでこのまま枯らすのも勿体ないと、ドライフラワーに加工して残そうと、壁に吊された。
興が乗った。
その日、森の奥に足を運んだのは、そんな単純明快な理由でしかなかった。
森の奥には不思議と開けた場所があって、どこか神聖な雰囲気さえした。
だが、あれだけ口酸っぱく母から注意されていたのに、森の奥にやって来たのはやはり失策だった。
森の空気が変わり、不穏当な気配が近寄って来るのがナユタにも感じられた。
グゥゥゥ……
獰猛な獣の吐き出す唸り声と、魔物が吐く邪悪な吐息。
ナユタの目の前に現れたのは、巨躯の熊に似た魔物だった。
「あ……、あ……!」
黒い影にナユタは恐れを成して、じりじり後退した。
魔物が右手を挙げ、振り下ろそうとした瞬間、何かがナユタの眼前を覆った。
それが人であり、最愛の母であることに気付くのに、数秒を要した。
「×××!」
何と言ったのかは、聞き取れなかった。ただ、おぞましい響きの言葉の羅列を母が言い放ったことのみが知れた。
こんなにアクティブに呪術を使う母の姿を見たことは、一度たりともなかったので、ナユタはただ、ただ、驚いた。母の動作は軽業師のように軽やかだったのだ。
魔物は見えない力、巨大なかぎ爪に引っかかれたように身体を分裂させ、霧散して消えてしまった。
「だいじょうぶだった? ナユタ」
荒い呼吸で、母が振り返った。肩で大きく息をしている。
「お、かあさん……? どうして?」
何とか紡いだナユタの声は震えていた。
「もしもの為のときに、依り代をナユタの身体にくっつけておいたの。ずっと見張ってたのよ。ナユタったら、危なっかしいんですもの」
母は肩をすくめてから、ナユタの背中に張り付いていた依り代を引っぺがした。
そんなものが仕込まれていたとは、ついぞ知らなかった。
知らぬところで母に護られていたのだ。ナユタは母に抱きついた。
「お母さん!」
「ほんとうに、悪い子ね」
母は、優しく頭を撫で、髪を梳いてくれた。
その一連の出来事を目撃していた人物がいる。木こりの男性だ。
「ぎゃあ! 呪いだ、呪いだ!」
仕事道具である斧を放り投げて、木こりの男性はその場を飛び出して行った。
それがきっかけで疫病の蔓延の元凶が母であると村中に知れ渡ることになり、母子の慎ましやかな生活に影を落とすこととなる。地獄の始まりだった。
「今日のお客さんは、もう帰ったの?」
「ううん。待たせてるわ。ナユタの危機一髪だったんだもの」
「ごめんなさい」
ナユタは母に手を引かれながら、家路を歩いた。
家で待ちぼうけを食らっていたのは、三十代半ばの男性だった。ティーポッドから何杯目かの紅茶をカップに注いでいるところだった。
「ホランドさん。ナユタも何度か会ったことがあるでしょう」
ナユタは男性を前に、母の影に隠れて様子を伺った。
確かに見覚えがある。母はどこからどう見ても可憐な乙女だ。毎度、高価な贈り物を押しつけては困らせている男だ。
ナユタはろくに挨拶もせずに、ダイニングを駆け抜けて、リビングに逃げ込んだのだった。
異変はすぐにやって来た。
悪い噂ほど、人の口に上るのも早い。
村人の恐れや恐怖が怒りと憎しみに変わるのに、さして時間は要さなかった。
疫病の蔓延は魔女のせい。
火あぶりにしてしまえ!
そして、神に許しを請うのだ!
「ナユタ」
その日の晩、普段ならば本の読み聞かせをしながら、ナユタを寝かしつけてくれる母の様子がいつもと違った。
「お母さんは、明日、逝くわ」
「え……?」
訳が分からない。ナユタは目をしばたたかせて、それでも母を真っ直ぐに見ようと努めた。
自分の与り知らない所で、何が起きているというのか。
まるで見えない。
ナユタはじりじりととろ火で炙られるような、焦りのようなものを感じた。
「ここにあなたがこの先生きて行けるだけの蓄えがあるから」
母は、そう言ってナユタの両手に通帳と四つに折りたたんだ書類を握らせた。
「私がこんな能力を持っていたがために。最後まで側にいてあげられなくてごめんなさい。強く生きてね」
母はナユタの前髪を梳き、露出させた額に、自分の額を密着させてそう祈った。
「お母さん、一緒にここから逃げよう?」
「……運命は、変えられないの」
既に定めを悟り、覚悟を決めている母に抱かれながら、ナユタはその晩、震えて眠った。
翌朝、朝食を食べ終え、身支度を整えたナユタは、
「着替えと身の回りの物を入れておいたわ。あと、通帳も。これでしばらくは凌げるはず」
母にデイパックを背負わされた。
そんなに重い物が入っているでもないのに、ずっしりと重量を感じた。
母子は寄り添い合いながら、そのときが来るのを待った。
「お母さん、いったい、何が起こるの?」
ナユタは不安でならなかったが、母は手を強く握りしめるだけで、答えてはくれなかった。
やがて、表に村人が大挙して押し寄せ、アパルトメントを取り囲んだ。ドアを叩く造作は乱雑で、鍵を開けないと分かると、すぐに蹴破られた。村の腕っ節の強い男衆が部屋に流れ込んで来て、土足で平穏な営みを踏みにじった。
「魔女め。疫病で村人を殺めた罪で、火刑に処する」
村長が言い放ち、男衆が力尽くで母からナユタを引き剥がした。
「離せ! お母さんになにするんだ!」
ナユタは暴れた。なだめすかしても懐かない馬のように。
「こら、暴れるな!」
暴れるナユタを、男が押さえつけた。成人男性相手に六歳児が勝てるはずもなく。その間にも必要性は感じられないが、部屋が荒らされ、ナユタと母の暮らしが壊されていった。
母の首と手と足には枷が嵌められ、鎖で繋がれ、引っ捕らえられてしまった。まるで罪人扱いだ。
「やめろ、お母さんに酷いことするな!」
尚もナユタは母を守ろうとして藻掻くが、それも無意味に終わった。
「その子には手出ししないで」
枷で自由を奪われた母は、悲しげな目でこちらを見た。
「そら、歩け」
鎖を引かれ、母はゆっくり歩き出した。地獄への第一歩だった。
「お母さんをどうする気なの?!」
ナユタは自身を押さえつけている男に、噛みつかんばかりの勢いで尋ねた。
「火刑って言っただろ。火あぶりさ。魔女狩りは火あぶりと相場が決まってる」
「お母さんは、魔女なんかじゃない!」
「はん。数々の悪行を俺たちが知らないとでも思ったか」
男はひょいとナユタを持ち上げると、小脇に抱えるようにして運んだ。まるで荷物だ。
「お母さんは、何も悪いことしてない!」
「まっくろけっけだよ、坊主。おまえには、特別に、特等席に案内してやる」
「離せ、離せ、離せー!」
「往生際の悪いガキだ。魔女当人の方が、よっぽど従順だ」
母は枷をつけられ、さながら奴隷か畜生のような扱いで、広場まで連行された。広場には前もって設営された火刑場があり、この案件が計画的に進められた公開処刑の場なのだと知れた。
一旦手枷などを外された母だったが、すぐに十字架に磔にされたキリストのように、縄で縛られ、自由を奪われた。
広場には全村人が集っていたのではないかと思われるくらいに混雑を極めた。群衆は殺気立ち、誰しもが『魔女を殺せ』と口を揃えていた。ナユタは母の目前に留め置かれた。
そして、ナユタは磔になった母の目の前で、火が放たれるのを見た。
枯れ木や藁などはすぐに燃え上がり、轟々と炎が渦巻き始めた。母はあっという間に炎に巻かれた。
「お母さん!」
母はずっとナユタを見ていた。
最後に、こう言った。
『ごめんね、さようなら』
声は聞こえなかったが、唇がそのように動いたのを、確かにナユタは見た。
母は静かに目を閉じた。最後に微笑さえ残して。そうして母は生きたままその身を焼かれた。なんと無惨なやり方か。
真っ赤な焔が、仲睦まじく身を寄せ合って生きてきた母子を引き裂いた。強く吹き付ける風が、集まった人々が煽っているかのように。
「うわああああ!」
燃え盛る炎を前にして、ナユタは発狂したように叫び続けた。黒煙が晴れた空に立ち上ってゆく。
どのくらいそうしていただろう。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
すっかり炭化してしまった母の亡骸の中から、ナユタは燃え残った逆十字のペンダントを掘り出した。ペンダントは先端が欠けてしまっていた。
「おっと。こんな呪わしいアイテム、裏マーケットに流してやる」
後始末と見張りをしていた男はナユタからペンダントをかすめ取った。
「あっ!」
せめて形見としてペンダントくらいは、とナユタは追いすがったが、男は取り合わず、ナユタを蹴り飛ばして去って行った。
「うっ、うっ、うっ……」
石畳の上に横倒しになったナユタは、その体勢のまま、嗚咽を漏らした。疫病が蔓延したのは母のせいではないのに、村人は母に罪を着せて火あぶりにした。神に許しを請うと言って生け贄にしたのだ。
こんなことが許されていいのか。
いいや、良いはずがない。
いつか、必ず復讐してやる……!
人々の去った閑散とした広場で、胎児のように身体を丸めていたナユタに、声を掛ける大人がいた。
カァカァ。
空は赤く燃え、カラスが巣へと帰っていく。
「一緒に来るかい……?」
ナユタが顔を上げると、そこにいたのは、あの母に言い寄っていたホランドという男だった。
男からは思いやりもくそもない、何の感情も伝わって来なかった。ナユタは警戒心を露わにし、差し伸べられた右腕を無視してその場に立ち上がった。
しかし、酷く荒らされたし、もうあのアパルトメントには住めないだろう。
「弱ったな……」
ホランドは後頭部を掻いて、心底困ったような表情を作った。
「……行く」
ナユタはホランドの目を見ることなく、そう吐き捨てた。
「じゃあ、行こうか」
ナユタは黙って頷き、歩を進め始めたホランドの後を着いていった。
ナユタは馬車に揺られている間も、列車に乗り換えた後も、俯いて自分の膝に乗った握り拳を無言のまま見つめ続け、何も口にしなかったし、ホランドとコミュニケーションをとることもしなかった。
ホランドはすぐに馬脚を現すことになる。
第二の地獄は、口を大きく開けてナユタを待ち構えていたのだ。
三日がかりでたどり着いたホランドの実家、ラートリー家は、ナユタが住まっていたアパルトメント全体よりも大きく、古いが立派な屋敷だった。玄関を入ると二階から続く大階段が正面に見え、左手には大きな振り子時計が設置してあった。
数日家を空けていた主人を出迎えた妻は、まずそれを責めた。そして、連れ帰ったナユタを見るなり目を吊り上げて、罵詈雑言を浴びせた。
妻はナユタをホランドの不貞の子だと決めつけてかかり、敵意をむき出しにした。
ホランドは言われるがまま、反論もろくにせずにやり過ごした。妻に頭が上がらない情けない立場の弱い夫なのだ。
案の定、ホランドはナユタを庇ってはくれなかった。口も心も開かないナユタを持て余した挙げ句、広い屋敷にただ閉じ込めた。
そこにナユタの居場所はなかった。
寝床も食事も与えられず、掃除用具入れや馬宿で寝泊まりする生活が待っていた。
それだけではない。不貞の子だと信じて疑わない妻に、執拗ないびりを受けた。
「ほら。お腹が空いたでしょう。これをお食べなさい」
腹が減って食堂に赴いたナユタは、優雅にモーニングを食べていた妻とホランド、息子と鉢合わせした。
無論、ナユタの朝食は用意されていなかった。
妻は、皿からフレンチトーストを床に落として、それをナユタに食べろと命じたのだ。
もう三日、なにも食べていない。空腹には抗えなかった。
生きて行くには食べるしかなかった。
「………」
ナユタは妻の足下に這いつくばって、フレンチトーストを食べ始めた。独特の甘い味はしなかった。ただ、屈辱の味だけがした。
「あははは、まるで犬畜生ね!」
妻は高笑いをして、ついでにナユタの頭上からミルクの入ったピッチャーを傾け、垂れ流した。
母に同調した息子も同じように笑っていた。
ホランドは座りが悪そうにはしていたが、妻の行為について口出しすることはなかった。
妻の仕打ちは言葉の暴力だけではなく、身体的な暴行に及ぶこともあった。手で、あるいは物で殴る、ヒールの踵で蹴るの暴力は日常茶飯事。
生卵をぶつけられたり、外を歩けば頭上からバケツの汚水をひっくり返されたり、泥まみれの靴を舐めることを強いられたり。種々雑多。枚挙に暇がない。
ナユタは、妻の家に寄りつかない夫へのフラストレーションのはけ口と化していた。
満身創痍で逃げ回る日々で、逃げ場所はたまたま見つけた書庫だった。そこには膨大な蔵書があり、ナユタは貪るように知識を蓄えた。
腹が減れば、厨房に行って隅っこに膝を抱えて座り続け、不憫に思った下働きの女性から残飯を分けて貰った。
特に、ナユタを気に掛けてくれるようになったのが、アメリという二十代半ばの侍女だった。
「固くなった昨日のパンと残り物のシチューだけど、食べる?」
年若く、ナユタはアメリにどこか母の面影を重ねていた。アメリからは思いやりの感情が微かにだが感じられたので、少ないながら言葉を交わすようになった。
ナユタは苛烈な三年間を、アメリの慈悲で食いつないでいたといってもいい。
ひっそりと息をしているナユタを疎ましく思ったのは妻だけでなく、年の近い息子も同じだった。両親から期待を一身に受け、それを煩わしく思っていた息子は憂さ晴らしのはけ口を母と同じくナユタに定めたのだ。抵抗も反抗もしないナユタを、息子は遊び感覚でそれはそれは手酷くいじめ、日々ストレスを発散していた。お陰でナユタの全身には生傷が絶えることがなく、玉のような肌が台無しだった。
侍女や執事の誰もが妻と息子のナユタに対する陰湿ないじめを見知っておきながら、助ける者はいなかった。主人には逆らえない、それもまた仕方のない事だったのかも知れない。
だが、黙ってやられているだけのナユタではない。澱のように二人に対する恨みを募らせ、爪を研ぎ、最後の手段に打って出る事にした。
その決行日が今夜の嵐だった。
復讐するは我にあり。
積年の恨みは晴らすべきだ。
地獄のような日々を耐え忍んだ自分にはその資格があると。
それがナユタを凶行に走らせた理由である。
女が命の灯火を消そうとしているのを、間近で観察していたナユタの背後で、不意に扉が開いて、雨風が吹き込んできた。
戸口に誰かが立っている。ナユタは後ろを振り返った。強風があちこちほころびた服を煽り、雨粒が目に入る。ナユタは瞬きをした。暗いので、誰がこちらを見下ろしているのかは不明瞭だった。
「一緒に、来い」
レインコートのフードを目深に被ったその人物は、声からして年若い青年であることが分かった。だが、性別までは知れなかった。男女のどちらか判別がつかない声をしていたのだ。
どうせこのままここにいても、どうしようもない。行く当てもない。ので、ナユタは見知らぬ青年が差し出した手に、手を伸ばした。
青年はぐっとナユタの腕を引いて、座り込んでいたナユタを起き上がらせた。
「その女性は死んでいるのか」
「ううん。まだ、かろうじて息があるよ」
「そうか」
青年は女に頓着もせず、ナユタの罪を追及するでもなく、手を引いてナユタを嵐の中へと連れ出した。
外は思ったより酷い嵐だった。ナユタは青年に腕を引かれ、雨風にもみくちゃにされながら馬車までの道を歩かなければならなかった。
馬車のワゴンに乗り込む頃には、全身濡れ鼠になっており、前髪から雫がしたたり落ちていた。ワゴンの中は一転、ランプの明かりが揺れる、平穏な空間だった。青年はレインコートを脱ぎ去り、タオルをナユタに手渡した。
「これで、水気と血を拭うといい」
ランプの明かりは、ナユタの罪の証である返り血が、顔や衣服に飛び散っているのを明るみに出していた。顔を拭うと、水で滲んだ血液がタオルに移った。
ワゴンが一瞬大きく揺れて、馬車が発進したようだった。
ナユタは改めて、目の前に座る青年の容貌を観察した。年の頃は十七、八歳。やや紫がかった濃い青色の髪を肩口まで無造作に伸ばし、長いまつげに縁取られた双眸はくすんだ紫がかった蘇芳色をしており、その上には柳の眉が乗っている。なだらかな線を描く鼻梁に、紅を差したような赤く薄い唇と、細い顎。なかなかの美青年である。
「僕は殺人犯だよ。怖くないの?」
ナユタの赤裸々な告白にも、青年は動じない。
「私も過去に人を殺めた経験がある。責めるつもりはない」
ナユタは真鴨色のくせっ毛を、わしゃわしゃとタオルでかきむしるようにして拭った。
「ヘテロクロミアだと聞いてはいたが、実際に目にしてみると、珍しいものだな」
ナユタの目は左右で色が違う。左は氷河の深い割れ目に見えるような澄み切った青緑、薄浅葱色であり、右ははかなげな薄い空色、忘れな草色をしていた。年の割にはっきりとした自己主張のある整った顔立ちをしていて、蝶になる前のさなぎではあるが、将来は有望だろうと思われた。
それにしてもこの青年、まるでナユタを知っている風に言う。ナユタは警戒してまじまじと不躾な視線を投げつけた。
その視線に気付いたのか、青年は右の髪を耳にひっかけてから、名乗った。
「私は、ユリアン・ユリシーズ。ユーリと呼べ。おまえは?」
「僕は、ナユタ。ただのナユタ」
「ナユタか」
「僕のこと知ってるの?」
「ああ、よく知ってる。生い立ちを含めて、その出自にまつわる秘密まで」
「出自の秘密?」
「それについては、落ち着いてから話そう」
ユーリは腕を組んで顔を伏せ、それっきり口を開かなくなった。
こんな真夜中だし、眠いのかも知れない。大人なのにおかしいな、とナユタは思った。
窓の外は依然として雨脚が強い。まるで大地の上で見えない竜が暴れているようだった。竜の咆哮は雷鳴と化し、そのブレスは雨風と化す。
馬車は旧市街地を離れ、新市街地の高級住宅地のあるエリアへと入って行った。そして、一軒の屋敷の玄関前に乗り付けた。ユーリとナユタは馬車を降り、足早に玄関をくぐった。
「誰か!」
玄関ホールで立ち止まったユーリが、奥に向かって叫ぶと、すぐに初老の侍女が飛んできた。こんな夜更けでも応答する侍女がいるのかと、ナユタは驚いた。前もって出かけることを知らせておいたのかも知れない。
「お帰りなさいませ。ユリアンさま」
「ああ。この子を風呂に入れて、例の部屋で寝かせてやってくれ」
と、ユーリはナユタの背を押した。
ナユタは侍女に預けられ、ユーリは去った。
「さて、おぼっちゃん。バスルームへ行きましょうか」
侍女は笑うと、ナユタを促して歩き出した。ナユタはその後を追う。
これから風呂に入れるのだという。ちゃんとした風呂を浴びるのは、久方振りだ。体臭が匂うというレベルまでは達していないだろうが、近々で身体を洗ったのはいつだったろうか。
くんかくんかと、腕や身体の匂いを嗅いでみたが、雨に流されてしまってよく分からなかった。微かに鉄の匂いがしただけだった。
バスルームへ着くと、脱衣所で侍女が駕篭を持って、ナユタに話しかけた。
「脱いだ服はここに入れて下さいまし。随分、くたびれているようなので、処分させて頂きますが、よろしいかしら」
ナユタは黙って頷くと、濡れて重くなった衣服を脱ぎ始めた。脱いだものから駕篭に入れていく。
「新しいお召し物はこちらで準備いたしますのでね」
ナユタはまた、黙って頷いた。
「一人で湯浴みは出来るかしら…?」
「背中とか、上手く洗えないかも知れない」
手が届かないから、とナユタが子供らしい頼りなさを示すと、侍女は笑って、
「では、お背中を流すのをお手伝いいたしましょう」
と答えた。
風呂場に入って、公衆浴場のように広い規模に一驚し、侍女に背中を流してもらった後は、全身を自分で洗った。髪の毛はよほど汚れていたのか、シャンプーのポンプ、ワンプッシュでは足りずに、二度、三度と足して、ようやっと泡が立った。泡ごと汚れをシャワーで流して、ついでにトリートメントというものも試しに髪に塗ってみた。容器の表示にあるように三分数えてから流すと、何やらくせっ毛が大人しくなったような気がした。
身体の洗浄が終われば、広い湯船に張られた湯に浸かって、至福の時を過ごす。肩まで浸かっても、バタ足をしても自由だ。怒られない。ゆっくり長風呂を楽しんでから、ナユタは浴室を出た。脱衣所の駕篭には、子供用の寝間着が畳んで置いてあった。それを着終わった時、見計らったかのように、さっきの侍女が再び現れた。
「お部屋はこちらですよ」
侍女に案内されて広い屋敷の中を歩き、通されたのは、随分とファンシーな部屋だった。星空と帚星が走った壁紙や、山と積まれたぬいぐるみの数々。積み木や、敷かれたレールの上を走る列車の玩具まである。まるで託児所だ。対して、部屋の中央に鎮座する天蓋付きのベッドは大人向けのキングサイズで、ナユタが一人で寝るには広すぎた。
一人では心許ないので、ぬいぐるみの中から幾つかピックアップして、ベッドの両脇に置いて一緒に眠ることにした。
「では、お休みなさいませ。明日の朝、また起こしに参りますのでね」
侍女はナユタに掛け布団を被せながらそう言い、最後に明かりを落としてから部屋を出て行った。
ナユタは目を閉じると、すぐに深い眠りに落ちた。
これまでの悪夢が嵐と一緒にどこか遠くへ去って行くような気がした。
お疲れ様でした。ここまで読んで下さり、ありがとうございます。
ちなみに、ユーリの声は、斎賀みつきさんか小林沙苗さんで脳内変換してみて下さい。
ずっと、そのイメージなので。